◆8
エマはクスリと声を立てて笑った。
「あなたにそんなことを問われる日が来るなんてね。あなた、他人になんてまるで興味がなかったじゃない」
「僕のことはいい」
顔をしかめて一蹴したジーンに、エマはまた微笑む。
「レイチェルが死んだら私も困るのよ。だって、ノーマが死んで、ただでさえ人手が足りないのよ。殺したりしないわ。……なんて、この茶番への返事はこれでいいかしら?」
エマはゆっくりとした口調でつぶやく。
どうしてこんなにも落ち着いていられるのだろう。
「大体、ノーマが死んだ時、私は働いていたの。証言してくださるお客様がいるはずよ」
「アリバイなんて意味がない。ノーマが、この――アデルの部屋に入ることができたらそれでよかったんだ。後は勝手に死ぬ。あんたはほんの少しささやくだけで十分だった」
ジーンは、眉間に皺を寄せた厳しい顔をエマから逸らさない。
「――砒素ってのは昔から古今東西で汎用されてきた。農薬や殺鼠剤だけでなく、美容目的で」
「美容? 毒なのに?」
呆然とつぶやいたアデルに返事をしてくれるでもなく、ジーンは続ける。
「過去に中国の一部では、女児が生まれたら砒素を少しずつ与えて色白の娘に育てるとされた。ヨーロッパ全土に砒素が入った〈トファナ水〉という化粧水が広まったこともある。この〈トファナ水〉を経口摂取すれば人が死ぬと知った妻たちは、亭主の食事にこの化粧水を混ぜ込んで――ある時代には未亡人が溢れ返っていたらしい」
カトリックでは簡単に離婚ができない。それこそ、死が二人を分かつまで二人は夫婦なのだ。愛想が尽きたら死んでもらうしかない。
それにしても、化粧水で殺されるとは。殺された夫たちは、妻の鏡台をチェックすべきだったらしい。
「あんたのルーツのオーストリアにも、この中国と同じような話がある。色白の美人を作るために砒素は服用されてきた。馬にも食わせると、腹の中の虫を駆除してくれて丈夫な馬になるってな。当時の人たちはそれを信じ込んでいたんだろうが」
「まさか、私がオーストリア出身だから、砒素が手に入れやすいなんて考えたの? すでに規制のかかった今の時代に? それだけで疑っているのなら、フロントのチェンも中国人だから疑ってみたら?」
「ニコチンも砒素も農薬だ。規制されてから百年と経ったわけじゃない。物持ちのいい老人の家の納屋でも探せば出てくるだろうな。実際、あのニコチンは古い。新しければあんなに臭いが強くなかったはずだ」
ジーンはしれっと返し、この段階になってエマを憐れむような色は微塵もなくなった。最も可哀想なのが何も知らない無邪気なノーマだと思えたからだろうか。
「レイチェルとノーマの担当が変わった日、出かけたアデルの部屋に、薬包紙で包んだ砒素を置いておく。それで、ノーマに言えばよかったんだ。アデルは毎日、肌を白くする薬を飲んでいるって。そばかすに尋常じゃないコンプレックスを持っていたノーマは、あっさり信じた。誰もいない部屋で、それらしい薬包がある。あれを飲んだらアデルのようになるのかと、一気に煽った――」
まさか、そんなことが起こるだろうか。
そういえば、姉も肌を白くするという触れ込みのものを色々と試したと言っていた。恵まれているアデルには理解できないだけなのか。
ノーマが美しい肌を手に入れたいと切望していたのだとしたら、なんとかしてその妙薬を飲みたいと思うものなのだろうか。
「嫌だ、そんなの飲むわけないじゃない。砒素は毒なのよ? 大体、その話に裏づけはあるのかしら」
エマは嘲笑うが、アデルにしても信じがたい内容だ。これはきっと、ジーンの推測に過ぎない。ジーンはエマが言い当てられて諦め半分に自供する方に賭けたのかもしれない。
けれど、ジーンはその不確かな推測しか持たないにしては堂々として見えた。
「あるよ。口止めしたくらいで、あのお喋りなノーマが誰にも言わなかったと思ってるとしたら、随分楽天的じゃないか」
アデルはピンと来なかったが、アデルよりもずっと、ノーマをよく知っているエマはヒュッと息を呑んだ。
「ジョエルが、ノーマが嬉しそうに薬の話をしていたと言っていた」
きっと綺麗になるから、楽しみにしていてほしいと。
その恋する乙女の心が踏みにじられた。
「ノーマには殺意を抱かれる覚えもなければ、毒だと見抜ける判断材料もなかった。昔から、マナリング博士の丸薬だの、万病に効くなんて怪しいものから、阿片入りのゴッドフリーズ・コーディアルまで、効くと信じていれば知識のない人間はなんだって飲んでいた」
皆が愕然としていても、ジーンの話は終わらなかった。
「他にも、ナス科の植物、学名アトロパ・ベラドンナ――通称ベラドンナの搾り汁を目に垂らすと、瞳孔が開いて魅力的な瞳が出来上がる。これは危険だと知りながらも、女たちはベラドンナを使い続けた。女たちの美しさにかける情熱は、男には理解しがたいところがある。こんな惨い殺し方を思いつくのは男じゃない」
「
不意にエマは自嘲気味に笑った。それこそ、目が輝き、これまでの平凡さが払拭されるような力強さを感じる。
ただし、それは魅力的な女性というのではない。ゾッとするような殺人者の顔だ。
どうしてこの人を姉に似ているなどと感じたのか、もうすでにわからなかった。
「レイチェルではなくて私を疑ったのは、レイチェルは美人で容姿に劣等感を持っている女の気持ちがわからないからかしら?」
レイチェルは言葉を失って青ざめていた。ケード刑事と巡査が気を張っているのが伝わる。
「どう答えてもあんたは気に入らないだろう?」
ジーンがそれを言うと、エマは顔をしかめた。笑わない彼女の顔にこそ本性が見える。
「女が命を脅かすほど美しさに固執するとしたら、そうさせるのはあなたたち男だわ」
「デリック・ミルトン氏はそういう男だったかもしれないが」
すると、エマは優しく微笑んだ。何故今、そういう表情を浮かべるのかがまるで理解できない。だからこそ、目をつり上げているよりもずっと恐ろしかった。
「そうね。だから婚約者のミス・マルグリット・ダスティンは彼を殺したのでしょう」
――今、彼女はなんと言ったのだ。
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