The 4th day◇The Rainy Saturday
◆1
その日、警察がいいと言わなかったので、アデルはホテルの外へは出られなかった。
つまらないが、ラウンジにばかり入り浸るとジーンに怒られそうなので自重した。そこは褒めてほしい。
どうせ外はまた雨で、出かけても濡れるだけだ。ぼうっと窓の外の雨を眺めていると、家に電話でもしようかと思い立った。
電話で喋って喉がカラカラになったという理由なら、ジーンも紅茶を淹れてくれるに違いない。
よし、と力強くうなずいて部屋を出る。エレベーターで一階に降り、扉が開くなり勢いよく飛び出したアデルは人にぶつかってしまった。
アデルがぶつけたのは額だが、向こうは肩だ。背が高いから男性かと思ったら、女性だった。
手袋をした手が、アデルの両腕を抱えるように支えてくれた。
三十を少し過ぎたくらいの婦人で、そういえばパートナーらしき男性と一緒にいるのをラウンジで何度か見かけたかもしれない。今日は星月夜のような紺色のスーツを着ている。
彫りの深い顔立ちをした美人だ。若いアデルには及ばないとしても。
「ごめんなさい。不注意で」
「いいえ、あなたこそ大丈夫かしら?」
にこりと妖艶に微笑む。鮮やかな唇に大人の色香が滲み出ていた。
「物騒な事件が起こった後ですものね」
「ええ、本当に痛ましいことで……」
アデルが調子を合わせると、彼女もキリリと濃く引かれた眉を顰めた。
「わたしは主人の仕事の都合でこちらに滞在しておりますの。ホテルを変えることも考えましたけれど、あと少しなのでこのままここに泊まります。あなたもまだこちらに?」
「ええ、今のところはまだこちらにおります。連れ――姉の具合が悪くて、もうしばらくは」
「あら、それは心配ですわね。わたしはヘレン・カヴァデール。ケンブリッジから参りましたの」
「私はロンドンから。アデル・ダスティンと申します」
「ミス、でよろしいのかしら?」
「はい」
「けれど、こんなにも魅力的なお嬢さんですもの。きっとすぐに素敵な殿方が現れるのでしょうね。それとも、もうすでに良い方がいらっしゃるのかしら?」
有閑夫人は他人の色恋が大好物である。それはいつの時代も土地柄も関係ない。
アデルは思わせぶりにウフフ、と笑っておいた。
良い方はいる。うんと手強いのが。
「あらあら、お若い方はいいわねぇ」
つられたように笑うカヴァデール夫人は、アデルの魅力をちゃんと理解してくれている、いい人だ。
カヴァデール夫人と別れ、アデルが家に電話をかけると、涙声の母と、弟のベネットとジャックラッセルテリアのテッドの鳴き声が三重奏になって流れてきた。
『アデル姉さん、早く帰ってきて事件の話を聞かせてよ!』
『こら、やめなさい! ベネット!』
「…………」
どうして子供は残酷な話が好きなのだろう。
喉がカラカラになるまではアデルの方が耐えきれなくなり、早々に電話を切った。
娘たちの無事が伝われば十分だろう。
戻る前にラウンジを覗くと、ジーンはいたが他の客の相手をしていた。あれでは今行っても別のフットマンが来てくれるだけだ。つまらない。
アデルは諦めて部屋に戻る。
部屋に紅茶を届けてもらえばいい。そう考えたが、ジーンが届けてくれるわけではないのなら、水差しの水でいいかという気がしてきた。
ノーマが死んだのは毒のせいだが、水差しそのものに毒が混入していたわけではない。
こんなに警察が調査する中で堂々と毒物が入っているわけがない。アデルはそこに何かが混ぜ込まれているとは考えなかった。最初は。
グラスに水を注いでみると、水は澄みきっていた。少なくとも目視で確認できる何かは混入していない。そんなことを自嘲気味に考えつつ、アデルは水を舐めるようにほんのひと口だけ含んだ。
その途端、舌に違和感を覚えた。刺すような刺激がしたのだ。これはただの水ではない。
アデルは慌てて水を吐き出すと、そのグラスをテーブルの上に置いてから壁にかかった受話器を握った。
「バクスター警部を呼んでください! 私の水におかしなものが混ぜられていましたの!」
ほとんど飲んでいない。だから、死んだりはしないはずだ。
そのはずが、段々気分が悪くなってきた。もう駄目かもしれない。
やっと、本当に好きになれる人と巡り合えたと思ったのに。
一体誰がアデルを狙っているというのだろう。殺したいほど憎まれるなんて――。
アデルはよろよろとベッドに倒れ込んだ。
やはり、ノーマは自殺ではない。殺された。殺した誰かがいるはずなのだ。
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