◆2

 ――そのすぐ後、警察と医師と、ホテルの従業員たち、たくさんの人がアデルの部屋に押し寄せて来た。水は警察が押収し、アデルは医師の診断を受ける。

 ベッドで横になっていたアデルは、口髭のある医師に首を傾げられた。


「これといって症状はありませんね。ほとんど飲まれなかったそうですが?」

「え、ええ。おかしな味がしてすぐに吐き出しましたから、飲んでいません」

「それはよかった。これなら大丈夫でしょう。ですが、もし何かあったらまたお呼びください」


 優しく言い、医者は去った。

 飲まなかったから、症状はないとのこと。医師の言葉にアデルはほっと胸を撫で下ろす。


 これまでアデルは自分が狙われていたのだと言われても、まだどこかで疑っていた。何かの間違いではないかと。

 それがどうだ。やはり、アデルは狙われているのか――。


 急に恐ろしくなって、アデルはベッドに潜って震えていた。

 この時、ドアが控えめにノックされる。今は警察が守ってくれているから、不審者は入ってこられないはずだ。アデルは返事をせずに息を潜めていた。


 すると、ノックもなしにドアが開く音がした。アデルは驚きつつもシーツの隙間から侵入者の姿を確かめると、それは姉だった。ゆとりのない顔をした姉が、覚束ない足取りでやってきたのだ。

 アデルはもぞもぞとベッドから顔だけ出した。


「姉さん……」


 アデルよりも余程顔色が悪い。姉はアデルの顔を見るなり、倒れてしまうのではないかというくらいに体を傾けた。ベッドの縁までやってくると、手前に膝を突く。


「アデル、体はどうなの? 水に何かが混入されたって……」

「お医者様が、飲んでないから症状はないと仰ったわ」


 すると、姉は両手で顔を覆った。その指の間からすすり泣きが聞こえ、アデルの方がぎょっとした。


「私がついていたらよかったのに、一人にしてしまってごめんなさい……。本当に、ごめんなさい……」


 アデルはベッドから飛び起き、身を折った姉の肩に手を添える。


「姉さん、体調が悪かったのでしょう? 無理をさせたのは私の方だわ。これからはもっと気をつけるから」


 この震えが嘘だとは思えない。

 アデルが生まれてからずっと日陰に追いやられてきたとしても、それでも姉はアデルを可愛がってくれていた。それを誰よりも知っているのは自分自身だろうに。

 姉はアデルの手をギュッと握る。


「本当に、どうしてこんなことに……。ここにいるよりもロンドンに帰った方が安全なのではないかしら」


 そうかもしれない。今回のことがあって、アデルたちを帰すという方針に傾くかもしれない。

 けれど、ここを離れたらジーンとは会えなくなる。怖いのに、帰るのも嫌だと思ってしまった。


「早く犯人が捕まればいいのに。そうしたら安心よね」


 そうなのだ。犯人さえ捕まってしまえばいい。



     ◆



 さて、ここで散々な目に遭ったアデルだが、この状況を最大に利用することにかけては余念がなかった。具合が悪いから、美味しいミルクティーが飲みたいと駄々をこねたのである。


 もちろん、ジーンが淹れてくれたものに限る。

 さすがのジーンも、水に毒物が混入されたアデルには優しくしてくれるだろうと踏んだ。

 しかし――。


 やってきたジーンは、ベッドの上のアデルに引きつった笑顔を向けていた。


「僕は忙しいと再三言っているんだが、あんたにはどうして通用しないんだろうな?」

「忙しいのはわかったけど、会いたかったの。ねえ、私の飲んだ水に何か入れられていたのよ。私、怖くって」


 しょんぼりとしてみせると、ジーンはため息をつきつつ茶器の支度を整えていく。カチャカチャと小さな音がして、その間ジーンは何も話してくれない。

 本気でアデルのことが迷惑なのかと悲しくなってきた頃、ジーンはポツリとつぶやく。


「あんたは殺されないよ」

「え?」


 ぽかんと口を開けてしまった。しかし、ジーンはミルクをクリームウェアのカップに注ぎながら繰り返す。


「あんたは殺されない。そもそも、狙われていないんだ」

「ど、どういうこと?」


 おかしな味がした水。

 あれはアデルの思い込みが起こした錯覚だったのか。


 出来上がった紅茶にシュガーニッパーで角砂糖をふたつほど落とすと、ティースプーンで掻き混ぜてから差し出してくれた。アデルはソーサーごとそれを受け取るが、ジーンの言った言葉が気になりすぎてすぐに口をつけられなかった。


 ジーンはというと、腕を組んでやや斜め上に視線を向けながら答える。


「今回のことではっきりした。あんたが狙われていると見せかけたかっただけで、最初から殺したかったのはノーマなんだろう」

「え? え?」

「殺すつもりなら、あんたはさっさと死んでる。悪戯程度の異物しか入れないのなら、捜査の目をあんたの方に向けておきたい誰かがいるってことじゃないのか?」


 怖いことを言われたが、ジーンはそう考えているらしい。なるほど、理論的な物言いは怜悧な眼差しによく似合う。


「ノーマを狙ったのなら、犯人はこのホテルの従業員の誰かかもしれないわよ?」


 ジーンも同僚のことは疑いたくないだろうか。それとも、羊の皮を被った狼とは一緒に働きたくないから早く犯人を突き止めたいと思うのだろうか。


 アデルの言葉に動揺するでもなく、ジーンは軽くうなずいた。


「もしくは、弱みを握られた客、ノーマを利用しようとした人間――色々と考えられる。ノーマは悪ではないにしろ、徹頭徹尾、自分の頭で物を考えられる子じゃなかったしな」


 故人にまで手厳しい。そして、あんたもだけどな、と言っているのと変わりのない目を向けてきた。

 アデルは頬を膨らませてみせる。


「だからって殺していいはずがないじゃない」

「そうだ。殺していいはずがない」


 ジーンの言葉には、ゆっくりと噛み締めるような響きがあった。

 冷淡に見えて、実はあたたかなものも持ち合わせている。夜空の星が光り輝くのに似て、暗い中で光を放つ。その優しさに惹かれてしまうのだ。


 ミルクティーをひと口飲むと、砂糖と一緒にジーンの思い遣りが溶け込んでいるような気分になった。それを口に出したら、都合のいい妄想だと言われるのは目に見えているが。


「ねえ、あなたが犯人を見つけてあげたらいいのではなくって?」


 なんとなく、それを口にした。何故かと問われるなら、心のままにつぶやいただけだ。

 ジーンはというと、眉根を寄せている。組んでいた腕にさらに力を込めたのがわかった。


「なんで僕が素人探偵の真似事なんてしなくちゃいけないんだ?」

「だって、できそうなんですもの」


 コクリ、コクリ、とミルクティーを飲み干し、カップをジーンに返すと、アデルは微笑んだ。


「あなた、私の姉さんがイヤリングを失くしたって言った時、姉さんの性質を読み取って、的確な助言をくれたでしょう? 人をよく見ているからこそ気づくところだもの。来たばかりの客ですら見てるあなたが、怪しい同僚や常連客たちのことをよく知らないわけがないわよね」

「……警察がどうにかする」


 あまり積極的でない言い方だが、ケード刑事はジーンが毒の包み紙について訊ねたと言っていた。他人に披露するつもりはなくとも、ジーンなりに何かしらの考えはあるのだ。


「そうね。ただ待っていても、いつかは真相が明らかになるかもしれないわ。でも、その前にまた何か事件が起こったらどうするの?」


 警察は犯罪の専門家だ。いつかは犯人を突き止めてくれるだろう。

 ただし、その手助けとなるのなら何かしてもいいのではないか。


「私も第一発見者なんだから協力するわ。ねえ、あの時のこと、私が思い出せる限りで話すから、なんでも訊いて?」


 この時、何故かジーンは今までに見たどんな顔よりも躊躇いを色濃く見せた。


「僕は――」


 コトン、と握っていたティーキャディスプーンをカートの上に置いた。彼の見せる悲哀にアデルは戸惑いつつも、どうしてそんな顔をするのかが気になって仕方がなかった。


 ジーンは急に覇気を失い、言葉数も少なくなって物思いに耽っている。

 余計なことを言ってしまったのかもしれない。そうは思うけれど、ジーンならどうにかしてくれそうに思えたのも本当である。


 やるとも、やらないとも答えず、ジーンはぼんやりと去っていった。

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