第5話 ハンムラビ法典
号泣がしゃくり泣きになった頃、ゆっくりと振り向いた男がこちらに声を掛けた。私は渡された見慣れない上着を急いで肩から羽織る。
「大丈夫ですか?」
「は、い。 ……ありがとうございました」
私のたどたどしい言葉を聞くと、男は再び野盗の方を向きこちらを見ずに言葉を続けた。
「俺はここらの考え方に疎いのですが」
彼の視線の先の人間は、ひゅーひゅーと笛のような息を繰り返していた。既に野盗の頭目は逃げることもできないほど衰弱しているように見える。
「俺が前に居たところではこんな思想がありました」
野盗へ無造作に近づき、肩口の服を掴んだままこちらに引き摺ってくる。無意識に私の身が竦む。それに気付いた男は3メートルほど離れたところで立ち止まり、引き倒すように投げ捨て、うつ伏せになった背を踏みつけた。
「目には目を。歯に歯を」
「目には、目?」
娘も理解できなかったようで、しゃっくりのような泣き声が一瞬止まった。
「ある者が他人の目を潰した時は、自分の目も潰されなければならない。ある者が他人の歯を折ったのならば、自分の歯も折られなければならない」
虫の息でも耳はまだ聞こえているのか、踏みつけられた背がビクリと跳ねた。
「古典的な法です。あなたが被った損害と同等の報復を行う権利が、あなたにはある」
そう言うと彼はナイフを折り畳んでこちらを見た。
「どうしたいですか?」
―どうしたいか。どうしたいかだって?
「そんなの」
殺してやりたい、という言葉を私は寸前で呑み込んだ。腕の中には娘がいる。
何よりも大切なこの子の前で、親として発すべき言葉は何だろうか。許すのが正しいのか。
それは違うと即座に否定する。奪うだけ奪われて野放しにするのが正しいなど、到底思えなかった。
ぎゅうっと、娘を抱きしめる。アレナも一層強くしがみついた。
深く息を吸い、野盗を見る。恐怖と嫌悪と、そして憎しみが呼吸を浅くする。
「目には目を、ですよね」
頷いた男は私に委ねている。殺せと言えば、即座に殺すだろう。しかし怖いとは思わなかった。遠目からでもわかる黒い瞳は理知的だった。
彼は理性の上で殺せる人間なのだ。弱い者が好きに喰われるこの世界で、それは強者の証だった。
「少しだけごめんね」と娘の耳元で囁き、そっと耳を塞いだ。抵抗するかと思ったが、アレナは私の手の上に自分の手を添え、私以上の力でぎゅっと耳を押さえつけた。
子の成長は早い。見ない方が、聞かない方が良い事だってあることを、ちゃんと分かっている。
「……私は殺されていません。しかし、それに近しい程の辱めを受けました」
「はい」
耳を押さえる手に力がこもる。
「ならば殺さずとも。 死んだ方がマシと思うほどの罰を、その男に」
かしゃん、と何かが嚙み合った音がして顔を上げると、払うようにナイフの刃を露わにした男が既に背を向けていた。
「了解です」
手に持った武骨なナイフが、陽炎のように揺らめいた気がした。
「やめろ」という乙女のようなか細い声が聞こえた。どうか、お似合いの罰を貴様に、と心の底で唱えた。
実在の男が手を下す時におかしな話だけど、神に祈る気持ちと似ていた。
――
翌日、近くの街の住民が良く使う川のほとりで、息も絶え絶えの男が全裸で発見される。後に野盗であると判明するその男は両足の腱が寸断され、さらに口内が傷つけられていた。大貴族でもない限り生涯治ることも無く口もきけない、致命的な傷だった。
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