第26話

 後夜祭に円香と五度目のキスをしてからもう一週間になる。

 十月になったのにまだ暑い。冬服に移行したのがまだ早いって感じる外気温と室温だ。蝉の声を恋しくは思わずとも、円香と私の家で食べたかき氷はまた食べたい。

 さて今が十月の第二週ということは、つまり円香と初めて会話してから四か月が経とうとしているのを意味するが、その時間経過が「もう」なのか「まだ」なのかは曖昧だ。一方で高校生になってから半年過ぎている事実に関しては「もう」である。あっという間だ。

 

 シス庭は今年で六周年を迎えるソシャゲにしては長寿の域に入るところなのだが、アイドル達の年齢は変わらない。来年には私も鏡花ちゃんの年齢に並び、そして次の都市には追い越すのだと思うと、感慨深くもあるが物悲しくもあった。いやいや、もしかしたら運営方針が変わって彼女たちの時間を進める可能性は残されている。画面の中の彼女たちが未来を語り、そこに希望を見出すとき、微笑ましくなるだけではなく次元の壁の存在を確かに感じているのは私だけではないだろう。


 ところで、文化祭で円香は私といっしょに出店を回りたがっていたが、叶わなかった。私たちのクラスはチュロスの屋台を開いたのだが、当番スケジュールは私と彼女とでは一切かぶっていなかったし、その他の時間は普段から表で交友している面子との先約があった円香だ。私と円香は裏で繋がっている。と言うと、いかがわしいかな。


 本気で付き合ってほしい、愛してほしいと円香は口にしてこない。

 言葉ではなく唇を使ってそれを伝えているのだという解釈もある。あるいは、それを言わないのは今の私との関係が壊れるのを恐れているか。私を信じて、ってことはたぶんない。彼女が私を信じていると、そう彼女を信じられないのなら、やはりまだ私は彼女に恋をしていないのだろうか? けれども世の中の色恋がそれほど純度が高く透き通っていて、それでいて壊れ得ぬものかと言えば、ノーだと思う。

 つまるところ、私は宮沢円香という一人の綺麗な女の子が私に寄せてくれる好意に甘えっぱなしでここまできた。キスの回数を数えている場合じゃない。そろそろ決断を、一つの区切りを私なりにしておきたい。

 それを後夜祭にて行うつもりだったのだけれど……文化祭が終わって一人でぼーっとしていた私を円香は見つけて、ぐいぐい手を引き、他に人影のない場所まで来るといきなりキスしてきたものだから、勢いに負けてしまった。「来年はいっしょに」と彼女は言っていた。私は肯いていた。でも彼女に「約束はできないって顔している」と心を見透かされてしまい、今度は肯定も否定もできずにいたのを覚えている。


 困った時の星見柚葉だ。

 そんなわけで私は昼休みに彼女に相談する。不思議なもので、円香との距離が縮まれば縮まるほどに柚葉とも仲が深まっていく気がしている。先日、それを柚葉に遠回しに伝えたら「それ、あの子に言わないでよ。刺されるのは御免だわ」と言われた。いまいち意味がよくわからない。円香って柚葉に嫉妬することってあるんだろうか。そんな素振りないけれど。私も円香と二人のときに敢えて柚葉を話題にすることも少ないからわからない。そこで「もしかして裏の裏で円香から虐められているの?」と訊いたら「裏の裏は表よ。……あの子が私を直接的に牽制してくるなんないわよ。むしろ私がある意味で弱味を握っているんだから可愛がりたいぐらい」と笑っていた。冗談と信じたい。


「目を閉じて想像してみなさい」

「どうしたの、急に占い師みたい」

「いいから早く」

「勝手にから揚げとらないでね」

「私がお昼に揚げ物食べないの知っているでしょ」

「うん。………これでいい?」

「そういえばあの子とキスするときって目を閉じているの?」

「ねぇ、それ今言わなきゃダメ?」

「――――想像してみて。たとえば今日の帰り道、宮沢さんが一人で歩いているのを見つけました」


 帰り道、か。今日は木曜で部活がない彼女は用事がない限りは図書室に来てくれる。私がいるそこに。それから二人で途中まで帰る。夕暮れの空の下で私は自転車に乗らずに引いて、彼女の歩幅に合わせて駅まで送る。二学期からそうしている。

 風の噂では円香は、二学期になってますますバスケ部の一年エースとして磨きがかかっているようだ。本人曰く、名誉挽回。あの夏の練習試合の一件については、とくに先輩の誰かからきつく当たられることはなかったと聞いた。


「集中できていないわね? ちゃんと想像して」

「はいはい」

「咲希は彼女に後ろから声をかけようとしましたが、彼女の横からさっと見知らぬ男子がやってきました。そして二人は楽し気に会話しながら歩いていきます」

「私は? そのまま尾行するの?」

「逃げ出したいなら逃げ出せばいい」

「ううん、近寄って声をかける」

「そう。すると、彼はなんと宮沢さんの彼氏でした。ちゃんちゃん」

「終わらないでよ」

「じゃあ、どうする?」

「どうするって……」


 私は目を開く。柚葉はこっちを見ずに胡麻やマヨネーズと和えた細切りの人参をポリポリしている。


「まさかとは思うけれど、そんな光景を実際に目にしたんじゃないよね」

「さあ」

「柚葉!」

「想像してみて。相手が彼氏じゃなくて私や他の女の子で、宮沢さんと腕を組んで帰りでもしていたら。そしてあの子が咲希には見せたことのない笑顔ってのを」

「ありえない」

「なぜ?」

「だって……」


 あの円香が私以外と、そんなことするわけがないって思っている自分がいた。彼女の性格や人柄を根拠にして。浮気性ではない、もしも私から心が離れたらそう言ってくれるって。いや、そうじゃない。受け入れたくない私がいるんだ。円香が誰か別の人を大切に、特別に想っているのを。


「もういいでしょ」


 そう言ったのは私ではなく柚葉だった。


「あんたは宮沢円香の隣、あの子の一番がいいんでしょ?」


 意地の悪い笑みを浮かべる親友に私は何も返せずにいる。


「こんなのお悩み相談じゃないわ。答えは既に吉屋咲希の中にあるのだから。ま、いちおうは背中を押してあげるわよ。さっさと言葉にしてやりなさいよ、愛しているって、本気で恋しちゃっているって」

「でも……」


 それから先のことは何も考えていないのに? 私と円香、女の子同士で本気で付き合って、それでそのままどこまでいけるのだろう。周りに隠したままで過ごすのか、それとも親しい友達には告白するのか、そうしたらどうなるのか。柚葉があの時忠告してくれたことなのに。

 柚葉は無責任だ。当然だ。当事者たちが責任を持つのが道理だ。そうだよね?


「べつに文学的な恋でなくてもいいかな」


 自分でびっくりするぐらい掠れた弱々しい声を柚葉に、というより宙に投げていた。柚葉はうってかわって聖母の如く微笑んで、そして何も言わなかった。




 二学期になってから木曜日の図書室は大抵、二人占めだった。私と円香で。学校司書のシフトが変わったからだ。私が読み終えたばかりの『門』を書棚に戻すと、円香が入ってきた。時間差があるのは彼女を慕う友達たちがなかなか教室で彼女を離してくれないから。円香は、図書室には私に会いに行くと隠さず言っているのだという。ともすれば、私たちの関係を何か普通でないとみなしている子もいるかもしれない。嫉妬深い子がいたらどうしよう。


「なに考えているの? 文学少女さん」

 

 カウンターの内側、円香は私の左隣に腰掛ける。


「あー……ええと、たとえばこの図書室にバスケットボールがいくつ入るかについて」


 咄嗟に私はそんなフェルミ推定じみた発問をする。彼女がくすくす笑って、恥ずかしくなる。その口角の上がり具合ひとつにドキッとする。円香ったら夏を越していっそう大人っぽく、色っぽくなっている。ドキドキさせられることが多い。


「難問だね、それは。バスケットボールの大きさ、知っている?」

「これぐらい?」


 私は両手で不可視の球を幅を再現しようとする。


「女子は6号を使うんだけど、直径が23センチ余りだったかな。男子が使う7号とそんなに変わらない。向こうが鉄球でこっちがピンポン玉ってことはない」

「へぇ」

「私の歩幅がだいたい75センチ」

「え?」


 円香は立ち上がり、壁際にいくと図書室の端から端までを縦横と二度に分けて歩いてみせた。


「縦が26歩と少しだから、約20メートルで横が11歩届かずだから8メートルってところかな。横幅については普通教室と同じで、奥行きもざっとその二つ分。で、高さは私二人分もないから3メートルちょっとかな。うん、3メートルでいこう」


 円香は私の隣に座り直すとスマホを取り出し、電卓アプリを起動させた。はじめからあるやつだ。


「というわけで、この図書室を一つの直方体をみたとき、その体積はおよそ480立方メートル。それじゃ、咲希。本棚や机、椅子、エアコンで図書室のどれぐらい占めているって思う?」


 私は円香が言ったそれらを頭の中で全部、壁際に寄せたり積んだりして、まとめる。さながら箱庭ゲームだ。


「半分いかないぐらいかな」

「うーん、それじゃあ四割ってことにしとこうか。したがって残り六割の空間にボールを押し込めていこう」

「いこうって……」

「球体だけど面倒だから一辺が23センチの立方体で処理するね」


 それ、ずるくない? 

 私がそんなことを思っている間にも彼女の計算が進む。そうして私の思い付きから始まった概算を終えて彼女はにんまりした。


「約237個でどう?」

「業者か」


 業者でも一度にその数を卸さないといけない現場ってどこだ。


「ふふっ。リラックスしたところで、今日はまたどうして難しい顔していたの? 教えてほしいな」


 そんなふうにして彼女が私が話しだすタイミングを作る。

 ああ、そうね。たしかにリラックスできたかも。


「237個もいらない。この図書室にバスケットボールは――――」

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