第弐譚

不幸という名の少女1

────罪とは一体、何だろう?




あたしは何度、この疑問を自分にしただろう。


物を盗る事。


人を殺す事。


話し掛ける事。


食事をする事。


呼吸をする事。


────生まれてきた事?




罪とは一体、何だろう。







アクアは、絶句していた。


「アリエッタ……」


まだ日の高い午後。二人はアリエッタのいた街から大分離れ、木の少なくなった平原へ来ていた。


カポカポ、ガラガラと小気味良い音がなる。


それは馬車の進む音だった。その馬車の上でアクアが手綱を握り、アリエッタはその隣に座っている。馬車を引く二頭の馬は、艶やかな漆黒の毛並みが綺麗で凛々しい。


この馬は、"本物"ではない。アクアが"力"を使って作ったものだ。本物でないから馬を休ませる必要がなく、二人はさくさくと平原を進んでいた。目的の街には今日の夕刻程で着くだろうと、アクアは言った。


その街に、指輪の気配がある、とも。


アリエッタは度々驚いたり、不思議がったりした。旅などした事のない彼にとっては、全てが新鮮で、珍しいものばかりだからだ。そんなアリエッタは今、固まって唸っている。


「う゛─────」


ざんばらな若草色の髪を猫のように逆立たせ、目を瞑り、口を真一文に閉じ、両手を前方の空中にかざしている。集中している、と本人は言っていたが、両足をふらふらと揺らしていて、その集中力は明らかだ。


しかしその気迫は、半端ない。


「アリエッタ───」


アクアは再び、彼の名前を呼んだ。困ったように眉を少し下げ、いつもは静かな水面のような瑠璃の瞳は、アリエッタの横顔を見つめている。


その端麗な表情には、微かな自責の念が浮かんでいる。


「アリエッタ、もう止めた方が………」


アクアはそっと言ったその時、ボンッ! と何かが破裂したような音と共に、ふわりと小さな風が吹いた。まるで空気の塊を爆発させたように。


「うわっ!」


飛び上がったアリエッタは、閉じていた目を勢い良く開いた。燻し銀の瞳が、驚きに染まる。その空気の爆発は彼の手元から生まれ、隣にいたアクアの薄い青色の髪をもはためかせた。創造された漆黒の馬は動じる事もなく、小馬鹿にするように鼻を鳴らした。


「「…………………」」


カポカポガラガラと馬車は平穏に進んでいくなか、二人は気まずい空気で沈黙する。しかし直ぐ様アリエッタが、頭を抱えて再び唸りだした。




「どうして力が使えなくなってるんだ────!?」




「ア、アリエッタ、落ち着いて」


アクアの声は彼に届いているのかいないのか。アリエッタは今にも口から魂が出そうな程脱力して、馬車へとぐったり寄り掛かる。


「…アクアに素質があるって言われたのに…。あの時以来力が使えないなんて…」


彼女を守ろうと決めたのに。


胸がつきりと痛んで、アリエッタは不思議な気持ちになった。どうしてこんなに痛むのか。考えても、答えは出ない。


深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。それを見ていたアクアが、口を開いた。


「アリエッタ」


その朗らかな声は、人を安心させる何かがある。アリエッタがアクアの方を見ると、顔が予想以上に近くにあってどきりとした。その優しい美貌が淡く微笑む。思わず見とれたアリエッタは、はっとして顔を逸らした。わざとらしく大きな伸びをして、両足をふらふらと動かす。


「……アクアは、母さんみたいだね、雰囲気がさ」


まあ憶えてないんだけどね、と彼は苦笑した。


「憶えて、いない?…記憶が戻っていないの?」


「ううん。いないんだ。僕が生まれてすぐ出て行ったって、父さんが言ってた」


「…お父さん、アリエッタの事を心配しているでしょう? こんな旅に出て、本当に良かったの?」


アクアが悲しそうに言えば、アリエッタは首を横に振った。


少し淋しそうに。


「父さん、5年前に亡くなったんだ」


「! ごめんなさい…」


アクアがさらに眉を下げるので、アリエッタはやるせない気持ちになった。見慣れた反応だった。けれど彼女がすると、落ち着かない。


アリエッタは活発そうな表情で、努めて明るく言う。


「母さん、踊り子をやってるらしいんだ。世界を転々としてるって。───だから」


彼は何かを懐かしむように、前方の遠くを見つめた。アクアを助けたいと思った時、声が聞こえた。あの時。あの時聞こえた声は、母のものでなかったのか。理由はない。根拠もない。ただ直感的に、そう思った。生きているのか、死んでいるのかすら判らない、母。


「だから、この旅のついでに母さんに会えたら良いと、思ってる」


そう言って彼は無邪気に笑った。アクアは眩しいものを見る時のように目を細めていたが、すぐに微笑んで、頷いた。


「…ええ。見つかると、良いわね」


これがアクアの言える、精一杯だった。







目的の街には、時間通り夕方になった頃、辿り着いた。平野に広がる、数々の家。その数はアリエッタのいた街より少なく、どこか閑散とした雰囲気があった。そして街の中央には、大きな噴水がある。


「うわー…綺麗」


馬車に乗ったアリエッタは、思わず呟いた。水滴が夕日に照らされて、きらきらと輝く。


「綺麗なのは噴水だけではないわ」


手綱を握ったアクアが、いたずらっぽく笑って言う。


「此所は星の街ケイン。お楽しみは、夜になってからよ」


その科白の意味が判って、アリエッタは目をきらきらと光らせる。楽しみにしているというのは、一目見て判った。それを見てアクアは、ほっと息をつく。力の事ばかり考えていた彼は、リラックスしてくれただろうか。声には出さずにそう思って、カポカポガラガラと馬車を進めた。その馬車を遠くから、街の人々が眺めている旅人が珍しいのか、それとも好奇心か。子供の方が多い。アリエッタが無邪気に手を振ると、子供達は一瞬警戒したようだが、手を振り返してくれた。


暫く馬車へと手を振っていた子供達だが、別の場所へ視線を移すと、はっとしたように顔を強張らせた。


「ウィングリュックだ……!」


子供達がそう囁き合ったのを聞いて、アクアは馬車を止める。


「アクア?」


アリエッタが呟くのを、自らの口元に指を当てて止める。すると子供達の囁きがやけに大きく聞こえてきた。




 あかい目の子は悪魔の子




 目が合う人に不幸を振り撒き




 名前を呼んで死へ誘う




子供達の殆どが、一斉に、逃げ出した。子供達の殆どが所々の家へ逃げ込む中、ひとりの少年が足元にあった石を拾い上げた。その光景に、アリエッタが街から追い出された光景が重なる。石を持った、空色の瞳が印象的な少年は、噴水の方へ向かって石を投げつけた。


「ウィングリュックめ!」


それ以上の暴言を吐く事を恐れているのか、少年は顔を真っ青にして、逃げるように駆けて行った。アリエッタとアクアは、人々がいなくなって静閑とした場所で、暫く呆然としていた。


ざあざあと、噴水が流れる音だけが響く。


アクアは、馬車から飛び降りると何処かへ歩き出した。アリエッタもそれに続く。


噴水の傍へ近寄ると、其所には少女がひとり、立ち尽くしていた。


綺麗に輝く金髪を、首の後ろで二つに結った、見た目15歳位の少女だった。長い前髪で目が隠れた顔は見え難い。しかしその頬に血が一筋流れているのは、見る事が出来た。


「! 君、怪我をして…!」


アリエッタが駆け寄ろうとした時、少女が顔を上げた。前髪の隙間から、二つの目が覗く。




少女の瞳はまるで、夕焼けのような朱い瞳をしていた。


それはまるで全てを諦めたかのように、虚ろに濁っている。


その目と、視線が合った。


「!!」


「近づかないで」


低く、感情を押し殺した声が鳴る。少女の虚ろな朱い瞳から目を逸らせずに、アリエッタは硬直した。少女はその強い視線を向けたまま、アリエッタに向かって言った。


「あんたはあたしと目が合った」


「え───」


「不幸に、なるわよ」


そう少女は言い残して、早足に去って行ってしまった。その後ろ姿を追う事は、出来なかった。


「───アリエッタ」


立ち尽くしていたアリエッタの両肩に、アクアの手がそっと乗る。安心させるように。するといつの間にか強張っていた身体が、楽になった気がした。アクアは真剣な面持ちで、ウィングリュックと呼ばれていた少女を見つめていた。


「どうしたの、アクア?」


アリエッタが振り返ると、彼女は何かを考え込んでいるようだった。


「あの子は、魔術師だわ。ただ、少し……」


そう呟いてアクアは、黙り込んでしまった。







この街の宿屋に着いた頃には、日が暮れていた。噴水のある広場から住宅街へ向かい、そけから更に離れた場所に、宿屋はあった。外に馬車を止め中に入ると、見た目は一般家庭のような、温かそうな所だ。


「なんだ、アクア嬢さんじゃねえか」


其所にいた、店主らしい若い青年が口を開いた。ばさばさの茶髪に、すっきりとした顔立ち、怖そうな三白眼。首からアンティーク調の鍵をネックレスにしてかけている。


「ラントさん、お久しぶりね」


「ああ、一ヶ月振りか」


親しげに話す二人を見て、アリエッタはぱちくりと瞬きをした。するとアクアが気付いたように、アリエッタの背中を押した。


「ラントさん、彼はアリエッタ。私の探していた人よ」


探していた、そう言われてどきりとする。ラントと呼ばれた青年は、三白眼気味の瞳をアリエッタに向けた。その瞳は夜空のような、深い紺色をしている。目付きが悪い分怖い人に感じられ、アリエッタは身を竦ませた。対するラントは安心させる為か、からりと陽気に笑った。


「へえ、あんたが嬢さんの探し人? んな怖い顔しなくたって、食ったりしねえから」


ラントはそういってアリエッタの頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。


彼はそのままアリエッタとアクアを近くの椅子に座らせると、慣れた手つきでハーブティーを淹れ、二人に差し出した。一口飲むと、良い香りと味が広がる。


「ラントさん、少し訊ねたい事があるの」


向かい側の席にラントが腰掛けると、アクアはそう切り出した。


「何だ?」


「ウィングリュックと呼ばれている、女の子の事よ」


途端、ラントの顔が険しくなった。


「……あんた等もウィンの事を"ああいう目"で見るのか?」


「違う、そうじゃないの。ただあの子が、いつこの街にやって来て、昔の記憶があるのか、訊きたいだけ」


そのアクアの科白に、ラントは驚いたようだった。自然と身を乗り出し、紺の瞳が煌めく。


「何故記憶の事を訊く」


「その事によって、私の探し人かもしれないって事。そうしたら、私はあの子を連れて行かなければならない」


暫くラントは黙っていた。アクアはめげずに、強い視線で見つめている。アリエッタはどうして良いか判らず、ただ待つ事しかできなかった。


ウィングリュックの、虚ろな朱い目を思い出す。




 あかい目の子は悪魔の子




 目が合う人に不幸を振り撒き




 名前を呼んで死へ誘う




あの強く、しかし全てを諦めたような暗い瞳と目が合って、背筋が凍えたのを覚えている。


不幸を呼ぶ。


そんな事は信じていないが、それでもあの少女には力が感じられた。それが指輪の事と関係があるのか、アリエッタには判らないが。


「───ウィンは、嬢さんがケインを出てすぐ、いつの間にか現れた子だった」


ぼそりと、ラントは呟いた。その表情は痛みを堪えるように、怒りを押し隠すように、しかめっ面をしていた。


「この街の誰も、ウィンの事を知ってる奴はいなかった。だからウィンは異端者と疑われた。でも今もこうして、まだ街にいる。何故だか判るか?」


「"不幸を呼ぶ子<ウィングリュック>"だから…」


答えたアクアに、ラントは頷いた。アリエッタは訳が判らず、きょとんとする。そんな彼をラントは一瞥すると、面白くなさそうに言った。


「この街には昔から、赤い目を持つ人は悪魔の子供だという言い伝えがある。そいつの事をウィングリュックと呼び、災いをもたらすんだとよ。この街に来て聞かなかったか? "あかい目の子は悪魔の子"から始まる"歌"をよ」


アリエッタが頷けば、ラントは続けた。


「ウィンを役人の所に連れて行こうとした男が、突然魔物に喰い殺されたんだ。それを、あの朱い目の事もあって、奴等はウィンの所為にした。悪魔の子が不幸をよんだと、あいつに関わってはいけないと───」


そうしてあの少女は、今もずっと差別をされ続けている。馬鹿馬鹿しいと、ラントは吐き捨てた。どうやら彼は、街の人々の事を嫌悪しているようだった。


言い伝えを信じ込み、それに縛られている人々を。


「あの子の本当の名前は、ウィングリュックではないでしょう?」


アクアが静かに問うと、彼は頷いた。


「ああ。本名は自分でも覚えてねえみたいだ」


するとアクアは、何かを考え込むように目を臥せた。引っ掛かる事でもあるのか、難しい顔をしている。ラントはその様子を怪訝に思いながら、口を開いた。


「なあ、ウィンは嬢さんの探してるって人なのか?」


「…ええ。その可能性は高いわ」


「そうだとしたら、アリエッタの少年みたく、一緒に旅に出るのか?」


「ええ」


アクアがラントの目を見つめて答える。その瞳はいつものように静かな水面のようで、迷いがなかった。ラントも夜空色の三白眼をアクアに向けた後、席から立ち上がった。座っている二人を、アクアのそれと負けない強さで見つめる。


「なら、頼みがある」


強い意志をもった、しっかりとした言葉。


しかしラントが何かを言おうとした時、横槍が飛んできた。




「その人達にあたしを押し付けて、役人のもとに連れて行かせるつもり?」




声がした方を振り返ると、階段の近く、柱時計の傍に少女が立っていた。輝くツインテールの金髪。そして長い前髪に隠れた、どこまでも暗く虚ろな、朱い瞳。


「ウィン……」


ラントが呟くと、ウィングリュックは強い視線で三人を睨みつけた。そこには先程の諦めの感情は見えず、強い拒絶が浮かんでいる。睨まれ、アリエッタは無意識に身体を震わせた。その位、彼女の視線は恐ろしい。


ラントは首を横に振った。


「ウィン、違う」


「嘘、嘘よ。あたしの世話に嫌気がさして、役人に連れて行って殺させるつもりなんでしょう。あたしが邪魔だから!」


「違う!」


叫び合う二人の間に、止めるようにアクアがすらりと立ち上がった。二人が口をつぐむ。アクアはウィングリュックに向き直ると、優しい表情で言った。


「…貴女は、本当はそういう名前ではないのでしょう?」


するとウィングリュックはびくりと肩を震わせた。その目には恐怖が浮かんでいる。


「……あたしはウィングリュック。それ以外の何者でもない!」


「でも、貴女には別の名前がある。記憶と一緒になくしてしまった、大切な名前が。旅の事は、貴女が行くか行かないか、貴女自身が決めれば良いわ」


アクアは、少女の事をウィングリュックと呼ばなかった。それは意識してわざと呼んでいないのだと、アリエッタは感じた。一瞬、ウィングリュックの瞳が揺れる。その顔は青ざめ、身体は小刻みに震えている。一体、何に対してそんなに怖がっているのか。それでも彼女は、アクアの事を強く睨みつけ、二人の視線が交わる。


「────あたしは何処にも行かない」


絞り出すように、ウィングリュックは吐き捨てた。怒りと恐怖に震えた瞳が、アクアを射殺せんばかりに暗く輝く。


なんて、目をしているのだろう。


アリエッタは竦んでいた身体を動かして、立ち上がった。彼女に近寄ろうとするが、その前に彼女が後退る。


「ねえ────」


「話し掛けないで、呪い殺すわよ!」


アリエッタの言葉を遮って、ウィングリュックは声を張り上げた。まるでその声に反応したかのように、辺りがびりびりと震える。


「とにかく、あたしは何処にも行かない。記憶も取り戻さなくて良い。旅なんてまっぴら!」


そう叫ぶと彼女は、階段を駆け登って向こうへ消えてしまう。バタン! と勢い良く扉の閉まる音がして、それきりしんと静まり返る。


気まずい沈黙が、辺りを包む。


「………アクア」


その沈黙を破ったのは、アリエッタだった。彼はアクアの方を向き、真っ直ぐな瞳で彼女を見つめる。


「アリエッタ?」


「あの子と、ウィングリュックと話して来ても良い?」


そう訊ねたものの、アリエッタはアクアの返答を待たずに駆け出した。階段を登り、消えていく。名前を呼ばれたが、聞こえないふりをした。







「───あの子は此処に住んでいたのね」


アリエッタのいなくなった宿屋の食堂の椅子に、アクアは腰掛けた。他に人がいなくて良かったと安心する。あの叫び声は、もう夜になった時間では酷く迷惑だっただろう。


「ああ、引き取ろうとする奴がいなかったから、俺が」


ラントは疲れたように、ばさばさの茶髪を掻くと、彼女に倣って自分も席に座った。自分が店の者だとか、気にしていない様子だ。


二人は暫く、沈黙した。カチコチ、カチコチと柱時計の刻む音だけが響く。アクアはその柱時計を見つめていたが、何かを思い立ったように、ラントに向き直った。


「…ラントさん、あの、魔物に殺された男の人って」


ラントは、ああ、と気のない反応をすると、自嘲的に薄く笑った。


「……俺の、父親だ」


アクアは悲しそうに、少し眉を下げた。1ヶ月前、この宿屋へ来た時はテキパキと仕事をする、彼の父の姿があったのを、しっかりと覚えている。父がいなくなったのも、此処に客が来なくなったのも、あの少女が此処にやって来たからだろう。


不幸を呼ぶ子、だから。


自分でもそれを認めていた少女。憎悪と、恐怖と、諦めと悲しみに染まりきった、朱い瞳をした少女。


ラントは立ち上がると、柱時計の前まで歩いていった。その柱時計には、小さな鍵穴が付いているのが、見えた。彼は首にかけたアンティーク調の鍵に、触れながら言った。


「親父は、自分が死んだらこの鍵で時計を開けてみろと言っていた」


でも、開けられない。


何故?


それは簡単だ。


「………未だに俺は、親父が死んだ事を認めちゃいねえんだ」


そう言うとラントは、"あの子"とそっくりな表情をした。五年前父が亡くなったと、仄かに笑みを浮かべる、少年。しかし父がいなくなった事を認められず、けれど父の姿が見れない虚無感に、呆然としている、彼。


アクアはそんな彼を、冷たくとも見える静かな視線で見つめながら、冷めきった紅茶を飲む。




ああなんて莫迦らしいのだろう。


いないものは、もういないのだ。


取り戻す事など出来やしない。




「…………ウィンは悪くない」




ラントは、柱時計を撫でながら呟いた。まるで言い聞かせるように。


「ウィンは不幸を呼ぶ子じゃない。悪魔の子なんかじゃない。あいつは、ただの人間だ。───だから」


ラントは再び、アクアを見つめた。


「あいつには、人間らしい幸せを味わってもらいたい」


しっかりとした、芯のある夜空色の瞳が、アクアの静かな水面に映る。


「なあ、嬢さんと少年に、頼みがあると言っただろう」


「ええ」


その意志のある力強い瞳で、ラントは切実に、辛そうに、声を絞り出した。


「もしウィンを旅に出すのなら、あいつを不幸にだけは、しないでくれ」


まるで、最後の願いだと言わんばかりに。アクアはその優しい美貌を綻ばせて、もちろんだと頷いた。







アリエッタは暗い廊下を歩いていた。


灯りをもってくれば良かった、とぼやくが、今更下に降りる事は出来ない。彼女と話すまでは。


廊下に続いた扉の数々。その中の、一番奥にある扉の隙間から、光が漏れている。おそらくあの部屋に、彼女がいるのだろう。


アリエッタは扉の前に立つと、コンコンと軽くノックした。息を飲む気配がする。


「少し、話をしても良い、かな」


返事はなかった。けれどアリエッタは構わずに、その場に座り込んで話す姿勢をとった。


「あ、僕はアリエッタ。僕の隣にいた女の人は、アクア。二人で旅をしているんだ」


まだ始めたばっかりだけど。


アリエッタは自然と顔を綻ばせて、先を続けた。


「僕と君は、同じかもしれないね」


扉の向こうで、はっと息を飲む音が聞こえた。


「僕も、名前と記憶をなくしたんだ。街の人達に凄い目で睨まれて、街を追い出されて。何も判らなくてどうすれば良いのか判らない時に、アクアが助けてくれたんだ」


そしてアリエッタは、リア・ファルの事を単純に説明した。チャームを見つける事、仲間を探す事、そして、世界を救うと言う、アクアの事。


「───だから、何?」


冷めた声が、扉の向こうから鳴った。言葉の意味よりも声を掛けてくれた事が嬉しくて、アリエッタの瞳が輝く。


「そんな事、あたしには関係ない。指輪なんか知らない。それにあたしには、もう名前がある」


「でもウィングリュックって名前は、あんたの名前じゃないって」


「あたしはウィングリュックよ!それで良い!」


扉に何かが、叩き付けられたような音がした。


「あたしが何をしたって言うの!」


声を荒げる度、彼女の声は悲痛になっていく。


「あたしが何か罪を犯したと言うの!?物を盗った!?人を殺した!?あたしは何もしてない!どうしてこんな目に合わなきゃいけないの!?」


悲しさも辛さも押し隠して、声と視線を強く張り巡らして。


「…………だからこそ」


アリエッタは静かに口を開いた。安心させる為に、敵ではないと、伝える為に。


「だからこそ、君を助ける為にも記憶を取り戻そうよ。僕も力になれるのなら、それを手伝うから」


「あんた、馬鹿!?」


しかし返ってきたのは、怒声。


「そんな事を平気で言える人が、あたしを助けられるとは思えないわ!」


もう話し掛けないで!


彼女はそう怒鳴ると、それきり静かになってしまった。幾ら声を掛けても、返事はもう来ない。もう無理かと諦めて、しかし諦めきれないまま、アリエッタは立ち上がった。後ろ髪を引かれる思いで、アリエッタは最後に言った。


「一緒に、記憶を取り戻そう。僕は絶対、手伝うから」


そうしてアリエッタは、来た廊下を駆けて去っていった。

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