第24話

 立ち上がった円香が、駆け寄ってきたチームメイトの一人に何か言っているのが見えた。身振り手振りからしても、おそらくプレイを継続する意志を示している。残り時間を考えれば当然だと言える。

 てっきり相手側のファウルだと思っていた私は動揺していた。しかしそんな私にお構いなく、相手側のフリースローがはじまる。円香がぶつかった相手選手が軽々とゴールを決めた。

 結果、その一本のフリースローこそが勝敗を分けたのだった。


 試合が終わり、ベンチでの反省会が早々に始まったかと思えば、三分程度で解散となった。次の二軍・三軍同士のゲームに向けて部員たちが動き出している。

 円香は顧問に声をかけられ、何か話していた。そして他の部員とは別のほうへと歩きだす。さっきまで同じコートにいた一軍チームの一人が脇から円香に声をかけるが、円香は首を横に振っている。そしてついに彼女は体育館を一人で出た。わずかだが左足を引きずっているよう見えた。そこまで見届けてから私は急いで一階へと降りて、彼女のもとへと向かう。


「円香……」


 彼女は体育館を出てすぐの水飲み場兼手洗い場で、靴を脱いで左足のくるぶしあたりに水をかけて冷やしていた。そうした用途が想定されているのか、校舎内にある水飲み場と違い、洗面台や流し台に相当するものがない。彼女の腰の高さにある蛇口から出る水が真下におかれた綺麗な素足を濡らす様子は、どことなく官能的だった。


「見つかっちゃった」


 円香はちらりと私を見てからそう言い、視線を落とした。冷やしている足の状態をうかがうためだけではないだろう。気持ちとして沈んでいるのだ。さっき彼女に声をかけてきた部員は付き添いを申し出て、それを彼女は断った。そんなところだろう。

 私たちは目線を交わすことなく話す。


「大丈夫、軽い捻挫。十五分もこうやって冷やして、湿布を貼っておけば明日か明後日には治っているよ」

「そっか。大事に至らなくてよかった」

「ねぇ、笑わないでね。…………また音が聞こえたの」


 音。彼女が階段から落ちる理由になったあれ。


「あの時と同じ?」

「ううん、全然違う。前みたいにノイズ混じりで一音ずつがじれったく並んでいくって感じじゃない。今さっきのはもっと澄んでいて、明るくて、嬉しくて……ノリノリだった。音楽を聴きながらリズムに乗ってバスケしているみたいな」


 円香が蛇口を捻って水の勢いを弱める。

 それまでが強すぎたのだ。


「相手のシュートの邪魔をするその瞬間まで、音楽に浸っていたの。どっぷりと浸りながらびゅんびゅんって体を動かし続けていた」

「集中力と高揚感によってもたらされたものじゃない?」

「わお。冷静な分析」

「あり得る話だって思うから。精神疾患からくる幻聴よりは、アスリートとしてのゾーンに入ったという解釈のほうがいいでしょ」

「そうだね」


 沈黙。水が流れる音が近くから、蝉の声が遠くからする。

 太陽がじりじりと私たちを焼く。私も水浴びでもしようかなって気になる。


「……かっこわるいところ、見せちゃった」


 その呟きもまた顔を上げずに落とされた。でも流れはしない。私は円香の傍に寄ると、その頬をつついた。彼女が反射的に顔を上げ、こっちを見やる。


「充分、かっこよかったよ」

「けどっ! あれじゃ私のせいで負けたようなものだよ」

「なに言っているのよ。試合終了間際に同点までこぎ着けたのは、円香の活躍あってこそでしょ。ゴール下であんなもみくちゃしていないで、ぱぱっとボールを奪ってゴールへと向かえばよかったのよ。それはどちらかと言えば先輩たちの役目じゃん」

「そうかな」

「そうだって。ああ、べつに先輩たちを悪く言うつもりないよ。でも、円香がそんな顔するのはなんだかなって」

「だって、咲希に抱きしめてほしかったから」


 唐突に落ち込んでいる理由が挿げ替えられた。やれやれ。

 

「……汗まみれの女の子を抱く趣味はないわよ」

「それ、なんかえっちだね」


 ぷすっとまた彼女の頬をつつくと、ようやく彼女が笑った。


「さて、と。今日はもう帰ろうかな」

「ごめんね。私が横について今から始まる試合を解説してあげたらいいんだけど。監督や他の子たちの目もあるから」

「そもそも円香が出ていない試合を見る気にならないって」

「ふふっ。そっか」

「えっとさ、前にも話したとおり、明日からお盆終わるまでは忙しいから遊べない。お墓参りや親族の集まりに参加しないとだから」

「うん、聞いた。私も似たような感じ。時間あったら電話してもいい?」

「そんな話すことある?」

「ただ声が聞きたいってときもある」


 恋する乙女の顔だった。今度は私が顔を背ける番。


「あー……まぁ、うん。時間あったらね」

「夏休み後半は、どこか行こうよ。咲希の部屋も好きだけど、やっぱり夏らしい場所で夏らしい遊びもしたい、思い出を作りたい」

「わかった、わかったから。急に元気にならないで。その顔でバスケ部の人たちのところ、戻らないようにね。たぶん印象よくないから」


 負けは負けなのだ。怪我をした敗者がうきうきで戻ってきたらおかしい。

 それはまぁ、負けたら泣くべきだとか精一杯悔しがるべきだなんて思わないけれど。感情の強制、押し売り。柚葉が前に「泣ける映画って銘打たれたやつ、嫌いなのよね。感動必至って頭悪いキャッチコピーだわ」って言っていた気がする。


「じゃあ、また数日後に。怪我、ちゃんと治しなさいな」

「待って」


 汗の香りが近づく。宮沢円香のそれは不思議と嫌な匂いではなく、むしろ夏の日差しですくすく育った甘酸っぱい果実みたいで惹かれさえした。――――彼女が私の頬にキスをしたのだ。軽く。異文化における挨拶のようなキスだった。


「これぐらいは許してくれるよね?」

 

 言葉とは裏腹に円香の表情は張りつめていた。それで私は肩を竦めると「私はね」と返した。親しい相手に頬に軽くキスされたことで怒り狂うほどに私は体力が有り余ってはいないし、吐き気を催すほどに他者との接触に敏感でもないから。けれども、周囲の目がどう捉えるかは別だ。私はサッと、周りを見渡す。誰もいない。オールライトだ。ゴシップにもスキャンダルにもならない。


「我が校の女子バスケ部では親愛と信頼を示すために部員間で頬に口付けするのが習わしになっている、って話ではないんだよね?」

「咲希が好きだからした。それがすべて」


 ああ、そうだ。こういうやつだった。

 あー……クソ、熱いなぁ。



 

 失って初めて大切さがわかる。

 それは理解できるし納得できるし、一つの真理だとは思う。でも、それがたとえばちょっとした事柄にも適応できてしまうと、かえって混乱する。ようするに、こういうことだ。なんとも思っていなかった子としばらく会わなくなっただけで寂しく感じる自分が変だって。

 夏休みに入る前の平日、夏休み入ってからも三日に二日は会っていた円香と会わずに過ごしたお盆の四日間。メッセージのやりとりも通話も数度あった。そうだというのに、これまでになかった感情が私の中にある。物足りなさ。いくらなんでも、人肌恋しいとは言わないけれど、日常的に鏡で目にする自分、その頬を撫でてあの子の唇を思い出すというのは普通ではない気がする。


 本当になんとも思っていなかった?

 自問すれば自答はノーを示す。

 たとえば旅行を計画してくれている私の家族。

 たとえばクラスにいる、教室の中でしか話すことのない友達。

 たとえば最近、母娘二人で二泊三日の四国旅行を満喫したらしい柚葉。

 たとえば卒業してからは、めっきり連絡を取り合うのが少なくなった中学時代の同級生たち。

 そうした人たちに抱いている気持と円香に対するそれはいっしょにはできない。それをはっきり恋愛感情だとみなせたのなら。それなら私たち二人は結ばれて、早い話、幸せなんだろうがそう簡単にはいかない。


 涼しい部屋で少女漫画をぱらぱらとめくる。他にも恋愛小説を流し読みする。柚葉が「私は好きじゃない」と言った大ヒットした恋愛映画を視聴してみる。

 わかんねーな、恋って。

 ただ、私は宮沢円香を想うだけでは胸が締め付けられはしないし、会いたくて会いたくて震えるなんてそんな症状に至っていない。それもまた現実だったのだ。


 ……難しく考えすぎなんだろうか。

 お盆明け、円香に数日ぶりに会ったそのときに自分に呆れた。

 たった数日ぶりの再会に彼女は眩い笑顔で嬉しさを私にぶつけてきて、私もまた喜びがあった。これでいい、これでと思えた。

 その日はこれまでとは逆に彼女の部屋を訪れていた。私室が見られるのをやたらと彼女は恥ずかしそうにしていた。目を引いたのは本がずらりと並んだ本棚と、夕日の染まる景色のジグソーパズル。詳細をうかがうと、ヴェネツィアだという。水の都ってやつか。円香にとってジグソーパズルは小さい頃の一人遊びのレパートリーの一つだったそうだ。完成したもののうちのいくつかを引っ越す際に持ってきたとのことだった。

 口にはしなかったが彼女の匂いがその部屋にあった。それと、さすがに私の隠し撮り写真が壁にびっしりと貼ってあるだなんてストーカーじみた光景はそこになかった。そういえば私たちってツーショットもないし、プリクラもしたことないな。


「ちょっと考えてみたんだけれど」


 私のために円香が事前に用意してくれていた、ペットボトルに入った透明な炭酸飲料を一口飲んでから私は切り出す。蓋を閉めると、しゅわっとしていた。


「どうしたの、まるで別れ話でもするみたいな表情」

「いや、付き合っていないでしょ」

「知っている。もしかして夏休みの宿題を写させてほしい?」

「そっちはそっちで検討しておく。あまり捗っていないから」

「もしかして私のせいかな」

「そんなことはない。たとえ円香がうちに何度も遊びに来て、持ってきた勉強道具を広げることなくダラダラと過ごす日が何日もあったとしても」

「それ、私ばっかだらけているみたい。咲希だって、勉強する気が全然ない日があったよ」

「ん、ん。宿題の話はともかくさ」


 私は仕切り直す。彼女が普段使っているクッション、そこに座り直した。それは一人分しかなくて彼女はぺたんと座っている。生足だ。綺麗にムダ毛が処理されているのが嫌でもわかる。そしてあの日捻った左足には既に湿布も貼られていない。


「ええと、けっこう深刻な話?」

「どうだろう。円香が怒るか悲しむか、それとも逆かわからない」

「なにそれ」

「ねぇ、円香…………今でも、私のことが好き? 恋愛的な意味で」

「うん。好きだよ。でもあまり刺激しないで。今は家に私たちの他に誰もいなくて、そしてここは私の部屋だっていうのを忘れないでほしい」


 ちらっと彼女が視線を流す。その先には彼女がいつも眠っているベッドがあった。確かめてはいないが、彼女がそこで誰かと肌を重ねた経験はないはずだ。


「あー……じゃあ、この話はなしか」

「どういうこと?」

「いや、忘れて。暑さにやられたみたい」

「教えてよ、咲希。何を言おうとしたの?」


 初めて図書室で会話した時にはなかった親しげな調子が互いにある。そんなことを今、思った。そして私はもう一度、ペットボトルに手を伸ばし、蓋を開ける。ぷしゅっと小さな音。それを合図に私は告げる。


「私たち、試しに付き合ってみようか」

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