一章 弟待つ雪
一 あなたのよすがと成る日のこと
着物の襟から彼の手が侵入する。私の中に浸食するように、彼がいつも触れるのは、左の鎖骨だった。痩せて誰よりも浮き上がった私の鎖骨に彼は手を這わせていく。
――あの日から、私の鎖骨は彼のものだった。
そこで、
雪は音もなく降り続け、庭園を白く染めつつあった。
その日は否に慌ただしく、雪代は朝から父に危険だから外には絶対に出るな、と言い含められた。そして父が出て行ってしばらくしないうちに、彼は来た。
「雪代様。
幼い頃より何度も聞いた女中、タヱの柔らかな声に雪代は幼馴染の訪いを知る。
「通してください」
「はい」
タヱが立ち上がって、去っていったのが分かる。同時に、雪代の頭上に影が落ちる。
「……正年。今日は、どうした?」
正年の影を受け止めて、雪代は問うた。
「君の父上に頼まれた。……今日一日は君の護衛だ」
影に隠れた正年の顔を見つめながら、雪代は頷いた。
正年は背筋を伸ばして正座していた。
雪代はそんな正年の姿を見て、力なく笑んだ。
「君は、一日そうして座っているつもりなのかい?」
「護衛だからな」
「楽にしてくれて良い。どうせ、この家には私と、タヱしか居ない」
それに、と雪代は足を崩した。
「……君に聞かせる物語がもうすぐ出来上がる」
正年は驚いたように目を開いた。
「まさか、お前、それを理由に」
東京を出なかったのか、と続く正年の言葉を止めて、雪代は外を見た。
「……ひと月前にね、また、喀血したんだ」
白く染まる庭を眺めながら、雪代は続けた。正年は青ざめた顔をしていたが、雪代は知らない。意図して正年の顔を見ないように努めているからだ。
青ざめた正年の顔を見るのは、辛かったからだ。
「今、外に出ると体がもたないそうだ。だから、避難しなかった」
「分かって、残ったのか……?」
雪代は頷いた。
「父から、聞いた。詳細までは知らないけど、ここに砲弾が落ちるかもしれないのだろう?」
「だったら何故!」
声を荒げる正年の顔を雪代はようやく見た。荒々しい声に反して、その顔は苦痛に満ちている。
凛々しくつり上がった眉。形の良い切れ長の二重の目。すっと通る、鼻梁に引き結ばれた唇。
若い女中が顔を赤らめる正年の、苦痛に満ちた顔を見るのは自分だけなのだ。
雪は静かに降り続けている。
二人の呼吸の音すら吸い込む雪の影が畳に躍る。
正年は何も言わずに自分を見つめる雪代の、どこか覚悟を決めた目にただ、息を吐いた。
そうして足を崩して胡座をかいた。
雪代が決めたことを曲げないことは正年が一番、知っている。
「……何かあれば、俺が盾になる」
正年に言わせた言葉の惨さを受け入れて、雪代は力なく頷いた。
そして雪代は、正年に見守られたまま、原稿用紙に残した物語の続きを書くために万年筆を手に取った。
静けさに満ちた部屋の中で正年と二人、部屋にいる。時折、炭の崩れる音を聞きながら、顔をあげる。
原稿用紙に列ねる物語は、雪代と正年の、物語だ。望めど敵わぬ道行きを赤裸々に書いた。
原稿用紙の上で、雪代は――。
その先の言葉は音もなく続く。そうして終わりを迎えた物語を前に、雪代は万年筆の蓋をしっかりと閉めた。
「正年」
顔をあげて、名前を呼ぶ。誘われるようにして正年が雪代の傍に体を移動させて、それから手が伸びた。
鎖骨を隠す雪代の長い髪を後ろに流して、正年は鎖骨の真ん中に親指を入れた。
この時、雪代の命は正年の手の中にある。
そうして正年は、ゆっくりと左肩の方まで触れて、次に人差し指、中指、小指、薬指で触れる。
雪代の、骨の形を確かめるように、触れる。
その手は優しい触れ方をする。
雪代はその間、正年の顔を眺めている。凛々しい眉を、伏せられた形の良い二重の目を、通った鼻梁を、少し開いた、口許を、雪代は眺めている。
正年の手は冷たい。
どこかしこも熱い雪代の体の中で、左の鎖骨だけが正年の手の冷たさによって体温がわずかに下がる。
開いた正年の口から、言葉が紡がれる。
艶のある声が、雪代の耳に届く。
――宜成る骨は日の本の
国を守りし基成なれば
勇めや勇め国の為
骨と成りてぞ勇ましき……
「それ……」
雪代が驚くと彼は鎖骨に触れたまま、言った。
「お前の作った軍歌だ。俺の御守りだ」
雪代は正年に対してどういう顔をすればいいか分からず、ふ、と苦笑した。
「あまり、人気は出なかったけどね……」
「俺は好きだ」
「そう……」
目を閉じた雪代は正年の手を暗闇の中でなぞった。
鎖骨に触れる正年の手は、骨の形を確かめる。左の鎖骨だけに、触れるのだ。その間も正年は雪代の作詞した軍歌を歌っている。
――宜成る骨を日の本に
国の誉れを身に受けて……
雪代に向けて歌う声は勇ましくもどこか優しい声だった。雪代の鎖骨に触れながら、正年は艶のある低い声で歌う。その声の終わりを惜しむように目を開けた時、雪代は正年の胸の真ん中に触れた。
緋色の襟章を眺めながら目を細めると、鎖骨に触れていた正年の手が離れた。彼の手の温もりを惜しむように肌が疼く。
正年の手は雪代の手を取っていた。
「読んでも良いか?」
雪代は無言で頷いた。
正年は無言で原稿用紙を読んでいた。雪代はその間、正年の背中に頭と体を預けて、読み終えるのを待っていた。
手持ち無沙汰になった雪代は正年の背中に手を這わせた。まるで背負われているような心持ちに目を閉じる。
(昔もこうして背負われたことがあった)
懐かしい背中に顔を埋め、遠い昔を思い返していると、どこからか声が聞こえてきた。切羽詰まった声はやがて伸びるように消えていった。
部屋の中が影に満ちる頃、正年は物語を読み終えた。
「雪代」
「どうだった?」
「これは……」
戸惑う正年の声に雪代は背中の上で答えた。
「私が君のよすがになる」
この時、正年がどんな顔をしていたのか、雪代は知らない。ただ、震える声を受け入れていた。
「良いのか?」
求め縋る声を抱き締めるように雪代は答えた。
「私は、君より長生き出来ないよ。それでも、良いのかい?」
正年が頷いたのが背中の動きで分かる。雪代は無意識の内に微笑んでいた。
「君がよすがとなってくれるならば、俺は、心置きなく戦場を行くことが出来る」
昭和十一年二月二十六日。この時互いに三十二歳。雪代が正年のよすがと成ることを決めた日のことだった。
――そして、これは雪代が正年のよすがと成ることを決めるに至るまでの物語である。
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