第12話 家主のいない豪邸

 愛梨沙はしばらく目を閉じて考えているようだったが、ゆっくり顔を上げると、やっと裕星に話しかけた。


「奇蹟は起きるかな? 私の足が治って、私が生きていられるようになるのかな。それとも、私は誰にも愛されずに海の泡になるのかな?」


 裕星は愛梨沙がやっと口を開いてくれたことで、ホッと胸を撫で下ろした。

「奇跡は起きるものじゃないよ。自分自身が起こすものなんだ。黙ってそこにいたら、奇跡だって動かない。だけど、君が前に進みたいと願うなら、きっと君が奇跡を起こせる。


 俺は君の王子さまなんかじゃなかったかもしれない。だけど生きていれば、心から君を愛して、君も愛せる人とこれから出会えるんだ。その人が君の本当の王子さまだと思うよ、俺じゃなくてね。だから、全ては『水の泡』 なんかじゃない。何も無駄な時間なんて無かったはずだ。

 君の両親はきっと君に生きていてほしいと願っていると思うよ」


 裕星の言葉にいつしか愛梨沙の瞳は涙で溢れていた。

 大切に抱えた『人魚姫』の絵本の上にポトリポトリ涙の粒が落ちて滲んだ。


 裕星は慌ててティッシュを引き抜くと、ハイと愛梨沙に渡した。愛梨沙は、まるでデジャブのような初めて会った時と同じ裕星の行動に思わず吹き出してしまった。


「アハハハハ……」

 涙を拭きながら大きな笑い声が出た。


 裕星も釣られて笑った。

「君は今生きてるんだ。君がこれから見ていくのは『死』なんかじゃない、『未来』だよ。今生きていることを感じていてほしい。

 あの2日間君と一緒にいたとき、君は活き活きしていたよ。死の影すら見えなかった。あの時の君なら絶対に『死』に勝てると思った。

 だから、もう一度約束し直してくれないかな。一年後にここの浜辺で会おう。その時君が元気に俺の前に現れてくれるまで俺はずっと待ってる。だから約束してくれないか?」


「…………うん。約束、だね」

 愛梨沙は唇を噛み、はにかんで言った。


 裕星は愛梨沙の髪をクシャクシャと撫でると、「良かった! やっと元気になったね。明日からまた歩く練習頑張ってくれるね? 一年後またあの浜で会おう。その時まで期待して待ってるよ」と満面の笑みを見せた。


 裕星が愛梨沙が全てを納得したように晴れ晴れとした表情になったのを確認して、腰を上げ帰ろうとすると、「あの……美羽さんは大丈夫ですか?」と愛梨沙が小さな声で呼びとめた。


 裕星は振り向いて、「美羽は大丈夫。君が笑顔になれば、それが彼女が元気になれる元だから」とニコリとした。愛梨沙は肩をすくめて恥ずかしそうに笑顔を見せた。


 ――良かった。彼女は後少しの命でも頑張ろうとしている。たとえそれが不確実なことでも希望を失えば、たちまち命の炎も消えてしまいかねなかった。


 裕星は外に停めておいたベンツに乗り込むと、助手席の美羽を見て微笑んだ。

「待たせてごめん。愛梨沙ちゃんは納得してくれたよ。それどころか美羽の心配までしてくれていた。――もう大丈夫だ。これから先は彼女の生きたいと思う生命力を信じるだけだ。

 そして、俺たち一年後にまた会おうと約束をし直してきたよ。


 美羽、色々気遣いをありがとうな。

 美羽の気遣いは決して無駄じゃなかったよ。彼女に少しの間だけでも歩こうとする希望を持たせてくれたんだからな。それがなければ、もしかすると今頃は……。いや、俺は信じるよ。奇跡は起こせるものだって」


「裕くん。私も信じてるよ! そして、今回の事は本当にごめんなさい。これからはちゃんと裕くんと相談してからにするね。でも、愛梨沙ちゃん、本当に良かった……」

 そういうと美羽の目に涙が溢れて止まらなくなっていたのだった。


「泣くな。美羽は本当に泣き虫だな。どうにもならないことなんて世の中にないんだよ。たとえ死に直面したときでも希望を忘れてはいけないということに俺は気付いたんだ。

 それに気付いた人間は強くなれる。美羽はそのままでいい。そのままの、ドジで純粋でそして温かい美羽でいてほしいから」鼻の下を人差し指で擦って照れている。



 ベンツは、心地よい沈黙の中で幸せに浸る二人を乗せ、都内に向け月明かりの下を滑るように走っていった。








 ***約束の一年後5月某日***



 5月になると、暖かい日差しの日が多くなって来る。

 裕星がこの春のコンサートの構成を考え新曲を作っていたが、ふとカレンダーに目を落とし、赤い丸印の日を見つめた。

 明日の日曜日、裕星はまた逗子の別荘の海岸に行く。


 あれから愛梨沙とは連絡をとっていたわけではなかった。彼女がその後どうなってしまったか、裕星には分からなかった。

 途中、社長から「阿刀田さんの娘さんがあの別荘を引き払ってどこか地方に引っ越されたようだ」と聞いていたが、彼女のメールアドレスも聞いておらず、あの場所には誰もいないとしたら、そこから先の連絡先を知る事は難しいだろう。

 裕星は、もしかすると、愛梨沙が本当に亡くなってしまっていて、それを切っかけに姉が引っ越しをしたのではないかと、ふと悪い方向に考えそうになって急いで止めた。


 とにかく約束の日は明日だ。あれから彼女は歩けるようになったのだろうか? そして、今頃は新しい土地で普通の女の子のように活き活きと暮らしてくれているだろうか?

 だが、もし……彼女の言葉通り、あの時長くない命で、この世にもういないとしたら……。

 何度もよぎってくる嫌な考えに、裕星はブルルっと頭を振った。


 翌日の朝、裕星は美羽を車に乗せた。美羽も一緒にあの場所に行き、彼女の元気な姿を見たいと思ったからだ。


 あの海岸までは一時間も掛からなかった。一年前と同じように、海岸通りの広々とした道は、車の通りが少なく、堤防の向こうに広がる青々とした海原うなばらは、ところどころ穏やかに白い波を立たせていた。


 美羽が海を見ようとベンツの助手席の窓を開けると、心地よい風がびゅんびゅんと吹き込んできた。

 髪をなびかせながら、窓の縁に頭を付けて遠く水平線を見ている。


 裕星はそんな美羽の様子を優しい笑顔でチラチラと見守っていた。

 二人は言葉を交わさず、好きな音楽を聴きながら、美しい逗子の景色に見とれていた。

 愛梨沙と本当に会えるのかどうか、裕星にも自信が無かったが、彼女はきっと約束を守ってくれる。きっと生き抜いていてくれる、と信じていた。



 ベンツはなだらかな丘を目指して上って行った。

 遠くに見える懐かしい建物は、外観は一年前と全く変わっていなかった。

 大きな敷地に車を停めて、美羽にはそのままで待っているように伝えると、裕星は建物へ向かって行き、玄関のドアの前で少しためらいながらベルを押した。


 リリリリ……あの時のベルの音そのままだった。


 しかし、誰も出てくる気配がない。裕星はもう一度押してみた。しかしいくら待っても物音ひとつしなかった。

 裕星は一階の大きな窓の方へと回り込んで窓から中を見ようとしたが、厚いカーテンで遮断され、一切中の様子は分からなかった。

 仕方なく美羽のところへ戻っていった。

「裕くん、どうだったの? 誰もいなかったの?」と美羽が心配そうに訊いた。


「――ああ、やはりここにはもう住んでないみたいだな。まだ時間があるから街の方に行ってみようか」


 丘を降りたところにあのカフェがあった。裕星は車を停めてカフェの店員に丘の上の家の阿刀田という家族について尋ねた。

 しかし、カフェ店員は、半年前に引っ越されてからはまだ誰もあそこに住んでいない。と言っただけで、あの姉妹についても全く何の情報も得られなかったのだ。


「裕くん、もうここにはいないのかな? 愛梨沙ちゃんはもしかして、もう……」

 泣きそうな顔で裕星を見つめる美羽に、「いや、まだ約束の時間になっていない。あの浜辺に降りてみよう」とまたベンツを丘の上の屋敷に向けて走らせたのだった。

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