◆4

 その日の夕方に、デリックはランバート・ホテルに到着した。

 アデルはというと、アフタヌーンティーの真っ最中である。もちろん、ジーンを独占したいがためのことだ。ここへ来て太る気がしてならない。


 ヴィクトリアン・サンドウィッチをせっせと口に運んでいる時にデリックがラウンジまでやってきた。――サンドウィッチといってもパンではない。スポンジケーキにジャムなどを挟んだ菓子で、今食べているものは爽やかなレモンカードだ。


 とはいえ、スポンジケーキなので一度にたくさん呑み込むと喉が詰まる。それから、頬張っている時に急に呼ばれても返事はできない。


「アデル!」


 デリックの到着は明日くらいだろうと思っていたのに、まさかこんなに早いとは。

 グッ、と喉を詰めそうになったアデルに、ジーンはすかさずセイロンティーを継ぎ足した。しかし、熱い。チビチビと飲んでいると、デリックがこの前のマシューのようにしてアデルに近づいてきた。


「あら、デリック。ごきげんよう。早かったのね」


 鎖骨の辺りを撫でてアデルが息をつくと、デリックは特徴のない、それでいて人のよさそうな顔でほっと嘆息してみせた。


「元気そうだね。事件に巻き込まれたと聞いて心配していたんだけど、余計なお世話だったかな?」

「私は元気よ。でも、姉さんはすっかり参ってしまって寝込んでいるわ。知っていると思うけど、304号室よ。それとも、もう会った?」

「会ったよ。マルグリットは気が優しいからびっくりしたんだろうね」


 と、一応姉を気遣う言葉をくれた。

 悪い人ではない。本当に、普通の人だ。


「デリックが来てくれて、姉さんも心強いと思うわ。なるべく姉さんについていてあげてね」


 少しだけ笑ってみせる。

 これは妹としてのお愛想であって、過度の好意は要らないというサインでもある。

 デリックは小刻みに何度かうなずいた。


「ああ、そうするよ。アデルもくれぐれも気をつけて」

「ありがとう」


 去っていくデリックの背中を軽く眺めた。頼りないなで肩だ。

 今回のことで姉がデリックを頼りに思うようになれば万事解決だが、もしそうならなかった場合、二人はそれでも結婚するのだろうか。

 どこか遠い目をしていたアデルに、ジーンはポットをコトリと置いてつぶやく。


「あれがあんたの姉さんの婚約者か」

「そうよ。普通の人でしょ」

「まあな。このホテルに来たのは初めてじゃないな」

「そう? 私のお父様がここを気に入っているから勧めたんでしょうね」

「へぇ」


 たいして関心を抱いたふうでもなく、ジーンは言った。そんな彼をアデルは下から見つめる。

 その途端にジーンは不機嫌になった。


「なんだ?」


 媚びを含んだ目線を振り払うようにして言われた。それでもアデルはめげない。


「ううん、やっぱり結婚って好きな人とした方がいいと思うの」

「…………」


 ジーンにとって、アデルの発言はいつも突拍子がないと思えるのだろうか。返事がない。その上、真顔だ。


「姉さん、デリックのことそこまで好きじゃないみたいなんだもの」


 それを言うと、ジーンはやっと口を開いた。


「結婚は家と家とを繋ぐ側面が大きいからな。あんたの姉さんみたいに物分かりのいい人ほど、そんな浮かれたことは言わないだろう」

「それでも相性ってあるでしょう? 愛のない結婚なんて悲惨だわ」


 ジーンはロマンを解さない。ジーンがアデルの手を取ってくれるのなら、少々の貧乏も楽しく過ごせると思うのに。それを言ったらすごく嫌な顔をするのだろう。


 やはり、ジーンは理解できないものを見る目つきをしていたので、アデルはコホンとひとつ咳ばらいをしてから話題を変えた。


「ねえ、ジーン。今回の事件を少し整理してみましょう」

「整理?」

「そう。わかっていることをね」


 紅茶を飲んで喉を湿らせると、アデルはカップの中で揺れる紅茶の水面を見ながら話した。


「まず、ノーマが私の部屋で毒を飲んで亡くなった。この事件が起こった日、本来ならレイチェルがするはずの仕事をノーマが代わっていた。ノーマには恋人のジョエルがいるけれど、この日、喧嘩をしていた。私が狙われているという方向に捜査を持っていきたい人がいて、私の飲み物に悪戯した。今のところ、わかっているのはこれだけかしら?」


 すると、ジーンは軽く目を伏せ、それから再び開いた。英知がそこに濃縮されたような瞳だと、アデルが勝手に見惚れていると、ジーンはボソリとつぶやく。


「レイチェルは真面目なんだ。今まで用があるからって誰かに仕事を代わってもらったことなんてない」


 その口ぶりにアデルが妬心を覚えたことなど、ジーンにとってはどうでもよかったかもしれない。同僚の女の子なのだから親しくても仕方ないのだけれど、誰にでも素っ気なくしていてほしいと思った。


「ジーンはレイチェルと親しいの?」


 前もこんな質問をしたかもしれない。ジーンはうなずいたのか、首をかしげたのかわかりづらい動きをした。


「仕事の話はする」


 機械的だけれど、金髪が綺麗な美人だ。ジーンと並んでいたら似合うかもしれない。ジーンもレイチェルにはアデルと話す時よりもきっと丁寧だろう。

 とても面白くなかった。アデルは口を尖らせる。


「ねえ、ジーン。あなた、事件のあった晩はどこにいたの?」


 思わずそんなことを訊いてしまった。それというのも、レイチェルがあの日、仕事に出なかったのは、どう考えても男絡みだとアデルの勘が告げていたのだ。男に会うため、ノーマに頼んだのだと。


 その男がジーンだったら嫌だな、と思った。嫌だな、と思ったどころか、泣けてきた。

 レイチェルがいるから、ジーンはアデルに素っ気ないのか。

 急に黙って涙を零し出したアデルに、さすがのジーンもぎょっとしたようだった。


「な、なんだ? 僕が犯人だとでも言いたいのか?」

「違うけど……」


 失恋って痛い。アデルが振った人たちもこんな思いをしたのだろうか。今になって申し訳なさで消えてなくなりたくなる。

 アデルが泣き出したせいか、ジーンの声はどこか柔らかくなった。


「ここで働いていた。あんた、僕のことを呼び出したじゃないか。あの時、やっと上がる直前だったんだけどな。まあ、休みだった方が容疑者からは外れたのか」


 ジーンが真っ白なナフキンを差し出してきた。そこでアデルははた、と思い出す。

 そういえばそうだった。アデルたちがここでアフタヌーンティーをしていた時も働いていたし、姉がイヤリングを失くした時もここにいた。


 そして、コンサートから戻って事件が起こり、それからアデルがスイートルームに呼び出したジーンは制服を着てやってきた。ずっと働いていたのだ。


 このラウンジにいて、ジーンはどこへも行けなかった。ノーマに毒を飲ませてもいないし、レイチェルと逢引きもしていないことになる。


「レ、レイチェルはあの日、恋人に会いに行ったんだと思うの」


 やっと涙が止まって、アデルはそれを言った。すると、ジーンは不思議そうな表情をした。


「レイチェルが? 絶対にないとは言わないが、ピンとは来ないな。それで仕事を休むなんて……」

「きっと、滅多に会えない恋人なのよ」

「滅多に会えないなぁ」


 半信半疑といった調子である。ジーンの方がレイチェルをよく知っているかもしれないが、それでも色恋に関しては同性のアデルの方が鋭いはずだ。

 レイチェルの、あの澄ました顔が赤く染まったのを見逃したりはしない。


「それとなく探ってみようかしら」


 しかし、ジーンはあまりいい顔をしなかった。


「レイチェルに男がいるとして、それが事件とどう繋がる? 正直なところ、レイチェルがノーマに仕事を代わってもらって、それで発生する〈何か〉があるのかどうか」

「え、えーと……」


 レイチェルがいたら、ノーマは姉の部屋で死んでいただけの話かもしれない。確かにたいした差はない。アデルが305号室に残り、姉がスイートルームに移るという差が生まれるだけだ。


 ――行き詰った。

 やはり、アデルに推理は無理だった。

 ジーンがもっと積極的に事件を解決してくれたらいいのに。


「ところでジーンって、私がここに泊まり出してから毎日働いているわよね。お休みはないの?」


 またしても露骨に話を変えた。女の話はすぐに飛躍するとでも思っただろうか。

 ジーンは、言いたくなさそうにしてつぶやく。


「……明日」


 では、明日はジーンに会えないのだと沈むようなアデルではなかった。パァッと顔を輝かせ、潤んだ目を向ける。


「じゃあ、明日は自由に動けるわね」

「…………」

「行先はどこがいいかしら? ああ、そうだ、前に出してくれたチョコレートを買ったお店に連れていってほしいわ。そうね、後はジーンにお任せするけれど」

「…………」

「ね?」


 駄目押しに微笑むと、ジーンはただ、へぇ、とだけ零した。


 第三者が見たら、全力で拒否しているように見えたかもしれないが、それも照れ隠しということにしておきたい。アデルはそう思いたかったので、そう思うことにしたのだった。

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