かんばせ聞きの令嬢と、記憶描きの従者
神野咲音
宝石店主殺人事件①
暗闇はわたしを安心させてくれる。誰の顔も見なくて済むから。
わたしのために用意されたこの屋敷は、燭台が少なく、いつでも薄暗い。それに、目元を隠す布を常に巻いていなければならない。
だから、わたしはもう何年も、人の顔を見ていない。鏡もないこの部屋で暮らすうち、わたし自身の顔も忘れてしまった。
それでいい。それが、いい。
ユースティティア・シヴオリ。それが、カルタスの仕えるべき主であり、シヴオリ公爵家の令嬢である人の名前だった。
カルタスはシヴオリ公爵家の使用人だ。仕事はただ一つだけ、ユースティティア嬢の身の回りの世話。着替えなどはさすがに女性の使用人が担当しているが、それ以外はすべてカルタスの役目だ。
窓からの光しかない、薄暗く狭い部屋。窓際に置かれたロッキングチェアに座る人形のような少女と出会ったのは、五年前、カルタス少年が十一歳の時だった。
「魔法もまともに使えぬ落ちこぼれ」と生家に捨てられ、シヴオリ公爵家に来たばかりだったカルタスは、目を隠した少女と引き合わされ、一目で心を奪われた。
その異様な風体ではなく、陶器のような白い肌でもなく、つやつやとしてまっすぐな黒い髪でもなく。小ぶりながら筋の通った鼻筋でもなく、ふっくらとした唇でもない。
外の世界など何も知らない、知ることを諦めた儚い微笑みに、どうしようもなく胸が高鳴ったのだ。
それ以来カルタスは、ユースティティアだけに忠誠を捧げている。
買って来たばかりの茶葉をティーカートに乗せ、ユースティティアの部屋の扉をノックする。返事が聞こえるまで待って、カルタスは扉を開けた。
「ティティ」
カルタスだけが呼ぶ愛称を口に乗せると、目隠しをした少女は口元を綻ばせた。
この部屋に入るのは、基本的にはカルタスだけだ。他の使用人は、必要な時以外ユースティティアには接触しないようにしている。それが恐怖から来る行動であることを知っていて、カルタスは何も言わなかった。
ユースティティアがどんな人物であるか理解しようともせず、表面だけを見て判断するような人間を、彼女に近づけたくなかった。
いつものロッキングチェアに座っているユースティティアは、カルタスが近づく足音に合わせて、少し体を前に乗り出した。
「カル、買い物に行ってきたのかしら?」
「ああ。よく分かったな」
「ふふ。外の風の匂いが、ほんの少しだけカルの体についてるわ。それに、車輪の音。押してるのはティーカートよね? 買って来たのは、ダージリンのセカンドフラッシュかしら」
「さすがティティ」
茶葉の缶を開けて差し出すと、ユースティティアは手で香りを嗅いで嬉しそうにした。
「わたしの好きなお茶だもの。もう新茶が出る頃だと思って、楽しみにしてたわ。毎年ありがとう、カル」
「どういたしまして」
ふと、ユースティティアの髪についた葉っぱに気付く。指先で摘まみ上げると、ユースティティアは不思議そうに自分の頭に触れた。
「葉っぱがついてた。温室に行ってたのか?」
「ええ。今は花が沢山咲いていて香りだけでも楽しめるし、鳥のさえずりも聞こえるから」
この屋敷は、シヴオリ公爵家がユースティティアのために用意した場所だ。
彼女が誰とも顔を合わせず、ただ静かに朽ちていくことを望まれた、そのための堅牢な檻だ。
令嬢一人が暮らすのに、何不自由ない設備と、十分な数の使用人。ただ、屋敷の中の燭台は最低限必要な数まで減らされ、窓から光が入らないよう、カーテンが常に引かれている。
ユースティティアが、なにものもその目に映すことのないように。
彼女がこの檻から出たいと言うのなら、カルタスはすべてを犠牲にしてもここから彼女を連れ出すだろう。だが、ユースティティアはここにいることを選んだ。
ならば、その心を尊重するだけだ。
カルタスは見えないことを承知の上で、彼女に微笑みかけた。
「ダージリン、今から飲むか?」
「ええ」
ユースティティアは歌うように首肯して、ロッキングチェアに深く腰掛けた。
「それで、今日はお兄様のお話を聞かせてくれるの?」
「……本当に、なんでもお見通しだな、ティティは」
外出した時に彼女の兄と出会ったことは、まだ話していないのに。
ユースティティアの兄は、一年前に事故死した両親に代わり、シヴオリ公爵家の家督を継いだばかりだ。そして、王国騎士団治安警備隊、通称『騎警隊』の隊長でもある。
「カルはいつも、お兄様と会った後はしかめっ面の声をしているわ。メイドたちに噂される綺麗な顔が台無しよ?」
悪戯が成功したみたいに笑うユースティティアは、布の上から目元に指をあてて、ぎゅっと吊り上げる仕草をしてみせる。
「旦那様もメイドも、俺にとっちゃどうでもいい」
「今度はふくれっ面ね」
ころころと笑うユースティティアの頬を、カルタスは摘まんで引っ張った。よく伸びて柔らかい。もだもだと頭を振るユースティティアだが、まだ笑っているあたり、本気の抵抗ではない。
カルタスが手を離すと、ユースティティアは一度だけ頬を擦った。
「だけどカル、いつもよりも少し声が優しいわ。お兄様と会った時に、何か面白いことがあったのでしょう?」
「……面白いかどうかは分からないが、話のネタにはなる」
この屋敷から出ることのできない彼女に、外で見聞きしたことを話すのが、カルタスの日課だった。それは例えば、温室には無い木に花が咲いただとか、王都で異国のお菓子が流行っているだとか、そういったものだ。
だが今日の話は、いつもと違っていた。
「物騒な話は嫌か? ティティ」
「いいえ。聞かせて欲しいわ」
「もちろん。ティティが望むなら」
それがカルタスにできる、数少ないことなのだから。
記憶の中の『声』を再生するため、カルタスは手のひらの上に魔力を集めた。
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