たたた
星来 香文子
第1話
どうしたのかと聞かれてもね、先生。
私にもわからないんですよ。
この人急に、それしか言わなくなっちゃって……
朝からずっとこうなんです。
「たたた」
何を聞いても、たしか言わなくなっちゃって……
まだ50代だし、ボケるにはちょっと早すぎるでしょう?
もうずっと、こうだからどうしようもなくてね。
どこか痛いとか、気持ちが悪いとか、なんかこう、他に何か言ってくれればいいんだけど……
「たたた……たたた……」
ほら、また、ただ。
こんな真っ青な顔して、ずっと、朝からずっとそれしか言わないんです。
うんともすんともなく、たしか言わない。
怖くて、東京に住んでる娘にね、どうしたらいいか電話で聞いたんです。
そしたらね、とりあえず病院にでも行って診てもらいなさいって、そういわれたんでね……
でも、たしか言わないから、いったい何科に行けばいいのかもわからなくて、それでほら、大きな総合病院なら……と思ってここに来たんです。
一体、この人、何が悪いんでしょうか?
私の知らない間に、何か悪い物でも食べたとか……ですかね?
もうこの人と結婚してから……あぁ、ハタチの時に結婚したから、今年で30年になるけど、こんな事は初めてなんですよ。
いつも仕事以外は家にいますし、外食もね、好き嫌いの多い人だから、あれが嫌だーこれも嫌だーってあまり行きたがらないんです。
だからね、いつも、朝昼晩、私が用意したものしか食べてないはずなんだけどねぇ……
一体、この人のどこが悪いんでしょうかねぇ?
*
その人は、何を言っているかわからなかった。
仕切りにたを繰り返しているというその人の言うこの人とは、いったい誰のことなのだろうか。
ここは、この島唯一の診療所。
総合病院でもなければ、私は先生でもない。
ただの診察を待っている患者の一人だ。
20歳で結婚して、30年になると言ったが、私の目にはとてもその人が50代には見えなかった。
おそらく、20……いや、もしかしたら10代かも知れない。
どう見ても若い。
自分の隣に、その人が言うこの人が座っているかの様に人一人分のスペースを空けて、時折り誰もいないそのスペースに向かって声をかける。
「ほら、お父さん、たたたばっかり言ってないで、ちゃんと診てもらいましょう」
「もう、た以外にも何か言ってちょうだいよ」
「先生が困っているでしょう?」
私とこの人の間に、人はいない。
私を医師だと勘違いしているのは明白なのだが、あまりにリアルでその人の言うこの人が本当にそこにいるかのような錯覚に陥る。
演技にしては上手すぎるし、若者の悪ふざけにしては笑えない。
リアルに存在する中年夫婦の奥さんという雰囲気を醸し出している。
これはあれだろうか?
テレビ番組か?
どこかに隠しカメラが設置されていて、どんな反応をするかモニタリングされているのだろうか?
そうだとしたら、この場合の正しい反応は一体なんだ?
どうしたら、ネタバラシにタレントとスタッフがカメラを持って来てくれるだろう?
ただの一般人……30代主婦に求められている正解はなんだ?
嫌な汗をかきながらあたり見回してみても、待合室で順番待ちをしている他の島民しか見当たらない。
どうしよう……誰かに助けを求めるべきだろうか……
でも、この待合室に知り合いは一人もいないし……
とりあえず、私の後ろの席でずっとうたた寝をしてきるハンチング帽子のおじさんにでも声をかけようか?
「高田さん、高田
————そう思っていたその時、看護師が私の名前を呼んだ。
私はすぐに診察室へ逃げるように入った。
その人は、私が診察室へ入っても、一人でずっとあの人と話している。
「もう、だから、たたただけじゃわからないですって。お父さん、しっかりしてくださいな」
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