誰のためにも鎮魂の鐘が鳴る
蔵前
プロローグ
私の愛を受け取ってちょうだい
さあ、朝の始まりよ!
私は今日も迎えた幸せな一日の為に鏡の前に向かった。
面長な私の顔は頬が少しぷっくりして、あの豹に変身しちゃう映画の主人公にそっくりだわ。じゃあ、今日は深紅の口紅を塗ってみようかしら。あらあら、学校の先生が真っ赤な口紅なんて。
私はそこで思い出し笑いをしてしまった。
いいえ、これから起こることへの期待からの喜びの笑いだわ。
愛するあの子。
いやあね。
彼はとっくに成人した立派な人なのに、あの子、だなんて。
でも、私の方がずっと大人だから、つい、ね。
そうよ、同世代の女性ではできない心遣いが私にはできるの。
愛しているわ、一緒にご飯に行きましょう、そして、あなたが奢ってね。
なーんせんす!
働いて自立している女が男に奢って貰う?
違うわよ。
本当に自立している女は、奢ってあげるの。
フランスの大女優も言っていたじゃ無いの。
私にはお金も名誉も地位もある。だから男に望むのは美しさだけ、と。
最高だわ、そうなの。それなのよ!!
ああ、愛いしているわ、美しきジョスラン。
「エミリー。具合でも悪いのか?」
バスルームのドアが開き、まるでカビが生えたトドみたいな男が顔を出した。
私の配偶者となって十五年、私の配偶者としてはくたびれすぎてしまった。
それでも優しくて相手の気持ちがわかる私は、彼を捨てた後の彼の気持を考えるとこのまま飼い続けてあげなければと思ってしまう。
私って何て犠牲的精神の持ち主なの。
ダニーと別れたら、私はジョスランの愛に応えてあげる事が出来るというのに。
どうして私がこの世に二人といないのかしらと思いながら、ダニーを見返すと、彼は、まあ、私の返答をずっと待っていたようよ。失敗した時の犬みたいな表情を私に対して見せているなんてと、私はご褒美を上げる気持でダニーに微笑んだ。
「具合なんて悪くないわ。元気いっぱい。最近の子供は教師の身だしなみに煩いのよ。とくに、大昔のドレスみたいな服を着ている子がいて、その子特に扱いが難しいの。どうして女性が抑圧されていた時代の服を着たがるのかしら。理解できないわ」
「ハハハ。大変だ。でも僕は好きだな。その噂の女の子はパラディンスキのお嬢さんだろ?ツンとすましているけど、挨拶もするいい子だよね」
「まあ!あんな年から男性の気を惹こうとしていただなんて。町の汚点のパラディンスキ家そのものだわ」
「エミリー。出自で人を判断するのはいけないよ。今日の君の台詞は焼餅ってことで聞き流すけど」
トドが私に意見した?
パラディンスキ家はこの町のギャングじゃないの。あなたの家はおかしいのよって、子供のうちにわからせてあげることこそ真っ当な大人じゃ無いの?
そうよ、今日はあの子に、真っ当な大人になるにはどうしたらいいのか、の提案を百くらい書いてくる宿題を与えましょう。
道を外れる可能性ばかりの子供を導く素晴らしき方法を考え付いた事で、私から一瞬前の苛立ちが消えた。
だから、身の程知らずなダニーにいつもの笑顔を返せた。
「焼餅で聞き流してちょうだい。では行ってきます」
私はバスルームから出ると一直線に台所に行き、テーブルの上に置いておいた私の愛そのものが入った紙袋を取り上げた。
健康には野菜が一番。
彼のために私は家庭菜園も始めたのよ。
ケールにセロリにリンゴにアボガド、そこに、ウフフ、私の愛入り。
独り暮らしの男の子は食事がおざなりになりがち、そうでしょう。
私が、彼には足りないものを補ってあげるの。
私は楽しい気持ちでガレージに行き、自分の車に乗り込んだ。
「電気自動車はガソリン臭くなくていいね」
「きゃあ」
私は心臓が止まるかと思った。
だって、後部座席に私の彼が寝ころんでいるのだもの。
シルクみたいな質感の髪は月の光のように金色に光り、ふんわりと巻き毛になって目元に落ちている。私に悪戯っぽく微笑む瞳は一番星のように煌くサファイヤブルー。何て高級そうでなんて神々しいほどに美しい人!!
彼は座席に寝転がったまま、猫みたいな笑顔で私に甘えてくるではないか。
「ねえ。君のダニーに見つからないようにゆっくりと車を出して。見つかったら僕達の恋は薄汚れた不倫と言うものになってしまう」
「ええ、ええ!その通りだわ!」
私はいつも以上に注意しながら車を出した。
誰にも見つかってはいけない。
私の宝石を誰かに奪われてたまるものか。
「公園に行こうよ。愛する君」
「が、学校は?」
「僕達には十分も割く事が出来ないのかな、君は」
「いいえ、いいえ!」
私はアクセルをぎゅっと踏んだ。
急いで急いで、私達の十分、いいえ、もっとの時間を手に入れるのよ。
私達の永遠の為に。
公園の駐車場に車を入れた時も、私は注意を重ねた。
誰かに見咎められちゃいけない。
ジョスランを奪われちゃいけない。
「大丈夫よ。私に何か相談事をしたかったのかしら?」
「もっとすごい事がしたいんだ。汚い場所で僕もちょっとだけど、行こうか、トイレに。僕はもう我慢が出来ないんだ」
私は駐車場から見える公衆トイレの建物を見返し、そして再びジョスランを見返した。彼ははにかんだようにして微笑んでいる。
全く、男の子はいつまでたってもやんちゃな男の子なのね。
「行きましょう」
「わお。じゃあ僕は君の愛を持って行こう」
「トイレでスムージーを飲むの?」
「出る時は別々になるからね」
「まあ、いけない人」
私達は連れ立って、勿論誰にも見咎められないように気を付けながら、公衆トイレの中に入った。
「思ったよりも汚れてないのね」
「汚れすぎている方が君にぴったりだけど、汚れには僕が我慢できなくてね。下僕に掃除させておいた」
口調が変わったと愛する人を見返せば、いつの間にかジョスランはゴム手袋を嵌めていた。彼が握っているのは、ダニーが買ったばかりだと喜んでいたフィッシングナイフと同じものだった。
「ぐふ」
「ダニーは切れ味が今一つって言っていたね。僕は別に綺麗な魚の開きを作るつもりは無いから、これで充分かな。まずは声帯を潰した。あとは十分以内のマグロの解体ゲームだ!!」
私は生きながら、自分の胸骨というものを見る事となった。
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