第1話 人魚姫

「そう言えば……俺、昔、海で命を助けられたことがあったんだよな――」


 久しぶりの休日、裕星がソファーにもたれながら、隣で旅番組の船のシーンを観ている美羽に呟いた。


「え? 命って――。そんな大きな事故に遭ったの?」


「いや、事故と言うより遭難かな」


「遭難?」


「――実はデビューする少し前のことだけど、ライブハウスで演奏していた20歳くらいの時だったかな、俺は子供のころから海釣りが好きで、休みの日には一人でよく海岸に行ってたんだけど、あの時はたまたま釣り船の船長と知り合って、他の釣り客と一緒に船に乗せてもらったんだ――」


 裕星が遠い目をして話し始めたので、美羽は観ていたテレビの音量をそっと低くした。


「その日の朝は晴れていい天気だったのに、昼過ぎになると黒い雲が出て来て、どんどん暗くなってくるし風も強くなってきたんだ。嵐になりそうで危険だということで船長が沖から引き返そうとしたんだけど、急激に雨は激しくなってくるし波が荒れて来るしで、なかなか操舵そうだが上手く行かないみたいで大変だった。

 その内、こんな小さな釣り船なんて、まるでジェットコースターみたいな波で上下に揺すられて、俺も欄干に捕まるので精いっぱいだったよ。


 その内、とうとう本格的な嵐になってきて、船長に救命胴衣を付けてはいても海に投げ出されたら最後助からないなと言われた。俺はまだ若かったから甘く考えていたのかな、あの時は波を被って船が壊れそうだったから、むしろ海に飛び込んだ方が助かるんじゃないかと思っていたんだ」


「そんな……。それで、裕くんはどうしたの? まさか……」


「海に飛び込んだ。──実は雨で手が滑って海に落ちたんだけどな。だけど、辺りは暗くて何も見えなかったから、自分が一体どこに流されるのか、船はどうなったのかも分からなかった。ただ、波の上に出て息をすることだけで必死だった――想像をはるかに超えて体力が奪われた。体は冷え切ってくるし息は出来ないし、もう俺は海で溺れて死ぬのかなと悟ったよ。


 でも、そのとき、近くを民間の大きなクルーザーが通って、俺を助け上げてくれたんだよ。もう少し来るのが遅かったら、本格的な嵐に巻き込まれて、たぶん助からなかっただろうな――釣り船の客もなんとか無事に港に戻ることができたんだ」


「そんな怖いことがあったのね――。でも、助かって本当に良かった!」


「急激な悪天候で海のど真ん中だろ? あのままクルーザーが来てくれなかったら、俺は今頃ここにいなかったんだなと思うと今でも怖いよ」


「本当ね――。でも、そのクルーザーはどなたのだったの? 誰が裕くんを助けてくれたの?」


「そのクルーザーの持ち主なんだけど、今はもう亡くなってしまったそうだが、個人でやってる貿易関係の会社の社長だったらしい」


「社長さん?」


「ああ、たまたまその日は朝から天気がいいから家族でクルージングしていたそうだ。でも、急に嵐になりそうだったから急いで引き返していた途中、俺たちの船を見つけて近づいてきてくれたと言う訳だ」


「良かった! もし、その方がいなければ、裕くんはこの世にいなかったかもしれないなんて……本当に助けて下さってありがたいわ! 裕くんの命の恩人ね! 社長さんのご家族は今どうしているの?」


「あのすぐ後で礼を言いに行ったきりだったが、どうやら、その2、3カ月後、社長とその奥さんの二人だけで行ったクルーズで、船の故障で二人とも亡くなったそうなんだ。残された幼い娘さんが二人いたはずなんだが、今はどこで暮らしているのか……」


「――分からないの?」


「ああ、ご両親が亡くなられてからは全く連絡が付かなくて……」


 裕星は唇を噛んで眉をしかめながら言った。


「だけど……あの時、俺はあの暗い海の中で声を聴いた気がしたんだ」


「声?」


「うん。嵐だったし、激しい雨と波の音で声なんて聞こえるはずないのにな……でも、今思い出したよ。あれは美羽の声だった……」


「私の? どうして海の中で私の声がしたって思ったの?」


「どうしてかは分からない。でも、確かに美羽の声だったんだよ。間違えるはずはない。こうして毎日のように聞いてるし、不思議なこともあるもんだな――」








 ***逗子のある別荘***



【昔々、誰も知らない深い深い海の底に人魚の王国がありました。

 人魚のお姫様たちは16歳になると海の上の世界を見る事を許されていました。

 末の人魚はお姉さんたちに話を聞いて人間の世界に胸を躍らせていました。


 とうとう彼女が海の上に出られた日、大きな船の上で人間たちがにぎやかに歌い踊っている姿を見ます。その中に一際美しい人間の若い男がいました。大勢いる人間の中でも美しい笑顔と上品な振る舞いが目立っておりました。

 人魚は初めて見る人間の男にすっかり夢中になっていました。


 しかし、辺りは見る見るうちに黒い雲が立ち込め、激しい風で波が大きくうねり嵐になります。

 大きな船も水の上の枯葉のようにグラリグラリと揺すられ、とうとう男は船から海に落ちてしまいました。


 人魚は荒れ狂う波を泳ぎ、必死で彼を助けようとします。意識も無くぐったりとした彼を抱きかかえて、やっとのことで浜辺まで泳ぎ着きました。


 彼が息をしているのを確かめると、人魚は安心して王子をそっと砂浜に寝かせてあげます。

 そして、改めて彼の顔を覗きこむと、人魚は息をのみました。

 なんて美しい人なのでしょう。白く透き通った肌、逞しい胸と腕。長い首に掛かる柔らかい黒髪。人魚はいつまでも見ていたい気持ちでしたが、遠くで誰かの声が聞こえます。

 慌てて海に飛び込んで、人魚は岩陰で彼の様子をじっと見守っていました。


 すると、綺麗な女性がやってきて、王子に駆け寄り抱き起します。すると、王子はやっと彼女の腕の中で目を覚ましました。


「あなたが私を助けてくれたのですね? 海の中でずっとあなたの声が聞えていました」王子は女性に感謝します。その女性は、近くの修道院の修道女でした。

 人魚姫はその様子を見ていて、自分の存在を全く知らない王子に悲しくなってしまいました。

 海の底に戻ってからも人魚は王子を忘れられませんでした。


 とうとうある日、意を決して海の魔女のところへ薬をもらいにいきます。

 それは『ひれが人間の足に変わり陸の上でも生きていける薬』だったのです。

 その薬を飲むと、魔女に言われた通り、足がナイフで抉られるように痛み、声も失ってしまいます。

 それどころか、あの薬をくれた魔女がこうも言っていました。


「お前がこの薬を飲んで王子と結ばれキスをしたら、お前は王子といつまでも人間として幸せに暮らせるだろう。しかし、よくお聞き、もし王子がお前でなく他の女を選んだら、お前は海の泡になってしまうだろうよ」と――。


 人魚が痛む足で浜辺に倒れていると、あの王子がやって来てお城に連れて行ってくれました。

 そして声の出ない人魚を大切にもてなして、優しく接してくれます。

 ある晩、王子が人魚にこう言いました。「僕は昔、海である女性に命を助けられた。その女性は君に良く似ています。しかし、彼女は修道女だから結婚は出来ないのだ。もしいつか結婚しないといけないとしたら、彼女に似ている君と結婚するよ」と。


 しかし、その修道女は修行の為に隣りの国からやってきた王女さまだったのです。王子はそれを知ると、人魚との約束など忘れ、王女様を妃に迎えてしまいます。――結婚式の夜、人魚姫が海辺で声も無く泣いているとお姉さま方が現れてこう言います。

「この剣で王子を刺しなさい。そして王子の血を浴びればお前はまた人魚に戻れるのです。もし、それが出来なければ、お前は海の泡となって死んでしまうのよ」差し出した短剣は、お姉さまたちが魔女に大切な髪を売って手に入れたものでした。人魚姫は短剣を手に王子の寝室に向かい、王女様と幸せそうに眠っている王子をじっと見つめます――しかし、人魚姫はとうとう王子に短剣を突き刺すことは出来ませんでした。

 その日の朝、人魚姫は海の泡となって天に昇っていきました】(ハンス・クリスチャン・アンデルセンの『人魚姫』原作より)



愛梨沙ありさ! 今日はいいお天気よ。外に出て一緒にお散歩しない?」

 突然、姉に呼ばれ、愛梨沙はハッと我に返り、慌ててパタンと本を閉じた。

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