江戸端三重奏

群鳥安民

第1話 2023年 江戸川橋駅

 スマホが点かない。まただ。また充電を忘れていた。モバイルバッテリーに繋ごうとしたら今度はコードが無い。集合時間の9時はとうに過ぎているというのに、これじゃあ遅刻の連絡もできないじゃないか。有楽町線に揺られる私は深い溜息を吐いた。

 無反応のスマホを無造作にポケットに押し込んで駅を確認する。人身事故でかなり出遅れてしまったけれど、漸く江戸川橋駅に着く。そこは、私、千原澄美子が非常勤の研究員として通っているラボの最寄り駅だ。そして、6年前に就くんと出逢った思い出の駅でもある。




***




 就くんこと塚田就也と出逢ったのは、2017年の4月。慣れない東京の荒波の中で右往左往して迷子になっていた私に声を掛けてくれた優しい人だ。……優しい人だった。研究機関の所在地を伝えたら、近いからってその場所まで案内してくれたっけ。

 そこでの会話から、同じ大学の出身であると知り、意気投合した。そんな私達が恋人関係になるのに、それほど時間は掛からなかった。


 同じ時をキャンパスで過ごしておきながら、彼の顔も名前も見たことはなかった。学部も学年も違ったから、出逢えていなくて当然だ。でも、キャンパスのどこかですれ違っていたのかもしれないと思うと、なんだか運命的なものを感じてしまう。人を盲目にさせる恋とかいう奴の仕業だろうか。

 彼曰く、学生の頃はあまり真面目に勉強していなくて、卒業もぎりぎりだったらしい。最大の失態は、国外実習の前日の飲み会が祟って翌日に寝坊。それが原因で1年留年したんだとか。そんな失敗談を聞いていると、私のスマホ充電の忘れ癖なんて些細なことだなって思えた。


 彼は港で輸送品の積み下ろしをする仕事をしていた。一度、彼の職場風景を見に行ったことがある。レバーが何本も生えているフォークリフトを華麗に動かし、積み荷を傷一つ付けないで速やかに運んでいたっけ。車の免許すら持っていない私には、彼の姿がかっこよく映った。

 とは言っても、私だって機械音痴ではない。地方の大学から東京の大学院に進学して、電気回線の研究を続けた。そこから博士課程にまで進んで、現在は本命の研究をしながら、非常勤の研究員もして生計を立てている。

 研究の動機は、初めて手にしたスマホの性能に魅了されて、機械の仕組みを知りたくなった……的なことにしている。10年前に自分の身の上に起こったあの奇妙な出来事は、記憶からも抹消することにした。本当なら、思い出すことすらも許されない。絶対に。安全のために。そういう、約束なんだから。


 研究の道は険しい。手近な疑問を自分に呈してみては、そこから何か発見はないかと自分で模索していく日々。結果なんて、モグラ叩きのモグラみたいに簡単にひょっこり出てきてくれたりしない。そんな不作の苦しみやストレスが頻繁に湧いて来た。


「その電極繋げば行けると思ったのに~。何で? 何でなの?」

「澄美子は凄い研究してるね。いつかもしもボックスみたいなの発明しそう(笑)」


 けれど、小難しい話でも、就くんは耳を傾けてくれた。それが、死ぬほど落ち込んでいた私を「明日も頑張ろ!」って生き返らせる支えになっていた。思いもよらない所からとんでもない発見がひょっこり出て来てくれることに期待しながら、私は研究を続けていた。




 けれど、就也は突然にいなくなってしまった。2020年の7月、彼の職場で作業員が次々と体調不良を訴え、病院に救急搬送された。就くんも倒れたと聞いて私が病院に駆け付けた時、彼は既に危篤状態だった。病因はウイルスによる感染症。東南アジアからの積み荷に紛れ込んでいた蚊に刺されて感染してしまったらしい。

 私は研究に手を付けられなくなってしまい、通う場所がラボから病室に変わった。就くんの容体は変わらない。変わらないまま数日が過ぎた。


「結婚指環……買えなかった……」


 それが、就くんの最期の言葉だった。




 彼の葬儀の日になっても、私の涙は涸れなかった。葬儀場の端で一人目を泣き腫らし、私は生きる希望を失いかけていた。できることなら、彼を追い掛けたい。そう思うくらいに。

 けれど、その悲しみから這い上がるきっかけが、そこにはあった。それは、就くんと同じ学部生だったと言う男性が葬儀場で零した、或る言葉。


「あのウイルスの噂は本当だったんだな。お前もあの時、俺等と一緒に居たら、生き延びられたのかもな」


 そう。全ての始まりはここからだった。




***




 その男性が言うにはこういうことだったらしい。

 東南アジアの或る地域には、ウイルスを媒介させる蚊が蔓延している。その蚊に刺された際の症状は、年齢が上がるにつれて悪化するという。赤ちゃんならほぼ無症状。5~6歳の子供なら痒み程度で済む。しかし、十代では高熱を発症、二十歳を過ぎた者は大半が死に至る恐ろしいものだった。

 しかし、一度そのウイルスが体内に侵入したら抗体が出来上がり、以後は刺されても症状を発症しなくなる。現地の人々は若いうちに刺されて抗体が作られるから、一種の予防接種状態となって影響は無いらしい。

 その男性も、大学での国外実習で東南アジアを訪れた時、実習のメンバーと共に集団で蚊に襲われて高熱を出したんだとか。その実習とは、就くんが嘗て言っていた、寝坊して出席し損ねた実習だったのだ。


「あれ以来、実習の場所が変わってしまいましてね。発症の噂を聞いて、僕はその後にもう一度その場所を訪れて、蚊に刺され、ウイルスを貰ってみたんです。そしたら、あの時に高熱を発症したのが嘘みたいに平気でした」

「つまり、就くんはその実習に参加してさえいれば、今も生きていられたかもしれないということなのでしょうか?」

「その可能性は十分にあります」




 それ以来、私は過去を変えられないか、寝る間も惜しんで研究を続けた。電気回線を何とかすれば行けるんじゃないかと、在りもしない可能性に縋った。

 時間を逆行するなんて、人間には不可能な領域だって分かってる。そんなの真面目に訴えても嗤われるだけ。研究目的は取り繕いながらも、あらゆる手段を試みた。


 2023年。その研究に着手してから3年が経った。まだ希望の光は見えていない。




***




 9:12。江戸川橋駅に到着。電車から飛び出し、階段を駆け上がって公衆電話に一目散。ラボに遅刻の連絡を入れに行く。今日ばかりは、駅構内で就くんの面影を探している暇は無い。

 走っていたらカップのコーヒーを持った通行人とぶつかって、私服に染みを貰う始末。どうせ汚すなら、この後着る白衣にしてほしかった。一方の相手側は無傷。歩きスマホをするような輩なら、少しくらい茶色い染みをプレゼントしてあげれば良かった。

 謝意の無い平謝りをして、私は走り去る。スマホの充電を忘れがちな私は、こんなハイテクな現代でも、誰よりも公衆電話を利用している自信がある。何なら電話を分解して、軽い改造を装飾して戻せるくらい熟知している。


 受話器を手に取ろうとした時、公衆電話が聞いたことのない悲鳴を上げた。

 ……え? ……。

 この鳴き声が、目の前の公衆電話に着信が来ていることを報せるものであることを理解するのに、何秒の間があったろうか。

 そもそも、公衆電話って鳴るの? 流石の私でもこんなの知らない。


「も、もしもし!?」


 受話器から興奮気味の声が聞こえた。びっくりした私は、一旦受話器を耳から離し、不審に辺りをキョロキョロしてしまう。

 再び受話器を耳に当てる。よく聴けば、電話の向こうは何だか騒々しい。工事現場か何処かなんだろうか。


「もし……もし? どちら様でしょう?」

「良かった~、繋がった。千原澄美子さんね? 日付は2023年4月26日。場所は江戸川橋駅ね?」


 得体の知れない誰かに名前を言い当てられて、背筋が凍り着く。


「まさか、呪いの電話?」


 困惑している私を他所に、電話の主は慌てた様子でこう続けた。


「落ち着いて聞いて。私の名前は千原澄美子。10年後のあなたなの。事情は後で分かるわ。急ぎの用なの。今から言う番号のボタンをそのまま押して、電話を繋いで」






 数分の通話を、私はなるべく黙って聞いていた。通話が終了した後、私と、10年後の私を名乗る相手の通話に戻った。

 未来の私から電話が掛かってきただなんて、やはり未だに信じられない。未来の私が言っていたことは本当なのだろうか?


「では、あなたともこれでお別れ。2013年の私の行動で、今の私の世界もあなたの世界もどんな変貌をするか分からないから、気を付けてね」


 世界が変貌するって……。過去が変わったのなら、私の存在はどうなっ——

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