白い景色
西影
第1話
すぅ、すぅ、はっ、はっ……。
二回吸って二回吐く。一定のリズムで呼吸を繰り返すにつれて、思考が白い靄に侵食されていく。だが、これでいい。僕はこの瞬間のために走っていた。
夜の公園ということもあって僕以外の人が見当たらない。どんどん後ろに流れていく桜並木。風が吹くたびに桜の花びらが散っており、あと数日もすれば緑葉のカーテンが完成してしまいそうだ。まだ四月上旬だというのに春が終わってしまうような錯覚に陥る。
数日間見慣れた景色ともお別れか。寂しいようで、なんでもないような思いが浮かんでくる。実際問題、桜目当てでここを走っていたわけではないし、どちらかと言えば『桜がある道』の方が日数的には見慣れない道だった。
だからいつだってここは見慣れた景色なのである。
……前言撤回。今日は本当に見慣れた景色ではないらしい。白くなっていた景色に色が戻ってくる。
街灯で照らされている木製のベンチ。そこに誰かが座っていた。長い茶髪が見えるからおそらく女性だろう。しかし休憩しているように見えない。水すら飲まず、静かに下を向いているだけ。こんな状況を見かけるのは初めてだった。
幽霊とも思ったが、頭を横に振って否定する。そんな非科学的なものを信じたくないし、変に考えたら就寝時に面倒だ。
それにしても、どうしたものか。いつも僕が休憩しているベンチに先客が一人。隣に座っても怒られないか心配になる。
いや、先約がいるなら少し走った先にある他のベンチに行けばいいだけじゃないか。
速度を落とさずにベンチを通り過ぎる。しかし、頭からベンチの女性が離れてくれない。あと数分もすれば二十二時半。女性が一人でいるのは危険な時間帯だ。もし、夜の公園で女性が酷い目に……なんてニュースを翌朝聞いたら後味が悪すぎる。平和な日本だから簡単に事件は起きないと思うが、一度考えてしまうと嫌な想像が拭えなかった。
方向転換をし、ベンチへ向かう。既にいなくなっていたら気にすることもないのだが、残念なことに未だ座っていた。ランニングウェアを着ているあたり走りに来たのだろう。しかし相変わらず俯いたまま。歩いて近づいても顔を上げない。
もしかして寝てる?
「あの、大丈夫ですか?」
僕の声に女性が勢いよく顔を上げる。艷やかな茶色い長髪に美しい二重の瞳。困惑を見せている顔すらも思わず見惚れてしまう。雑誌に載っているような人たちと遜色ないその容貌には見覚えがあった。
「
驚きのあまり、頭に思い浮かんだ言葉がこぼれてしまう。うちの高校で彼女の名を知らぬ者はそういない。偏差値が高いわけでも、部活動に盛んなわけでもない高校に突如現れた光。
容姿端麗スポーツ万能の陸上部。高校一年の頃から壇上で賞状をもらう姿は凛としており、この前も彼女の取材のためにテレビ局の取材が来ていた。まさに天から二物を与えられたような存在。それでいて驕らず、年相応に周囲と楽しそうに過ごしている彼女はクラスの中心にいた。三年に進級したら話せる友人がクラスにいなかった僕とは大違いだ。
だからこそ、目の前の光景を疑ってしまう。人気者の彼女が夜の公園で独り座ってる姿はどこか夢のように感じられた。
「……なんで名前を知ってるんですか」
そんな彼女とのファーストコンタクトは、どうやら失敗してしまったらしい。美しい瞳はどこか威圧的で、しかし足は微かに震えているように見える。夜で体が冷えたというより恐怖の震えだろうか。発言からして僕を知らないようだし、彼女から見た僕はさしずめ夜の公園で話しかけてきた不審者か。……自分で言ってて泣きたくなってきた。
「えっと、僕は
「あ、学年一位の……」
思い出したかのように呟かれる。どうやら僕のことは『頭のいい奴』として記憶していたらしい。顔と名前が一致していないのは残念だが。
「覚えてくれていたようで何よりだ。それよりこんな夜中にどうしたんだ? そろそろ補導される時間だぞ」
「別に、
「そうだけど夜の公園に女子高生が一人って危ないだろ」
「あと数分したら帰るから。私のことは気にしないで」
ここまで拒絶されたら帰るしかない。公園の出口に足を向け、それでもやはり心配で振り返る。そこで
「まだ何か用?」
「……ちょっとな」
ある可能性が頭を過り、近くにある自販機でスポドリを購入する。それを
「なんの真似?」
「もし怪我したんだったらちゃんと冷やせよ。治りが遅くなるし」
スポドリをベンチに置いて今度こそ公園を後にする。もし僕の勘違いだったら恥ずかしいし……。
ただ、一応医者を目指している者として、捻挫の可能性がある人を放っておけなかった。
「はぁ、慣れないことはするんじゃなかった」
これまでの女子と会話する機会は授業のペアワークぐらい。今回に関しては相手があの
「ただいま」
家に帰っても返事はない。そういえば今日は両親ともに夜勤だと言っていた気がする。兄さんは部屋で勉強してるからか、物音一つしない。靴を揃えて自室に向かう。眠くて欠伸をこぼしていると、兄さんの部屋のドアが開いた。
「あ、おかえり。また走ってたのか?」
「まぁね。兄さんこそ今日も勉強?」
「勉強つっても暗記ばかりだがな。ほんと、高校とは比べものにならん」
「やっぱ医学部は大変?」
「そりゃあもちろん。家でも大学でも勉強三昧。おまけに部活も入ってるから体力的にも辛いけど、これぐらい乗り切ってこそ医者だよな」
「そっか」
「おいおい、他人事でいられるのも今のうちだぞ。一年後には
兄さんはニヤリと挑発的な笑みを上げるとリビングの方へ向かった。どうせ今から休憩してもまだ勉強するんだろうな。兄さんの部屋はいつ見てもドアの隙間から明かりが漏れてるし。一体、いつ寝てるのやら。
「これぐらい……かぁ」
この家にいると自分という存在がいかに小さいか思い知らされる。国立医学部に現役で入学した兄に、病院の看板でもある名医の父とそこに勤めている母。はっきり言って家族全員僕とは頭の出来が違う。本当に同じ血が通ってるのか疑うこともあるし、劣等感を抱いてばかりだ。
僕なんて当時の兄さんと比べると悲惨で、入学した高校の偏差値は二十以上離れているし、模試の結果だって余裕で負けている。それでも両親は医学部に行けると信じているし、そのために小学校から塾に通い続けて早十二年。特に将来の夢があるわけでもないので医者を目指しているが、未だに実感が湧かなかった。というより医者になれるという未来が見えないの方が正しいか。
「人生、どうなるんだろうな」
将来への不安、焦り、劣等感。全てを洗い落とす様にシャワーを浴びてから湯船に浸かる。そのまま心地のいい疲れを取るように全身の力を抜いた。
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