第4話
「嘘か真実かって言うのは、判断が容易なのよ。二つは対になっているからね。でも、善悪って言うのは対になっているように見えてなっていないから、判断が難しいのよ」
「どういうことですか?」
「例えば、ある人が商店から食べ物を盗んでいたとするわよ。その人は、良い人? それとも悪い人?」
「物を盗むのはダメだって、シスターが言ってました。だから、その人は悪い人」
ニケの言葉に、フレックとミレリーが同意する。
「そうね、誰かの物を勝手に持っていくのは悪いことだわ。でも、それがいまにも飢え死にしそうな子供のためだったら? その子はその人が盗んだ食べ物で助かった。誰かを助ける人は、良い人? それとも悪い人?」
「人助けをするのは、良いことだってシスターが言ってました。だから、誰かを助ける人は良い人だけど……でも、物を盗むのは悪い人で……」
「じゃあ、こんな場合はどう? 助けられた子供は、その人が自分のために食べ物を盗んできたことを知らなかった。その場合その子から見て、その人は良い人に見える? それとも、悪い人に見える?」
「……知らなかったなら、良い人……に、見えます」
リズレットはその答えに満足げに頷くと、いつもの癖で背もたれに全身を預けようと上体を後ろに倒した。普段はふわりと頭を包み込むイスはどこにもなく、硬い木の板が後頭部を強かに打った。
悪路を跳ねる馬車の中にいることを思い出し、リズレットは顔をしかめつつもなんとか痛みを堪えると背筋を伸ばした。
「善悪って言うのは、綺麗に分類できるものではないのよ。見る人によって、良い人にも悪い人にもなりうるの」
「で、ですが私の目は……」
「ミレリーちゃんの目を疑ってるわけじゃないわ。あなたが、良い人や悪い人がわかるというのなら、そうなんだと思う。ただ、誰にとっての良い人なのか悪い人なのかを知っていないと、間違った判断をしてしまう可能性があるってことよ」
「誰にとっての……」
「当然、ミレリーちゃんにとってのだと思うわ。良い人悪い人と言うより、あなたに害のある人、ない人って言ったほうがより正確かもしれないわ」
ミレリーが難しい顔で俯く。おそらく、身に覚えがあるのだろう。
「それを踏まえた上で、ミレリーちゃんが襲われた日、アンリさんと話をした記憶は? 当日でなくても、前日でも良いわ」
「その日の朝に、アンリおばさんと話をしました。新しく針仕事を持ってきてくれて、すぐに出来上がったのでパンと交換してもらいました」
「その時、アンリさんは良い人に見えていたのよね?」
「はい。良い人……私にとって、害のある人ではありませんでした」
リズレットは分かっていたというように頷くと、人差し指を一本立てた。
「ノックの音が聞こえて扉を開けたら捕まったって言ってたわよね? ということは、襲撃者は声をかけなかった」
「そうです。誰なのか聞いても答えがなかったので、扉を開けたんです」
「つまり、襲撃者はミレリーちゃんに特別な能力があることを知っていた。だから声をかけなかった。声で扉の向こうにいる人が悪い人だとわかっていたら、当然ミレリーちゃんは扉を開けなかったでしょう? 破られたなら大声で叫んだし、抵抗もしたはずよね」
「えぇ、それは」
人差し指の隣に中指が立てられ、リズレットの手がピースの形になる。
「襲撃者は、一人ではなかった。フレック君、そうよね?」
「四~五人はいました」
「人一人攫うんですもの、それくらいの人数は必要よね。でもその人たちは、事前準備もなしにいきなり集まって動くことができるかしら? どんなに遅くとも、前日には計画が出来ていたと考えるほうが自然だと思うの」
もっと前から計画があり、入念に下調べをしていた可能性もある。襲撃のチャンスは一度きりだ。失敗してしまえば、ミレリーを攫うことは難しくなる。彼女をお金に換えたい人物にとっては、石橋を叩いて渡るくらいの慎重さが求められたはずだ。
リズレットは一つ息を吐いてから、ゆっくりと、三本目の指を立てた。
「ミレリーちゃんは、自分に害のある人間が声で分かる。そしてその日の朝アンリさんと話したとき、彼女が害のある人間ではないと判断した。……このことから、今回の襲撃事件を計画したのはアンリさんではないと思うわ」
「でも、それならいったい誰が……」
眉根を寄せて考え込むフレックに、リズレットがヒントの手を差し伸べる。
「アンリさんはきっと、ミレリーちゃんのことを吹聴するような人ではなかったと思うの。そういう人なら、ミレリーちゃんの目が反応しただろうし。でも、ついついポロっと口が滑ってしまうような人がいたんじゃないかしら? 例えば、旦那さんとか、お子さんとか」
フレックの目が大きく見開かれる。その脳裏には、特定の誰かの名前が浮かんでいたようだった。
「アンリおばさんの旦那さんは、もうだいぶ前に亡くなっています。他には一人娘がいたそうですが、その人も数年前に義理の息子さんと一緒に事故で亡くなったと聞きます」
「あら? それじゃあ、天涯孤独だったの?」
「いえ。その娘さんには息子さんが一人だけいました。確か今年、十九歳だったはずです。僕も姉も一度も会ったことはないのですが、あまり素行の良い人ではないらしく……あぁ、そいつが……」
「実際に証拠があるわけではないから、その娘さんの息子さん……お孫さん? が犯人だと決めつけるのもダメなんだけどね」
けれど私は、その人が犯人だと思うわ。そんな思いを込めて、リズレットは三本の指を折りたたんだ。
悲しげな顔で俯くミレリーの肩を、忌々し気に唇を噛んだフレックがそっと撫でる。途中から押し黙っていたニケがぎゅっとリズレットの手を掴んだ時、馬車の奥に置かれていた布の塊がもぞもぞと動き、くぐもった声が聞こえてきた。
「あ、あの……ちょっと良いですか?」
「誰!?」
反射的にニケを抱きしめ、布から遠ざける。フレックも同じようにミレリーを背にかばいながら、万が一何かあったときは対処できるように腰を浮かせていた。
やや甲高い声はまだ声変りをする前の少年のもので、こちらが警戒しているのを感じ取っているのか、オロオロとした口調で必死に弁明を始めた。
「ぼ、僕はロニって言います。サーカスで働いてて、でも僕運動音痴だからサーカスをクビになってしまって。あの……怪しいものではないです! いや、怪しく見えるかもしれないですけど、怪しいものじゃなくて、決して……決して人間様には危害をくわえないです! だから殴らないでください!」
怯えたような涙声に、臨戦態勢を取っていたフレックの肩を叩くと、ミレリーが優しく声をかけた。
「大丈夫よ。誰も、あなたに暴力をふるおうなんて思ってないわ。あなたが嘘を言っていないのも、私たちに何かしようと思っていないのも、わかっているから」
ゆっくりと言い聞かせるような声は、ピンと張り詰めていた空気を和らげるだけの力があった。
ミレリーが大丈夫だというのならそうなのだろうと、フレックが肩の力を抜き、リズレットも抱きしめていたニケを解放した。
「ありがとうございます。あ、あの……僕、皆さんよりも前からここにいて、ミレリー様とフレック様が馬車に乗せられたあと、外で話してる声が聞こえてきたんです。一人は若い男の人で、もう一人は……皆さんを攫ってきた悪い人たちの、一番偉い人です」
布の塊にしか見えないロニは、そこでいったん言葉を切ると小さく息を吐いた。声には先ほどまでのような悲壮感はもう滲んでいなかったが、緊張しているのか語尾がかすかに震えていた。
「若い男の人は、しきりに謝ってました。そしたら悪い人が、他人のガキよりばあさんの心配をしろよって言ってました。これで薬代くらいは払えるだろって。孤児のガキ二人でたった一人の肉親が助かるなら、安いもんだろって……」
ミレリーの顔色がさっと変わる。ロニの言っていることに、心当たりがあるのだろう。
「ミレリーちゃん、アンリさんはどこか悪いところがあったの?」
「心臓が少し悪いとは聞いていました。でも、あの日だって元気そうで。……ううん、思い返せば、ちょっと声に元気がなかったかも。話の合間に深呼吸することが多かったかも。でもアンリおばさんはいつも一気に喋るから、私が言葉をはさむ暇がなくて。話し終わったらすぐに出て行ってしまうので……」
「それは、昔からそうなの?」
「いいえ。最初のうちはもっとゆっくりお喋りしてました。私も色々と話を聞いてもらってましたし。でも、だんだん一方的にお話されるようになって、ここ数か月は必要なことだけ言いおいてどこかに行ってしまうようになりました」
「きっとそのころから、病気が悪化してたのね。ミレリーちゃんに悟られたくなくて、手短に必要最低限だけ話すようになったのよ」
「そんな……私はてっきり、お忙しいからそうなっているとばっかり……」
もしもミレリーの目が見えていたとしたならば、アンリの表情や顔色で彼女の不調を見抜いただろう。しかし、彼女の目が特殊な物しか映さないからこそ、アンリは気軽にミレリーのもとを訪れていたのかもしれない。
アンリは、健気に支えあう姉弟を助けたいと思っていたのだろう。だからこそ、自身も貧しく厳しい生活の中で、必死に集めてきた仕事を一部回していた。そのお金は、本来なら彼女の薬代にあてられるものだったのかもしれない。
「あのね……もしもニケに大切な人がいて、お薬のためにお金が必要だってなったら、ニケも……悪いことをしちゃうかもしれない。フレックとミレリーを売れば、ニケの大切な人が助かるならって……思っちゃうかもしれない」
今にも泣きそうな顔で「ごめんね」と呟くニケの頭を、フレックが優しく撫でる。その口元には微笑みが浮かんでいたが、眉は苦しそうに寄せられ、目はうるんでいた。
「俺だって、姉ちゃんが助かるなら、何だってする。誰かを殺して来いって言われたら、きっとそうする」
「うん、そうだよね、だって大事なんだもんね。だからね、ニケはきっとその子も同じなんだと思うの。悪い人なんだけど、悪い人じゃないんだよ」
「わかるよ。……もう、恨んでないから」
生き残るためには、大切な人を守るためには、誰かを売らないといけないときがある。それが、最底辺で生きる者たちの日常なのだ。
貴族が平民から富を吸い続ける限り、このような悲劇はなくなることがない。
(せめて、王子たちの
リズレットは悔しさに唇を噛むと、胸元に下がった石を強く握りしめた。
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