◆2

「自殺とは限らないんじゃないのか?」


 ジーンのせいで決定的にトーストが喉に刺さった。食事中にする話ではない。

 ゴホゴホとむせながら涙を流すアデルに、ジーンはさらにオレンジジュースを注いで差し出す。

 それを飲み、アデルはやっとひと息つくと、恨めしい心境でジーンを見上げた。


「そ、そんな――」


 ジーンはノーマが殺されたと考えているのか。仕事仲間なのだから、何か根拠があるのだろう。

 そう思ったけれど、そういうわけではなかった。


「その可能性もあるってことだ。僕だって、まだ死因も知らない」


 死因――。

 アデルは震えながら昨晩のことを思い出した。


「血は出ていなかったわ。ただ倒れていて、外傷はないように見えたけど……」

「ふぅん。じゃあ、毒かな」


 冷静に言われた。それこそ、毒なんてアデルの部屋にあったはずもないのに。


「毒なら余計に自殺の方が理解できるわ。変なのは……なんで私の部屋で飲んだのかってこと」


 人生最期の瞬間を勤め先のホテルの客室で迎えるなんて、自分だったら考えられない。変だ。

 震えているアデルに、ジーンはうぅん、と唸ってみせた。


「あんたに恨みがあって、あんたの部屋を選んだのかも」


 どんな恨みだ。ジーンはそこまでアデルを悪女にしたいのか。


「恨みなんて、買った覚えもな――」


 言いかけて黙ってしまったのは、昨日の出来事を思い出したからだ。

 メイドのノーマは恋人らしき青年といた。あの青年、アデルにデレデレとしていなかっただろうか。していた気がする。


 あの後、二人は喧嘩になり、それがエスカレートして別れ話に発展してして絶望したノーマは元凶のアデルの部屋で自殺した。


 ――困ったことに案外筋が通ってしまった。嫌だ。


「わ、私のせいなの? 私が悪いの……?」


 美人に生まれたばっかりに。

 萎んでいったアデルに、ジーンは目を瞬かせた。


「冗談に決まってるだろ」


 アデルには人が死んだのに不謹慎だと昨日言ったくせに、こんな冗談を言うジーンも十分不謹慎である。


「あんたって、なんでもすぐに真に受けるんだな」


 呆れたような、感心してるような声音だ。

 それは、君みたいな人に出会ったのは初めてだとか、こんなに心から人を好きになったことはないだとか、男性から言われた言葉をすべて信じているのも暗に揶揄されたような気がした。


 人を見たら泥棒と思えとでも言うのか。ジーンならそれくらいの勢いで人様を疑っていそうだ。


「……こんな冗談を言う人、私の周りにはいなかったもの」


 ジーンのような人はいなかった。人に奉仕する立場なのに、少しもへりくだらないし、遠慮がない。どこまでも不思議な人だ。

 けれど、アデルがそれを感じたのもお互い様であったらしい。


「僕の周りにもあんたみたいなのはいないよ。何かにつけて意味がわからない」


 褒めているのではないらしい。ひどい話だ。

 こんなふうに話していると、昨日ジーンに抱いた恐ろしさは薄れ、ほんの少しの親しみが湧いた。ただし、それも一方的なものでしかない。


 私たち友達ね、などと口に出したら、きっと、気のせいだと一蹴される。


 この時、ジーンは目を細めた。そこには若くして亡くなったノーマへの哀悼の気持ちもあったように見えた。


「ノーマがあんたに恨みがあったなんてことはない。あの日、全然親しくもない通りすがりの僕にまでベラベラと喋り倒したよ。あんたのこと、綺麗な人だって。陶磁器みたいに滑らかな肌で、あんなふうに生まれたかったって、楽しそうに喋ってた」


 そんな話を聞くと、胸の奥がツキリと痛んだ。いい子だったはずだと悲しくなる。

 そこでジーンは一度、小さく笑った。


「ついでに僕の肌も男にしては綺麗だって、男はそんなに綺麗じゃなくてもいいのにって突っかかられた。面倒くさくなって、そばかすなんて二秒で見慣れるって返したら怒られたが」


 デリカシーはないが、そこまでコンプレックスを感じるほどのことはないと言いたかったのだろうか。


「あれが彼女のチャームポイントでもあったと思うけれど、それを他人が言っても嬉しくはないのでしょうね。でも、もう少し長く生きられたら、そんな自分のコンプレックスとも上手につき合って、好きになれたのかしら……」


 その来なかった未来の話をしても虚しいだけだ。わかっていてもつい言ってしまう。

 ジーンも、そんな他愛のない会話が最後になってしまって、もっと優しく返してあげればよかったと思っているのかもしれない。


「さてと、長話してると紅茶が冷めるな」


 食欲がないようでいて、喉のつかえが取れるとまた美味しく感じられた。瑞々しい苺を頬張り、紅茶を飲み干すと、違うカップに新たな紅茶が注がれる。保温してあったから、湯気と共に香りが立った。


「さっきのミルクティーはエディンバラ・クイーン・ブレックファーストティー。インド茶とセイロン茶のブレンドだ」

「〈エディンバラ・ガーデン〉ね?」


 美しい陶器のティーキャディボックスに入った茶葉を思い浮かべる。


「こっちは〈メルローズ〉のクオリティーシーズン・ダージリン」


 アデルがマスカット・フレーバーを堪能していると、ジーンは小皿の上に三粒のチョコレートを載せた。ピンクのフォンダンがアクセントになっているチョコレートだ。


「ほら」


 優雅な手捌きで、雑なひと言を添えて差し出す。美味しい紅茶を出してくれたから、その失礼さには目を瞑ろう。


「毒は入ってないぞ」


 そのひと言も余計だ。最初から入っていると思っていない。

 アデルはチョコレートを口に入れ、奥歯で噛んだ。その途端、薔薇の香りが口に広がる。


「んんっ」


 ローズクリームのチョコレート。アデルの大好きなものだ。

 良い香りとチョコレートの甘さ。幸せに包まれたような心地がする。今日、ここで食べられるとは思っていなかったので感動してしまった。


 口に出して感想を言わずとも、ジーンには伝わったらしい。クッ、と小さく笑い声が漏れた。


「さっき買ってきた」


 このチョコレートはホテルからのサービスではなく、ジーンが買い求めたらしい。どうしてアデルの好物を知っているのだろう。この青年は本当に魔法使いかもしれない。


「なんで私がローズクリームのチョコレートが好きだって知っているの?」


 感激して問いかけると、ジーンはあっさりと種明かしをしてくれた。


「なんでって、あんたの姉さんに訊いたからだ。そんなの、僕が知ってるわけないだろ」


 ああ、なるほど。種明かしをされたら魔法が手品まで格下げされた。

 しかし、ジーンはどうして姉にアデルの好きなものを訊いたのだろう。


「どうして私の好きなものを訊いたの? わざわざ買いに行ったのは何故かしら?」


 これは純粋な疑問だった。昨日までならば、アデルの気を引きたいからに違いないと自信満々に思えたのだが、今となってはこのジーンに限ってそれはない。この人だけは。


 すると、ジーンは顔をしかめた。そんなこともわからないのかとでも言いたげだが、わからない。一般的に誰にでもわかることがアデルにはわからないのか。

 いいや、ジーンが一般的ではないだけだ。


「詫びの品」


 ボソ、とひと言そんなことを零す。

 それは、昨日アデルには思いのほかに泣かれたので決まりが悪かったと、そういうことなのだろうか。


「ごめんなさいって言うのが、ジーンにはすごく難しかったのね?」


 これは、アデルが今までジーンに吐いた言葉の中で一番の打撃だったと思われる。彼を黙らせたのだから。

 はぁ、とため息をついて、その上、勝手にカーテンを開けて朝日を室内に入れる。そんなことでごまかそうとしても駄目だ。


 ただ、窓に向けてボソボソ、と何かつぶやいていた。それは嫌味ではなく、多分謝罪の言葉だった。

 目を見て言えとまでは言わない。面と向かって言うのが苦手なタイプなのはわかる。ここは大目に見てあげよう、とアデルは妙に楽しい気持ちになった。


「ええ、もういいわ。チョコレートが美味しかったから許してあげる」


 偉そうに、とジーンは思ったかもしれない。

 それでも、アデルはこの一風変わったフットマンのことが案外嫌いではなくなった。むしろ、好きになった。

 今までこんな人はいなかったから。


 男性たちは口をそろえてアデルに綺麗だ、魅力的だと唱えた。ジーンはそんなことを一切口にしないのに、どうしてだかそんな男性たちよりもアデルの心を揺さぶるものがあったのだ。

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