第三十一話 男の子は意地っぱり
起きた僕の目に最初に入ってきたのは、クレハさんの顔だった。
「おはよう、ハジメ君」
「おはよう、クレハさん」
眉が下がっていていつもの凛とした雰囲気はなく、僕を見てゆっくりと息を吐き出していた。心配、してくれてたのかな。
軋む上半身を起してみれば、ここは病院の個室だった。真っ白なベッドにシーツ、真っ白な壁と天井に、点滴の袋がぶら下がった棒。白いカーテンから日の光が差し込んでおり、時計はお昼ご飯前くらいの時刻を指示していた。
「あれからどれくらい経ったの?」
「一週間よ。あなた、ずっと眠り続けてたんだから」
僕はちょっと驚いた。結構経っただろうなとは思ってたけど、まさか一週間とは。
もう少し身体を動かそうとしてみたけど、各所から痛みが走ったので断念する。右肩はギプスで固められていたし、傷も完治していないらしい。
「もう目を覚まさないんじゃないかって、心配したんだから」
「そっか。ごめんね、心配かけて」
「ううん。それよりも私、聞きたいこともあったから」
クレハさんが僕の方に身を乗り出してきた。なんだなんだ。
「どうして私のこと、言わなかったの?」
何を聞かれるのかと思えば、想定の範囲内だった。ああ、なんだ。そのことか。
「昨日、ベルさんが来たわ。私は覚悟を決めた。どんな処分がくだされるんだろうって。でもベルさんは、私に一枚のデータを送ってくれた。そこには治安維持部
あっ、ベルさんマジで認めさせてきたんだ。って言うか彼女は執行猶予期間中なのに、一週間で決裁を通してくるとか。一体何をどうやったんだろう。
「ハジメ君の下について、指導を受けることになったって言ってた。私は意味が分からなかったわ。自分がしたことと待遇が、全然一致しないんだもの。ベルさんには、『詳しくはあのクソガキに聞いとくれ。ワタシはお願いされたことをやっただけだよ』って言われたわ」
おのれクソババア、説明責任をこっちにブン投げやがったな。
「ねえ、どうして? どうしてあなたは、こんな私にここまでしてくれるの?」
「別に。君が悲劇のヒロインぶってるのが気に入らなかっただけで」
「嘘ね」
すると僕の言葉は、クレハさんに遮られる。
「だってあなた、私のことを特別って言ったじゃない」
げっ。あれ、聞かれてたんだ。あの時はもう、意識はないと思ってたのに。
「ねえ、教えて。あの言葉の意味を、あなたの気持ちを」
真っすぐに僕を見つめてくるクレハさん。表情は真剣そのものだけど、どこか不安そうな、同時に何かを期待しているかのような感じも見て取れた。どういうつもりか、ね。その時僕の頭の中に思い出されたのは、脱出艇に乗ることを拒否した時の彼女の姿だ。
「……本当に、気に入らなかったんだ」
きっと誤魔化したとしても、彼女は納得しない。もう全部を素直に言った方が良いだろうと、僕は腹をくくった。
「君のあの態度は、まるで。僕自身を見ているみたいだった。自分は幸せになれないから、代わりに誰かに幸せになって欲しい。自分の力で誰かに幸せになってもらって、それで満足する。幸せの端っこをかじるような、そのやり方」
ツギコに幸せになって欲しいという僕とクレハさんのあの言葉は、同じだった。僕はそれをされた方の心地を、初めて知った。
「それをやられることがこんなにも不快だなんて、思いもしなかった」
僕の言葉に、クレハさんは反応を示さない。
「だから助けた。僕を見ているみたいで、僕のやっていることが間違っているんだって、思い知らされているような気がして。認めたくなかった。それだけ、なんだ」
「そう」
「僕自身は、幸せになんかなれない。父さんを撃ったことも、ツギコに嘘をつき続けていることも、ずっと後悔している。それに僕は、子どもが作れない男子失格だ。そんな僕に幸せになる資格はない。だけど。君のやったことが気に入らないのに、僕はこのやり方を止められない」
どうしようもないくらい、僕は馬鹿だった。
「僕の周りは、幸せであって欲しいんだ。ツギコやクラスメイト達は何も知らないままに居て欲しいし……君にも、幸せでいて欲しいんだ」
どれだけ不快に思われることであろうと、僕はこれを止められない。ずっと自分が許せない。家族を壊し、妹を騙し続けている僕自身が、本当に嫌いなんだ。でも僕も人間だから、幸せを感じたいって思いがある。自分は幸せになる資格なんてないのに、本能的な欲求には抗えない。
だから僕はワガママを言う。僕が見える範囲は、楽しそうにしていて欲しい。誰かが幸せにしている所を見て、その一端を担えたんだって思いたいんだ。
「君が幸せになってくれたら、僕は必ず幸せを感じられる。君は僕と同じだからこそ、僕と違う未来を掴んで欲しい。それが、僕にとっての特別ってことなんだ」
「…………」
同じ悩みを持つ彼女が幸せになってくれたら、僕自身も報われるような、そんな気がしている。それが勝手な思い込みだろうと、構うもんか。そうとしかあれない僕は、そうすることしかできないんだから。
彼女は何も言わない。
「君のやったことを隠蔽した事実が明るみになれば、僕だってタダじゃ済まないだろう。でもその時のプランだって、ちゃんと考えている。僕が一人でやったことにすれば、ベルさんにも迷惑はかからない。証拠だって用意して」
「ハジメ君は、私に幸せになって欲しいのよね?」
頭の中の計画を話そうとしたら、クレハさんが瞳を閉じた。
「そうだね、本当だよ」
「私が幸せになれば、あなたも幸せなのよね?」
「まあ、そうだね」
念押しのような形で聞いてくるクレハさん。なんでわざわざ聞き返してくるんだろうか。
「私の幸せがあなたの幸せ。ならあなたは、私が幸せになることに協力してくれるのよね?」
瞳を開いた彼女。確認のような脅迫のような、この言い回し。僕は少し腰が引けた。
「う、うん、まあ。あんまり無茶苦茶なこと言われたら自信はないけど、僕にできる範囲のことなら」
「言ったわね? 男に二言はないわね?」
何度も言ってくるクレハさんが怖い。一体、何を要求されるというんだろうか。
「なら、私が幸せの為に。ハジメ君、あなたを幸せにしてあげる」
「はい?」
僕は間抜けな声を上げてしまった。彼女が言った言葉が、理解できなかったから。
「何を言っているんだい、クレハさん。僕の話、聞いてた?」
「聞いてたわ。あなたが何を思っているのかも、全部」
聞いていたのなら、どうしてそんな発想が出てくるのか。全く理解できない。
「あなたは私に、幸せになって欲しいんでしょう?」
「それが僕を幸せにすることと、どう繋がるっていうのさ?」
「だって。私の幸せは、あなただもの」
心臓が跳ねたかのような心地が、僕にはあった。何を言っているんだろうか、クレハさんは。僕の頭の中に、馬鹿馬鹿しい思いが芽生えてくる。
「いつもの冗談だよね? 僕は君のことが嫌いだ」
「でも私は好きよ、ハジメ君。あなたのことが大好き」
微笑んでいる彼女の表情があまりにも眩しくて、僕は思わず顔を背けた。
「もう一度言うわ。好き、好き、大好き。愛しているわ、ハジメ君。好きになった人に幸せになって欲しい。好きな人が幸せでいることが、私の幸せ。だから私が、あなたを幸せにしてあげる。何もおかしいことなんてないわ」
反論を挟む余地がない。個々人の幸せなんて、どんな形でもあり得ることだし。
「それをされるのが不快だって話も、さっきしたじゃないか」
「あら、不快なんて言っておいて、自分はずっとそうしてる癖に。自分は良くて他の人がダメなんて、説得力がないわ」
僕の反撃はあっさりと返されてしまい、口をつぐんだ。
「あなたの心に割り切れないものがあって、ずっと後ろめたく思っていることも、よく分かってる。だからこそ、私はあなたに幸せになって欲しい。現状のまま嘆いてないで、前に進んで欲しいわ」
「でも、僕は取り返しのつかないことをしたし、子どもが作れない身体で」
「取り返しのつかないことなんて、みんなやってるのよ? クラスメイトを危険に晒して売り飛ばしかけた、私だってそう。あなたの事情が大したことないなんて、口が裂けても言わない。だけど、だからって幸せになろうとしないことだけは、許さないわ。それに私だって、子どもが作れないのよ」
僕は息を呑んだ。分かっているつもりで、分かっていなかったこと。
「私はあなたと同じ痛みを背負ってる。自分は子どもができないから、なんて理由は私には通用しない」
背負っているものが僕と同じだから、彼女には僕の伝家の宝刀が通用しない。
「お互い子どもが作れない同士、相性ぴったりじゃない。いくらでもえっちできるし、子どもが欲しくなったら里子を取りましょう。二人で子育てなんて、楽しそうじゃない? 私にとっても、あなたは特別。同じ
彼女は握ってくれていた手を離した。僕が横目でクレハさんを見やると、彼女は両手を広げてみせている。まるで小さな子どもを迎え入れようとする母親のような、この胸の中に飛び込んできて欲しいと言わんばかりの、その姿。
「私と一緒に、幸せになりましょう?」
クレハさんは優しく微笑んでいた。いつの間にかカーテンが風でめくれていて、温かい日の光が彼女の背後から差し込んできている。まるで後光が差しているかのようで、とても眩しい。
「僕、は」
光に目を細めて、情けない声を漏らす僕。クレハさんの言っていることは、何一つ間違ってはいなかった。彼女から放たれた言葉が、どれも僕の胸に突き刺さり、心を揺さぶってくる。眩しく微笑む彼女の姿が、脳裏に焼き付いて離れそうにない。
「…………」
言葉は尽くしたと言わんばかりに、何も言わずに見つめてくるクレハさん。あとは僕が、応えるだけだと。対して僕は、まともに彼女の顔が見れない。黙ったまま、横目で見ていた目線すらも背けた。
(僕は)
ぐちゃぐちゃになった胸の内。ぐるぐる回る頭の中。混乱がピークに達して何も考えられなくなりそうなくらいなのに、実は答えだけがはっきりとしている。
分かってる、分かってはいるんだ。結局、僕がどうしたいのか、なんて。
(僕はただ。家族がいて、友達がいて。みんなと同じように恋をして。いずれは僕自身の家族を持って、笑って)
言葉が喉元まで来ていた。口を開けば、後は零れ落ちてくるだけな気がしている。ほんの少し。ほんの少しだけ素直になれば、目の前の彼女と一緒に、幸せ、に。
「……僕は、君が嫌いだ」
でも僕は、全てを無理やり飲み込んだ。
「僕は、幸せになんか、ならない。僕はこの罪を背負って、ツギコに償って。最後まで、生きていく。それ、だけだ」
それは、ただの見栄。一度張った虚勢をおろす勇気がない、みっともない悪あがき。
今まで自分で決めて、貫いてきて。ずっとずっとそうだって、自分に言い聞かせてやってきた。僕にはここまでやってきたという、くだらないプライドがあった。
しょうもないそれが、最後まで認めなかった。例え間違っていたとしても、他人から見たら信じられないくらいの阿呆だったとしても。僕自身を曲げるという選択肢を、最後まで許しはしなかった。僕は本当に、度し難い程に愚かだった。
「ごめんね、クレハさん。君は他の幸せを、探してくれないかい?」
「…………」
彼女は何も言わない。微笑んだままだから、余計に何を考えているのかが分からない。失望したんだろうか、内心で呆れているんだろうか、それとも見限ったんだろうか。頭の中で悪い方向へと予想が立っていく中、不意に、クレハさんは笑った。
「ふふふっ。可愛い人」
しかし彼女は、僕が予想した内容のどれにも当てはまらない言葉を紡いできた。広げた腕を戻し、口元に手をやってくすくすと笑っている。
「そう、あなたはそうありたいのね。分かったわ」
「なに、を?」
短い言葉だったけど、僕の脳内に想像が駆け抜ける。彼女は、全てを分かった上で、僕のことを後押ししてくれたんじゃないかって。
「全く。男の子って、こんなにお馬鹿さんなのね。意地っ張りで、カッコつけで。ちょっと折れたら手に入るのに……だからこそ、可愛いわ。まるで幼い子が、頑張って背伸びしてるみたいよ」
「うっ、あっ」
僕の顔が一気に赤くなっていく。まざまざと、彼女の懐の大きさを見せつけられた気がした。同時に、自分が如何にちっぽけな存在であるのかということも。恥ずかしさの余り僕は布団を被って顔を隠し、大きな声を上げる。
「もう用は済んだんだろ? さっさと出て行ってくれよッ!」
「あら、別に良いじゃない。可愛い可愛いハジメちゃん」
「うるさいッ、僕をちゃん付けで呼ぶなッ!」
「ふふふふふっ」
クレハさんは医者が定時の診察にやってくるまで、帰ってくれることはなかった。その間、僕はずっと布団にくるまっていたし、彼女はずっと笑っていた。
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