悪意が見てる / 中野弘貴 作

名古屋市立大学文藝部

悪意が見てる 第1章

びょうは元々、壁の役割があったんだよ」

 今原いまはら友樹ゆうきは祖父、今原明あきらの言葉を思い出していた。七月下旬の熱帯夜を打ち消そうと、古びたエアコンがなけなしの冷風を送ってくる。が、大して効果は無く、高校の制服のシャツは汗ばんでいた。座布団はお世辞にも座りここが良いとは言えず、友樹の足は早くも感覚を失い始めている。

「昔の日本の家にはちゃんとした壁が無かったから、こういう屏風なんかを仕切りとか壁に使っていたんだ。でも我が家にはちゃんと壁があるから、今はこうやって広げて置いてあるだけ」

 当の屏風は今、友樹のすぐ隣の壁に寄り添う様に立てられている。それなりに大きく、高さは友樹の正座とほぼ同じで、横幅は背丈ぐらいだろうか。しかも二枚組なので、広い座敷の南側の壁は半分ぐらい屏風で覆われてしまっている。

 ボーッと屏風を眺めていると、軽く背中を小突かれた。首を小さく曲げて振り向くと、父親のまもる数珠じゅずを左手で持ちながら険しい顔で前方を指さしている。よそ見をするな、ということだろう。

 前の方に目を移すと、花で飾り付けられたかんおけの前で、しょうさんが朗々とした声でお経を唱えている。を取り終えた鶏ガラみたいな体型の、一体どこからあんな声が出せるのだろうか。そんなどうでもいいことを考えていると、友樹の思考は再び祖父の思い出へと移っていった。


 明は古道具屋を営んでいた。と言っても、古道具屋を経営していた友人が病に倒れ、代わりの経営者を探していたところに、定年退職で暇を持て余していた明が名乗りを上げた、という経緯である。古道具屋の店主だったのはおおよそ二十年といったところだが、明はこの小さな古道具屋を愛していた。店舗に併設したおもに引っ越し、リフォームを繰り返し、地方新聞に広告を載せたりもした。貯金をはたいて、祖母との幾度もの夫婦喧けんを勝ち抜きながら店を改造した明だったが、「てらしま道具店」という名前だけは変えることはなかった。友人が作り上げた店だという最後の痕跡を残したかったのだろうか。

 明は古道具に対しても愛情を持っていた。愛情というより、信念と言った方がいいかもしれない。明は常々「道具は使われてこそ意味がある」と口にした。どう見たってガラクタなかんも、こつとうひんとして価値のありそうな皿も、同じ様な値段で同じように棚に並べていた。

「芸術作品はいいんだよ。皆に見られて褒められるために生まれたんだから。でもな、道具として生まれたのならば、道具として買われて使われるべきだ」

 七十で祖母を亡くし、悲しみに暮れながらも気丈に店を開いた。道具たちのためにと作業用の倉庫を新設し、地域ではちょっとした名物店にもなった。孫の友樹ともよく遊び、夏休みは一緒に店番をしたりもした。友樹は今高校二年生だが、時々祖父の店には顔を出す。

 しかし、死んだ。二週間ほど前、開店準備中に脳卒中で倒れ、朝勤務のために出勤したアルバイトに発見された後、昏睡と意識回復を繰り返し、昨日の明け方に眠る様に逝った。倒れてからかなりの間持ちこたえたので、友樹の家族を含めた親族は十分すぎるぐらいの別れのあいさつと覚悟と様々な準備をすることができ、「葬式は自宅の母屋でやって欲しい」という生前の意向も叶えられた。

とは言え、通夜でろう人形の様になった祖父を見た時、友樹は少しだけ泣いてしまった。涙は病室で深く深く眠る明を見た時に十分流したはずなのに、祖父の存在の痕跡がこれから徐々に消えていくことを想像すると、悲しみと言うより寂しさに近いモノが湧き上がってきたのだ。


 お経のトーンが徐々に落ち着いていき、羽が優しく地面に落ちる様に、静かに終わった。一呼吸置いて、鶏ガラ和尚が正座のままゆっくりとこちらを向いて「お疲れ様でした」と頭を下げる。周りの大人たちがそれぞれにお礼を言う中、友樹も周りに合わせて頭を下げた。

 顔を上げると、右斜め前に座る人物の後ろ姿が目に入る。天然パーマを長く伸ばして後ろで一つ結び。顔は後ろからの輪郭だけでも分かるほどに見事な馬面。そしてどことなく漂うさんくささ。友樹の伯父おじ今原良雄よしおだ。明には三人の息子がおり、長男がさとる、次男が友樹の父の守、そして三男がこの良雄なのだが、実は友樹はこの伯父のことをよく知らない。大学在籍中に留年と海外留学をしたこと、卒業後も不安定な職に就き海外を飛び回っていたこと、結婚はまだしていないこと、せいぜいこの位のことしか友樹には分からない。

 当然親戚との繋がりも薄く、友樹自身も久しぶりに顔を見た。自分の父親のとくを聞きつけ大慌てで帰ってきた様だが、正直こんなギリギリのタイミングで帰ってきてもしょうがないだろうに、と友樹は思っている。今の今まで祖父のことを気にも掛けてこなかったであろうこの伯父が、神妙な顔つきでこの場にいることに、若干の不快感を抱いてもいた。頭では、この馬面伯父も仕事で忙しかったのだろうし、何より人への愛情は時間や距離だけで測れるモノではないと分かっている。それでも、嫌な感情が自分の脳味噌に染みこんでいくのを、友樹は感じていた。

 いつの間にか良雄の後頭部を凝視していた両目をまばたいて、友樹は軽く頭を振るった。いや、こういうのは良くない。外見や雰囲気、少なすぎる情報だけで人を判断するべきじゃない。そもそも友樹が知っている良雄に関する話だって伯父の悟や父親、それから祖父の明がしていた会話を聞きかじったものなのだ。多少胡さんくさくはあるが、良雄は彼なりに明を愛していたはず。何といっても親子な訳だし。


 どうやら鶏ガラ和尚は短い法話を終え、帰り支度を始めた様で、大人たちは口々にお礼の言葉を述べながら、立ち上がり出した。それに合わせて友樹も立とうとしたが、思ったより足がしびれていたので一旦諦めた。久しぶりの正座は足にこたえる。

 見送りのために玄関へと向かう足音が遠ざかっていく。友樹以外誰もいなくなった座敷は、がらんとしていてやけに広く感じた。人がいた痕跡の様に畳に並べられた座布団が、そう思わせるのかもしれない。足のしびれが無くなったかを、座ったまま足を曲げ伸ばしして確かめた後、友樹は立ち上がって棺桶の前まで近づいた。棺桶は上から見下ろすと思いの外小さく、ここに元は祖父だったモノが入っているのが冗談の様に思えてくる。

 もう別に悲しくはなかった。十分に泣いたし、病院のベッドの前で話したいことは全部話せた。そもそもこの葬式が初めての葬式という訳ではない。ただ、この慣れ親しんだ古道具屋から祖父が消えた今、ここはどうなってしまうのか、という不安が胸の中に揺らめきながら沈殿している。幼い頃の遊び場は基本ここだったし、高校生になってからも祖父に会うためによく訪れていた。友樹は古びた道具たちに囲まれたこの店の雰囲気が大好きだった。

祖父の友人がそうした様に他人に店を引き渡すのだろうか。正直、この「寺島道具店」が残ってさえくれればそれでいいと、友樹は思っていた。例え店主が代わり、店の装いが大きく変わっても、店そのものが残り続ける限り、明が古道具たちに注いだ信念の様な何かは残り続ける、そんな気がするからだ。でも、そうなったら、もう頻繁にこの店に来る訳にはいかないな、と友樹は思った。新しい店主がいい人だといいけど、と。


ここまで考えを巡らせて、友樹は棺桶から視線を上げた。ふとした違和感を覚えたのだ。魚の小骨を食べてしまった様な、くつひもがほどけそうなのに気付いた様な、微妙に気になる感覚。なんだ、これ?

友樹はゆっくりと振り返った。長方形の座敷の右側には、縁側に面した廊下を隔てる障子があり、左側には壁に接する様に屏風が立てられ、座敷の反対側にはぶつだんたんが寄り添う様に置かれている。そして当然誰もいない。あるのは人数分の座布団と座敷に染みこんでいる線香の香りだけ。

友樹は棺桶の方に向き直った。周りを沢山の種類の花が山の様に覆っているが、友樹は花に疎いので全く分からない。多分、明はこの光景を嫌がるだろう。「花屋の花は好きじゃない」と祖父が言っていたのを友樹は覚えていた。

「多分、これだろうな」と目の前の棺桶と花の山を見ながら、友樹はつぶやいた。違和感、と言うか非日常的な要素はこの座敷において、これしか無い。当たり前と言えば当たり前だ。大して手伝いをした訳では無いが、ここ数週間は自分も周囲もバタバタと慌ただしかった。疲れてるんだろうな、そのせいだろう。

もう鶏ガラ和尚の見送りは終わってしまったかな、と友樹は振り返り、玄関に様子を見に行こうとした。


ぞわっ、とした。またあの違和感だ。さっきよりも強い気がする。二、三歩後ずさりして、友樹は棺桶をじっと見つめた。本当になんなんだろう、むずむずする感覚。これは……


視線だ。


「あ、友樹君?」

 突然の呼び声に友樹は文字通り飛び上がった。声の方へぎこちなく顔を向けると、引き戸から良雄が顔をのぞかせていた。

「は、はい。どうしました?」

 答えると良雄は馬面をフニャリとさせて笑った。

「良かったー、もしかしたら名前間違えたのかと思ってさ」

「え」

「いや、だって友樹君凄く怖い顔してたんだもの」

 友樹は思わず顔に手をやった。頬のこわりが手の平からでも分かる。努めて真顔になろうとするが、上手くできている気がしない。

「……それで、どうしたんですか」

「あ、そうだ!」忘れてた忘れてた、と呟きながら良雄は座敷の中へ入ってくると

「和尚さんが数珠を忘れてきちゃったみたいでさ、探すの手伝ってくれない?」と言った。

 友樹は顔から手を放し、ゆっくりうなずいた。視線は、消えていた。


 本当にあるのかなぁ、とブツブツ呟きながら、ワイシャツのそでまくって座布団を一枚一枚めくっている良雄を横目に、友樹は花の山をかき分けていた。花粉独特の香りが鼻をくすぐる。

 あれは視線だった。制服のズボンについた花粉を手で払いながら、友樹はまだ鳥肌の残る腕を、服の上からでる。確かに、背後から誰かに見られていた、間違いない。

 じゃあ誰が? 普通に考えれば良雄だろう。もう一度友樹は横目で良雄を盗み見た。今度は畳にいつくばって、仏壇のすきを覗いている。引き戸の位置やタイミングを考えれば良雄以外あり得ない。そもそも座敷には友樹しかいなかったのだ。

 でも、何か違う。あの視線からは、何というか、「いてはいけない何か」が感じられた。れいなテーブルの上に泥だらけのブーツが乱暴に置かれているのを見た様な、そんな感じ。本当に、あれは良雄だったのか?

 コツコツ、という硬い音に友樹は花の山から顔を上げた。良雄も這いつくばったまま周囲を見回しているあたり、どうやら気のせいでは無い様だ。もう一度同じ音を聞いて、ようやく友樹は気がついた。窓だ。

 障子を開き、縁側の窓を開けると、もう薄暗くなっている庭にが立っていた。彼女は寺島道具店唯一のアルバイトであり、陸上部に所属する大学三年生だ。友樹も店に遊びに行った時に何度も会っており、ただのバイトというより親戚のお姉さんの様な雰囲気も感じられる。三年間ほどここでアルバイトを務め、開店準備中に倒れた明を最初に見つけたその人、ということもあり、今日の通夜に参列しているのだ。

「あれ、友樹君ここにいたんだ」麻衣は長いストレートの髪をかき上げて、意外そうに言った。

「今、和尚さんの数珠を探してるんですよ」さすがに、足がしびれて立てませんでした、とは言いたくない。

「その数珠なんだけど、和尚さんがの中にしまってたの忘れてたんだって」

 後ろの方で良雄が「あるんかい」と小声で呟いたのが、聞こえてきた。麻衣にも聞こえたのか、チラリと友樹の後ろをうかがい、

「そういう訳だから、もう一度挨拶したいから来てくれって和尚さんが言ってたよ」と言った。

 先に行くね、と言い残し、麻衣は庭を歩いて玄関へ戻っていった。良雄も慌ただしく足音を立てながら座敷を出て行く。再び一人だけになった友樹は、窓を閉めて座敷の方へ向き直った。もうあの違和感は、すっかり無くなっていた。



 深夜、友樹は二階の寝室を出て、母屋の階段を慎重に降りていた。照明が薄暗いのと、年季が入り摩擦係数が限りなくゼロに近い階段のせいで、中々に緊張を要する作業になっている。えっちらおっちら足を運び、ようやく一階の廊下に落ち着くことができた。ちょっと冷たいものを飲もうと思っただけなのに、祖父の家に泊まるのはかなり久しぶりなせいで、深夜の階段が危険地帯になることを忘れていたのだ。

 台所に入り冷蔵庫を開けると、冷気が友樹の腕をつたって蒸し暑い初夏の夜の空気に逃げていく。冷えた麦茶を飲み終わり、コップを洗って寝室に戻ろうと廊下に出たところで、座敷の引き戸から光が漏れているのに友樹は気がついた。

 そう言えば、と友樹は思い出した。通夜の夜に線香を絶やしちゃいけない、みたいなのなかったっけ。線香の番の順番をどうするか、という話を大人たちが夕飯の席でしていたことを友樹は思い出した。多分、それをこの座敷でやっているのだろう。

 なんとなく、覗いてみようかな、と友樹は思い立った。興味がある訳では無かったが、歩き回ったせいで目もさえてしまっていた。引き戸から様子を確認して、線香の番が両親じゃなければ、とっとと退散すればいいだけだ。

 足を忍ばせて友樹は引き戸を少しだけ開けた。三センチほどの隙間から中を覗くが、視野が狭すぎるせいか人の気配は感じられない。このままではらちがあかないので、思い切って友樹は引き戸を開け、座敷を覗いた。

 誰もいない。拍子抜けすると同時に、「え」と友樹は呟いてしまった。当然人がいるものだとばかり思っていたのだ。誰もいないって、どういうこと?

 座敷で一人、ポカンとしていた友樹の耳に、「カタッ」という音が飛び込んできた。思わず周囲を見回すが、音の出所は分からない。じっとしていると、音は繰り返し聞こえてくる。そして、友樹は気付いた。この音、母屋で鳴ってない。店からの音だ。

 一瞬、「空き巣」の想像が浮かんだが、すぐに却下された。いつもならまだしも、よりによって母屋に明かりがついている今夜、空き巣に入る馬鹿はいない。と言うことは、可能性として一番高いこの音の正体は、本来線香の番をしているはずの誰かさんだ。

 友樹はそっと座敷を出た。当然誰が何をしているのか見に行くのだ。妙な深夜テンションに突き動かされていることに友樹は薄々気付いていたが、かまうものか。乗りかかった船だ。

 廊下をゆっくりと進み、中庭に通じるドアを開ける。だしばふを踏みしめながら、かぎがかかっているはずの裏口のドアノブを回すと、すんなり開いた。分かってはいたが、空き巣ではないことを確信して友樹はあんした。割る窓がいくらでもあるのに、ドアをわざわざピッキングする空き巣なんている訳無い。

 店内に面した廊下に入ると、例の音が一段とはっきり聞こえてきた。空調の効いていない店内は予想以上に暑く、汗がにじみ出しているのが分かる。また友樹はじっと立ち止まって耳を澄ましていたが、つと廊下の左側に向き直った。倉庫だ。明はここで傷みの激しい古道具を修理したり、修理途中の古道具を保管したりしていた。音は確かにそこから聞こえてくる。

 友樹は最大限の忍び足で倉庫の扉へじりじりと近づいた。慎重にドアの正面に立ち、ドアノブに手を掛ける。深呼吸をしてから、一気にドアを開けた。

「のうわあぁぁぁ!」派手な叫び声と同時に、何者かが倉庫の床にしりもちをつく。一つ結びの天然パーマに胡散臭い馬面、良雄だ。とんでもなく驚いた様で、両目を見開いて友樹を凝視している。

「はあぁぁー、友樹君か。びっくりした……」

 それはこちらの台詞せりふだったが、気を取り直して友樹は単刀直入に尋ねた。

「良雄伯父さん、こんな所で何やってるんですか?」

「え、何ってそりゃあ」と言ってから、良雄は友樹の顔を見て二度ほど瞬きをすると、はっとした顔になり

「あー、ちょっと言えないかなー」と、やや焦った様に付け加えた。

 怪しい。凄く怪しい。倉庫の中を見回すと、尻餅をついている良雄の横には修理中の古道具が入っている木箱が一つ置かれており、ふたは開けられている。左右の壁に設置されている棚に置かれている他の木箱も、同じように開けられたのだろう、乱雑に置き直されている。明はこういう所でも、整理整頓を欠かさなかった。友樹は自分のけんにしわが寄るのが分かった。若干のいらちをそのままに、友樹は次の質問を良雄にぶつける。

「と言うか、どうやって裏口開けたんですか? 祖父ちゃんしかあのかぎ持ってないはずなんですけど」

 良雄は焦りの顔から一転、きょとんとした顔になった。

「ああ、友樹君はまだ聞いてなかったんだね」

「何をですか?」

「実は僕がこの店を継ぐことになったんだよ」

 青天のへきれき、とは正にこのことだった。友樹はよろよろと立ち上がり、少し誇らしげにほほんでいる良雄をまじまじと見つめた。こいつが? 友樹はもう一度適当に並べられた棚の木箱たちを見た。明の道具への信念も知らないであろう、こいつが? 驚きと不快感が濁流となって、友樹のなけなしの良雄への信頼を押し流した。そんな気がした。

「本当はもうちょっと僕がこの仕事に慣れてから、伝えるつもりだったんだけど。頼りなくてごめんね」

 何か言おうとした。けれど、どんな言葉でもこの場では、薄汚いののしりに変わってしまう予感がした。友樹は息を吸い、顔を上げた。

「座敷の線香、消えちゃいそうでしたよ」

 友樹は倉庫を出て、後ろ手でドアを閉めた。「あ、忘れてた!」という良雄の声がドア越しに聞こえてきたが、構わず元来た通路を進んでいく。

 座敷にたどり着き、棺桶の近くまで歩み寄る。線香は本当に短くなっていて、後二分も放っておけば消えてしまいそうだ。友樹の口から、ふうっとため息が漏れ出た。

別にどんな人が店主になっても不満は無いつもりだった。友樹の中で明の存在が唯一無二である以上、その不在を完璧に満たしてくれる人が現れるとは思っていないし、仮に新しい店主が明の様に振る舞ったとしたら、それは友樹の目にはある意味冒ぼうとくとして映っただろう。そう割り切っていたはずなのに、いざさいな祖父との違いを目の前にすると、どうしても戸惑いを抑えられない。そういう意味では、きっと自分は良雄に憤っている訳じゃなく、店主が代わることにまだ耐えられないだけなんだろうな、と友樹は思った。その内慣れるはずだ。友樹はもう一度息を吐いた。

もう寝よう。良雄が座敷に帰ってくる前に二階に上がっていたい。どのみちこの先何度か顔を合わせることになるだろうが、少なくとも今夜は会いたくはなかった。

 かかとを返して廊下に面する引き戸へと歩いていく。引き戸に手を掛けて、気がついた。むずがゆい様な感覚が、友樹の背中をそっと撫でる。


「あの」視線だ。はっきりと感じる。


ゆっくりと振り返る。が、誰もいない。いや、


いる。二枚組の屏風の隙間から「誰か」がこっちを覗いている。


 ヒュッと友樹は息を飲んだ。そんな訳がない。だって屏風は壁に接する様に立てられているのだ。裏に人が入る様な空間はない。でも、いる。確かに、誰かが屏風の裏にいるのだ。冷や汗が体中から吹き出す。

 屏風の裏側の「誰か」は、片目だけをこっちに覗かせていた。時折瞬きをしながら、じっと友樹がいる辺りを見つめてくる。恐怖というよりも嫌悪感と不快感が、ねっとりと自分を包み込む様な感覚に友樹は襲われた。どうにかしないと、逃げ出さないと。気持ちが焦るばかりで体がついて行かない。が、どうにか友樹は右足を一歩、引き戸へと向かわせることに成功した。

次の瞬間、友樹の周りをさまよっていた「誰か」の視線がピタリと僅かに動いたその右足をとらえた。そのまま少しずつと目線を上げていく。友樹はすぐに気がついた。こいつ、目を合わせる気だ。

目線をこちらから外さなければ。友樹は首を無理矢理動かすが、どういう訳か両目はずっと屏風の隙間に吸い寄せられる。必死の抵抗の間にも、徐々に視線は上ってくる。


 じりじり。胸。

 じりじり。首。

 じりじり。顎。

 じりじり。鼻。


「ごめんごめん。僕の代わりに線香見ててくれたんだね、ありがとう」

 良雄が座敷に入ってきた途端、張り詰めていた輪ゴムをバチンと切った様に、体が自由に動く様になった。無意識に全身に力を入れていた様で、勢い余って友樹はその場で転んでしまう。

「え、大丈夫?」

 良雄からしてみれば、おいっ子が突然目の前でぶっ倒れたのだから、当然驚き助け起こそうとする訳だが、友樹だってそれどころじゃない。立ち上がり素早く屏風の方へ向き直る。

 誰もいない。当然、屏風の後ろにも。屏風だけが白けた様に壁により掛かっているだけだ。

「ほんとに大丈夫? 友樹君、顔真っ青だよ」

「……ちょっと転んだだけです、ありがとうございます」

 念のため、おっかなびっくり屏風に近づき、壁との隙間を覗いてみた。何もない、ほこり一つさえない。

「ねえ、本当に大丈夫かい?」心配そう、というよりいぶかしげに良雄が顔を覗き込んできた。捜し物かい? と。

「伯父さん」

「ん、何?」

「何か、変な感じしませんか?」

「いいや、全く」相変わらず訝しげに友樹を眺めていた良雄だったが、はたと気がついた表情になり、

「多分疲れてるんだよ。ほら、友樹君も色々手伝ってくれてたしさ。後は僕が見ておくから、もう寝た方がいいよ」と友樹の肩をいたわる様にたたいた。どうやら、ここ最近の慌ただしい非日常のせいで、甥っ子が参ってしまったと思った様だ。

 駄目だ。あの「誰か」は良雄が座敷に入ってきた時点で消えていたのだろう、全く気付いていない。友樹はぐるりと座敷を見渡したが、もうあの視線は感じられなかった。思えば、通夜直後に感じた視線も出所は同じなのだろうか。

 もう一度屏風を眺める。違和感はまるで夢の様に消え去ってしまった。何なら夢であって欲しい。それでも、あの「誰か」は確実にいた。存在できるはずのない空間に、いた。あの不快感や嫌悪感と一緒に。

 友樹は鳥肌の立った腕を撫でた。当然その夜は眠れなかった。



「それで、俺はこの話を受けて、なんて言えばいいわけ?」臼山直之うすやまなおゆきは眉をひそめて友樹の顔をまじまじと見た。身長百八十センチで筋骨隆々な直之が、眉をひそめるとかなり凄味がある。

「別に、何も」友樹は答える。「強いて言えば、アドバイス」

 今日は高校の前期最終日だ。既に終業式を終え、そろそろ正午に差し掛かる教室は、おのおのの下校準備を済ませた生徒たちから放たれる解放感と高揚感で満たされていた。皆が口々にこの先一ヶ月をいかに有意義に過ごすかを話し合っている中、友樹は隣の席の直之、に例の通夜の夜に起こった不気味で奇妙な出来事を語って聞かせたのだ。

「アドバイスって、何だよ。『もっとストーリーに厚みを持たせてみましょう』みたいな感じのこと?」

「違う違う。今後僕がどうするべきかっていうアドバイス」

「今後って……、え? 今の実話なのか?」細目を見開いて直之は聞き返した。

「まあ、一応ね」

「一応って、なんだよ」

「僕自身も、この話が本当なのかどうかは疑わしいと思ってる。けど、だからと言って全部妄想だったなんて鼻で笑うこともできない。だから」

「だから?」

「直之にもモヤモヤしてもらおうと思って」そう言いながら友樹は左隣に座っている直之に何かをこすりつける振りをした。

 直之は鼻にしわ寄せ、露骨に嫌そうな表情を作る。

「まあ、そういう訳でさ、ここは一つ僕に導きの光を」

「アドバイスかぁ……」うなりながら直之は太い腕を組んだ。制服越しでも盛り上がった大胸筋のシルエットがくっきりと分かる。

 友樹と直之は同じバレーボール部に所属している。ポジションが同じで、一、二年を通して同じクラスでもあり、結構仲がいい。どれぐらいかと言えば、突然怪談――それもオチのないやつ――を友樹が話し出してもまともに聞いてくれるほどには。

「正直俺はその屏風の化け物よりも、あっちの方が気になるんだけど」

「あっちって、何?」

「あー、話に出てきたお前の伯父さん。髪が長い方」

「良雄伯父さん?」

「そうそれ。その伯父さんはさ、そんな夜中に何してたんだよ」

「そりゃあ、色々でしょ。次期店主ってことでさ、店の再開準備とか有るんじゃないかな」

「それ、そんな夜中にやる必要無いだろ」

 一拍置いて「確かに」と友樹は呟いた。確かに、その通りではある。あの夜は良雄が次期店主になるというショックと、屏風から覗く不気味な「誰か」のせいで、すっかり忘れていたが、よく考えればおかしな話だ。そもそも深夜なんて、何をするにしても不向きな時間帯である。暗いし、物音も立てられないし、人手が欲しくても誰も呼べない。倉庫の整理なんてもってのほかだろう。

「俺は心霊現象とか全然詳しくないし、なんなら信じてないまであるけど、お前の伯父さんは人間だからな。断言できる。絶対怪しい」

「じゃあ、何をしてたのさ? だってもう自分の店なんだ、物を盗んだりしても意味はないよ」

「うん、そこまでは知らん」

「なんだよそれ」友樹は思わず笑ってしまった。が、直之はいたって真面目に続ける。

「少なくとも、日中にできない様な、後ろめたいことをしてたのは確かなんだ。気をつけた方がいいぜ」

「そう、私も気をつけた方がいいと思う」

 背後からの声に友樹と直之は振り返ると、色白の丸顔に丸眼鏡を乗っけたたかはし悪戯いたずらっぽく笑って立っていた。

「どこから聞いてたの」友樹は振り向いた体勢のまま尋ねる。

「どこからも何も、ナオの『気をつけた方がいいぜ』しか聞こえてないけど」

応えながら由美は空いていた二人の前の席に移動して後ろ向きに座った。

「何かあったの?」

 由美は一年生の頃二人と同じクラスになり、友樹とはそれ以来の仲だ。が、直之とは所謂幼なじみという関係らしく、彼女は直之のことを「ナオ」と呼んでいた。

 興味津々といった顔つきの由美に、友樹は渋々通夜の晩の一部始終をみ砕いて説明した。聞くにつれて由美の顔は徐々に輝いていき、全て聞き終えると幸せそうにため息をついた。うっとりした表情の由美を前に友樹と直之は顔を見合わせる。

「おい、どうかしたか?」直之が不審げに声を掛ける。

「あのね」突然由美が口を開いた。「私ちっちゃい頃に『トム=ソーヤーの冒険』を読んだことがあるの」

 脈絡のない自分語りに友樹は少々面食らったが、これが由美の平常運転だったことを思い出す。

「児童文学っていってもまあまあの長さだったから、結構読むのに苦労したんだけど、凄く面白かった。何が良かったかって言ったら、トム=ソーヤーとハックルベリー・フィンの二人が自由気ままに冒険してる姿が最高だったな。特にミシシッピ川をいかだで下ろうとする話は今でも好き」

 ここで由美は一呼吸開けて、ぐいっと前に乗り出した。

「そんな感じで読めば読むほど『私も冒険してみたい』って思う様になって、読み終わって『さあ、冒険だ!』って立ち上がって、気付いたの」

 由美は二人の顔を見つめて、重々しく言った。

「私の近所に、ミシシッピ川は、無い」

友樹と直之は顔を見合わせる。

「そうか」直之が努めて素気なく返したが、由美は構わず続ける。

「百歩譲ってね、ミシシッピ川が無いのは許せるわけ。でもさ、よく考えたら、私の周りに冒険できる場所なんてもう無かったの。森も川も海も、もう全部つまらない大人たちに冒険されていて、くだらない団地と用水路に変わってた。小さかった私がトム=ソーヤーになることは、もう無かった」

 いつの間にかうつむいて語りかける様に話していた由美は、突然顔を上げると、

「しかし、今!」と勢いよく友樹に指をさした。

「うわ、やめろ」友樹は突き出された人差し指を手で払って追い返す。

「私の目の前に『冒険』が到来した。屏風の化け物? 怪しい伯父さん? 最高じゃん」冒険とやらを歓迎する様に由美は両手を広げた。

「人の不安の種を冒険呼ばわりしないでくれ」友樹は一応文句を言ってみる。

「お前って本読むんだね」直之が初耳という表情で由美を指さした。

「ちょっと、やめてよ」直之の指を由美が手で払って追い返す。

「まあ、本題に戻るとさ」

自分から脱線させておきながら、会話の修正を試みる由美にははや清々しさすらあった。

「その伯父さんは絶対クロだよ。多分」

「根拠はなんだ」直之が素早く問い返す。

「屏風の化け物の話してたじゃん。そいつは伯父さんの仕掛けてる監視カメラなのよ。だから視線だけ感じて姿を捉えることはできないってわけ。これでつじつまが合う」

「だとしたら友樹が倉庫に入った時に何で驚いたんだよ。それに友樹は『誰か』が覗いてたのを見たんだろ」

「うん。あれはカメラなんかじゃなかった」

 二人の前では冗談めかしてはいるが、友樹にとって正直あの夜の出来事は、思い出すだけでも不快だった。友樹は腕の鳥肌をそっとぬぐった。

「ほらな。あとお前『根拠』の意味分かってないだろ」

「なに、馬鹿にしてるの?」

「そこ、うるさいぞ。あと高橋は早く席に戻れ」

 二人がやり合っていると、教室に入ってきた担任が由美を注意しながら、教卓に通知表を置いた。

「はーい」適当な返事をしながら由美は二人の後ろの席に着くと、身を乗り出し、ささやいた。

「じゃあ、明日の十一時に、えーと、お店の名前何だっけ」

「寺島道具店」答えながら友樹は不穏な空気を感じ取っていた。まさか、こいつ。

「寺島道具店に集合ね」由美は何でも無いかの様にさらっと言った。

「え、何で?」と友樹。

「え、俺も?」と直之。

「何、夏休みの初日に用事でもあるわけ?」

由美の尋問まがいの質問に、二人は押し黙った。明日はバレーボール部の練習はない。そしてこれといった予定がある訳でもない。直之も静かな所を見ると、状況は同じ様だ。

「よし、決まりだね」由美はうれしそうに呟いた。友樹は思わず天を仰ぐ。



 ドアを開けて玄関に入ると、冷気がすうっと友樹の体を包んだ。真っ昼間の初夏の熱気が遠のくのが分かる。靴を脱ぎ、ひんやりとした廊下を進み、リビングのドアを開けると、父親の守がソファに腰掛けスマホで電話をしていた。友樹の帰宅に気付いた様で、スマホを耳に当てたままチラリと振り返った。砕けた口調なところを見ると、相手は結構親しい間柄なのだろうが、表情は険しい。こういう時の父親は面倒なので、鞄を片付け、部屋着に着替えて、とっとと二階の自室に逃げようとしたが、

「友樹、ちょっといいか?」

捕まってしまった。

 渋々リビングに戻ると、守は怖い顔のまま壁に掛けられたカレンダーを確認していた。別におっかない父親ではないのだが、少々オンオフの切り替わりが激しすぎるきらいがある。今は、完全にオンだ。これは長引くぞ。

「どうしたの?」

悟はカレンダーから目を離すと、ため息をついて話し出した。

「祖父ちゃんの店の土蔵の鍵、どこにあるか知ってたりしないか」

「土蔵の鍵?」思わぬ質問に、友樹は思わず聞き返す。「知らないけど」

 寺島道具店には店舗に併設されている倉庫とは別に、店舗と母屋に挟まれた中庭を半分占領する形で土蔵が鎮座している。この土蔵には様々な理由で売り物にできない古道具が収納されていた。道具の損傷が祖父の手には負えない物、価値のありそうな骨董品――例えば、引き取ったはいいものの道具というより芸術品の類いで店に置く訳にはいかず、専門家の鑑定を待っている物――なんかである。

そして、土蔵の扉には常にビニール袋で保護された、古風な南京錠の様な馬鹿でかい鍵がかかっており、滅多に開けられることはない。大体年に二回、冬と初夏に大掃除がされており、本来であればもう初夏の大掃除は終わっている時期だ。ちなみに友樹も土蔵の中を覗いたのは数えるほどしかない。

「さっき良雄から電話があってな、土蔵の鍵が無くなってるらしいんだ」

「え」

「良雄の方で一通り探し回ってはみたらしいんだが、そもそもまだ店と母屋の作りに不慣れなのもあって、上手くいってないんだとさ」

 あ。友樹は勘づいた。面倒くさいぞ、これ。

「お前明日から夏休みだろ。どこかで探すの手伝いに行ってくれないか?」そう言い終わった後、友樹の表情がみるみる曇っていくのに気付いた様で、

「まあ、そんな顔するなよ。良雄が苦手なのも分かるけどさ、父さんも忙しいんだ。頼んでもいいか?」

と付け加えた。どうやら良雄から不穏な関係をリークされたらしい。余計なことを、と友樹は顔をしかめる。

「鍵屋さんとかに頼んだら?」

「いや、もう呼んだらしい。呼んだんだが、物が古すぎて手に負えなかったそうだ。しかも良雄が言うには、骨董的な価値があったみたいで、あんまり乱暴にしたくないだとさ」

 友樹はちょっとイラッとした。明にだって土蔵の鍵に骨董品としての価値があることぐらい、当然分かっていたはずだ。それでも明は「道具」として使うことを選んだ。恐らく良雄は、さも自分が初めて気付いた様に、父に報告したのだろう。祖父の精神を踏みにじられた様な、大事な何かを下世話な会話のネタにされた様な不快感が友樹に纏わり付く。

 元々消えかけていたやる気の火が、完全に燃えカスになったところで、友樹の頭に期待に満ちあふれた色白眼鏡の由美の顔と、もの凄く嫌そうな表情を浮かべたゴツい直之の顔が浮かんだ。友樹はおもむろに悟へ問いかける。

「その鍵探しに、僕の友達も連れて来させていいかな?」

「ん? 別に良いけど、今時の高校生は古道具屋を楽しめるのか?」

 もう一度、友樹の脳内で両手を広げて喜ぶ由美の姿が再生された。直之のは……無かった。

「喜ぶと思うよ、多分」

「ほんとか、凄いな」歯を見せて笑った所を見ると、ちょっとだけオフになった様だ。よし、今日は早いな、と友樹は安堵する。

 ふと、「後ろめたいことをしてるのは確かなんだ。気をつけろよ」という直之の言葉がリピートされる。それに合わせる様に、あの夜の、倉庫の中で尻餅をついた良雄の情けない顔が脳裏をよぎった。これも、後ろめたいことなのか。それとも、本当にただ無くしただけなのか。

こんなことなら、真夜中の探索じみた真似は止めとくんだったな、と友樹はちょっと後悔した。そしたらこんな風に頭を悩ます必要も無かった。面倒ごとは嫌いだし、冒険もお断りだ。こういうのはやりたいやつがやれば良い。その点由美は適任だな、そう思い直し、友樹はリビングを出た。

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