ワキガ治療をした話

「あんたの腋臭いよ!」


 ある日、私は同居している母親にそう言われた。


 実際にはここまで直球で言われたわけではない。それどころか何重にもクッションを挟み、オブラートでぐるぐる巻きしたような、以下のような言葉を言われたのだ。


「えーっとあのね。お母さん少し前に皮膚が荒れてね。だから評判のいい〇〇皮膚科医院ってところに行ってきたんだけどとっても良くて肌も良くなったのよ、うん。だからね、あなたも行ったほうがいいと思うの。なんと言うかあなたの腋ってちょっと臭うじゃない?」


 なるべく私を傷つけないようにしてくれた母の気遣いはわかったが、結局のところ「腋が臭い」と言われた事実は変わらない。さらに言えば「腋が臭い。だから病院へ行け」と言われているのだから酷い話だ。よっぽど臭くないとここまでのことは言われないだろう。


 しかし、私は母の言葉を素直を受け入れることができず、内心こう思っていた。


(俺はワキガじゃねーし)


 そう本気で思っていたのだ。しかし、ワキガの人間は自分をワキガであると自覚していないというのはよくある話だ。ワキガ患者のセルフワキ臭チェックなど、なんの参考にもならない。他人に「ワキガ」と言われたならそれはもう間違いなく「ワキガ」なのだ。


 しかし、私は悪あがきをした。病院へ行くのを拒否したのだ。


「いや、いいよ。金無いし」


 そう母に言ったがもちろん嘘である。仮にも社会人で、実家に居候している私である。診察代を払えないほど困窮しているはずがない。もちろん、今から行ってすぐアポクリン汗腺を切除する手術を行うとかならまとまった金がいるかもしれないが、そんなはずはない。


 病院へ行きたくないのは、自分自身がワキガであると認めたくないからだ。病院に行かず、医師の診察を受けなければ、とりあえず書類上私はワキガでは無い。しかし、診察を受け「ワキガです」と宣告されたが最後。私は「ワキガ人間」へと身を落とすことになる。絶対に病院には行きたくない。


 すると、悪あがきをする私に対して、母は驚くべきことを言った。


「お金なら出すから」


 私は泣きそうになった。


 母は私にワキガを治して欲しくて金まで出してくれるのだそうだ。これほどの屈辱と申し訳なさを感じたことはない。


(そうか、それほどか。それほど臭いのか俺の腋は)


 最早意地を張るのはやめた。母に迷惑をかけないためにも一刻も早くワキガを治療すべきだ。私はすぐに皮膚科医院へ向かった。もちろん母から金など受け取らなかった。そんなことをしたら何かが終わると思ったから。


 そういうわけで私は〇〇皮膚科医院へとやってきたのだ。母が評判がいいと言っていただけあって、かなり混んでいた。1時間ほど待ってから、私は診察室へ入った。先生が出迎え、私に質問する。



「今日はどうされましたか?」


「母が……家族が私の腋が臭うと言うんです」


 先生の質問に、私は正直に答えた。


「では、ちょっと嗅いでみましょう」


 先生は私の腋に鼻を近づけ臭いを嗅ぎ、そして頷きながら答える。


「うん、別に強烈に臭うというわけではないですね」


「ほ、本当ですか?」


 私は少し安心した。先生か腋の臭いを嗅いだ途端「く、臭すぎる!」とか言って泡を吹いて倒れたりしなくてよかった。だが同時に「臭うことは臭うんだな」という感想もあった。


 結果として私は「軽度のワキガ」ということらしい。そして、次に治療の話になった。


「ワキガに効く薬があるのでそれで治療します」


「薬で治るんですね」


「はい、処方しますので毎日塗ってください。ただし! 強い薬なので取り扱いにはくれぐれも注意してください!」


 そう結構強い口調で言われた。たかが薬を処方されるときにこんなことを言われたことは今までない。


「では処方するにあたってアンケートに答えてもらいます。こちらに記入してください」


 薬を処方してもらうためにアンケートに答えるなんて初めての経験だった。アンケートは以下のような内容だった。


『あなたの現状に当てはまるものを選んでください』


1、腋臭により生活に大きく支障をきたしている

2、腋臭により生活にやや支障がある

3、腋臭が気になるが生活に支障はない

4、腋臭は特に気にならない


 うろ覚えだが、こんな感じの質問が何問かあった。私は上記の質問に『3』で答えようとしたが、先生に止められた。


「待ってください! そこは『1』を選んでください!」


「え? なんでですか?」


「アンケート全部『1』を選んでもらわないと薬が処方できないんですよ」


 そういうことらしい。なら最初に言ってくれと思った。こうして私は書類上「腋臭により生活に大きく支障をきたしている人間」になってしまった。


 その後、薬について説明を受けた。


「さっきも言いましたが強い薬なので取り扱いに注意してください。塗り薬ですが指で塗ったりせずに、容器の蓋の外側に薬を出して、腋に蓋を押し付けるようにして薬を塗ってください。患部以外の肌に薬がくれぐれも触れないように。もし薬が付いてしまったら水で洗い流して、異常があれば相談してください」


 こんな感じで念入りに注意を受けた。薬の処方でここまで厳重に注意されたのも初めてだ。私は少しだけ不安になったが「病院で出してもらったものなんだから少なくとも毒ではないだろう」とも思い、処方された薬をその日から使うことにした。


 その日の夜。風呂から出た私は腋に薬を塗った。薬を塗った箇所がひんやりと冷たく、なんだか腋がスースーした。


「こんなことでワキガが治るのだろうか?」


 私は正直半信半疑だったが、試してみるしかない。腋が臭いと家族に迷惑をかけるし、やれることはやっておこう。


 腋に毎日薬を塗り続け、数週間が経過した。個人的には特に変わった様子はない。そもそも自分の腋臭を自覚していなかった私である。ワキガが治ったかどうかは自分ではわからないのだ。


 しかし、私の家族も私の腋臭について特に言及しない。やはり客観的に嗅いでも腋臭に変化は無かったということだろうか。


「やはり治療は失敗だったか」


 そんなことを思いながらも、薬が余っているので惰性で治療を続けた。


 しかし、そのうち腋に変化が起こった。と言っても良い変化ではなく悪い変化。左腋が急激に痛み出したのだ。


 鏡で左腋を確認していると肌が真っ赤になっており、炎症を起こしているようだ。そういえば最近薬を塗ると、腋がヒリヒリしてたような気がする。


「こりゃダメだわ」


 ワキガ治療中止を決意した私は、とりあえず母に報告した。母の勧めで始まったワキガ治療なので、いちおう母に報告するのが筋かと思ったからだ。


「お母さん。腋が痛くなってきたよ」


 私は母にそう言って左腋を見せた。それが1番手っ取り早いと思ったからだ。


「炎症してるね」


 母はありのままのことをそのまま言った。それでこれはもう治療をやめる流れだなと思った私は母に言う。


「じゃあ、もう治療やめようか。あんまり効果もなかったみたいだし……」


 私がそう言うと、母は急に目を見開いて大声で言う。


「そんなことないよ!!」


 本当にとても強い口調だそう言われた。どうやら気づいていなかったが、ちゃんと私の腋臭は改善されていたらしい。


「続けてみたら?」


 続けてそうも言われた。炎症を起こして大荒れしている私の左腋を見ても、なおそんなことを言う母が信じられなかった。副作用があったとはいえ、あの薬はよっぽど効果があったらしい。いや、今まで余程私のワキガに迷惑していたのか。


 結局、もう一度あの病院に行って先生に相談してみることになった。また休みの日に病院に行き、先生に腋について報告する。


 あの薬がダメだったとなると、次はどんな治療をするのだろう。薬を変えるのか、それとももう手術をするしかないのだろうか。色々考えていると、先生が口を開く。


「ふむ、では炎症を抑える薬を出します。それを塗って炎症か治ったら……」


「炎症が治ったら?」


「もう一度あの薬を試してみましょう」


「はぁ!?」


 母といい、この先生といい、よっぽどあの薬を腋に塗らせたくてたまらないらしい。痛いと言っているのになんでこんなことを言うのか。医者に逆らうのも気がひけるので、その場ではとりあえず「はい……」と言っておいたが、心中ではもうあの薬を塗る気は無かった。


 その後、炎症の薬を塗ったおかげか、痛みは引いたが私の左腋は黒く変色し、さらには時々強烈な痒みが襲ってくるという後遺症まで患ってしまった。


「もうワキガ治療なんて懲り懲りだよー」


 私は心の中でそう叫び、もう二度とワキガ治療なんてしないと固く誓ったのであった。





 とはいえ、ワキガ治療をしたことで得られた結果は、悪いことばかりではなかった。


 ある時、実家に兄夫婦が帰省してきた。その時、兄に何気なく今回のワキガ治療について話すと、兄は興味津々だった。


 そう、何を隠そう兄も実はワキガだったのだ。ワキガ治療に興味を持って当然だった。しかも、私と同じように他人に指摘されてワキガを自覚した口らしい。なるほど、私は兄とあまり似ていないと思っていたが、やはり私たちは兄弟だったようだ。さしずめ「ワキガ兄弟」と言ったところか。


 さらに私たちは兄弟の会話に兄の嫁、つまり義理の姉も加わってきた。義姉は私のワキガ治療について事細かく聞いてきた。義姉もワキガの兄と同居しているだけあり、私の母同様ワキガに迷惑しているようだ。


「ほら! 〇〇ちゃん(兄のこと)もちゃんと聞いて!」


 そんなことも言っていた。どんだけ臭いんだよ兄の腋は。


 さらに私がワキガ治療用の薬を塗っていたことを話すと、義姉はさらに興味津々だった。


 おかしい、私は義姉との会話で未だかつてここまで話が弾んだことはない。というよりそもそもあまり喋ったことがないのだ、私と義姉は。兄たちが結婚したのが新型コロナが流行った時期だったのと、遠方に住んでいることもあり、あまり会う機会がなかったのだ。しかし、そんな義姉とたかがワキガのことでこんなに盛り上がるとは予想外だった。ワキガで繋がる絆というものもこの世にはあるらしい。


 ついでに義姉は私に「その薬もう使ってないならくれない?」とも言ってきたが、そこは丁重にお断りした。流石に自分自身腋を痛めていることもあるし、処方してもらうのにアンケートまでした薬だし、人にあげるのはダメだと考えたからだ。


 さらに余談を言うと、最近私の父もワキガだと判明した。私、兄、そして父がワキガ。つまり、うちの家はワキガ一家だったらしい。ワキガという絆で繋がったワキガ一家。この絆を感じることが、今回のワキガ治療の唯一の収穫であったと私は考えている。






 まあ、それにしてもこのワキガ野郎に囲まれて今まで生活してきた母には「すまない」としか言いようがない。本当に申し訳ない。



 




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