碧のカーテンがかかる頃に

Nero

碧のカーテンがかかる頃に

『****、あなたまた歌が上手になったんじゃない?』


『そう、かな? でもお姉ちゃんの方が上手だよ。私よりもきらきらしてて、ほら。朝の歌姫って呼ばれてるじゃん。お母さんだって、昼の歌姫って呼ばれてるし。私はそんなに上手くないよ』


『****。そんなこと言わないの。お母さんは****の歌落ち着いていて好きよ。貴女は夜の歌姫よ。これで一日ね』


『ほんとだ! お母さんと****と三人で今度歌歌おうね』


『うんっ』


あの日、お母さんとお姉ちゃんと結んだ約束は結局守られることはなかった―――――――――。





誰かに呼ばれる声でふと私は目を覚ました。コバルトブルーの海の色が視界に広がる。そこで私は気がついた。さっきの楽しかった頃の光景は夢だったということに。


『リティス! あのね、今日ね、アサちゃんがね』


「どうしたの?」


ぼんやりとしていた意識が彼女の声によって覚醒した。起き上がりながら軽く左を見ると、赤みがかった鱗が美しい手の平サイズの魚が、うきうきと楽しそうに私の周りを泳いでいるのが見えた。彼女は私の友人のルーフス。小さなヒレに海底に沈んでいた宝石の指輪をつけている。この辺りに住んでいる魚たちの中で一番のお洒落さんでも有名である。


『みて! これね、リティスに似合うと思うんだよね。つけてみてよ!』


そういいながらにこにこ笑顔でルーフスは、背負っていた赤色の小ぶりの貝殻を私に見せた。


「え?」


『あのね。リティスの綺麗な碧の髪と夜の光みたいな紫の瞳にね、赤色が合うと思うんだよね。アサちゃんとね、いつも仲良くしてくれるお礼って探したの』


なにがなんだか私は分かっていなかったが、彼女が私の髪にヒレを伸ばしているのを見て動きを止めた。軽く一回転をした彼女は私の髪を弄ってその貝殻をつけた。人魚にしては珍しい暗めの色の見た目をしている私に、ルーフスのような赤色は多分似合わない。それなのに、彼女は私に向かって微笑んで、とても嬉しそうにしていた。


『やっぱり似合ってる! リティスの長い前髪も好きだけど、こうしたら綺麗な瞳と綺麗な貝殻がきらきらしてて・・・・・・。多分リティス、何でも似合うと思うよ~っ』


そして自慢げな表情でルーフスは、私にヒレを振りながら去っていった。大嵐のような彼女は今からタコの叔母さんの店でバイトらしい。



ここは人魚が寄り付かない北の海。私以外の人魚はもういない。もともと多くの人魚が住んでいたが、人間が人魚狩りを始めたためいなくなってしまった。私の家族も私の友人も何もかも、いなくなった。私はよく他のこの海の友人たちに友達が増えて嬉しいと言われる。私はその友人達にリティスと呼ばれているが、本当にその名前なのかどうかは分からない。あるときから私は自分の名前を忘れてしまったからだ。いつの間にか、忘れていた。

 

「綺麗な貝殻、貰っちゃった・・・・・・」


足元に落ちていた鏡の破片に自分の姿を映した。そこには前髪を赤の貝殻で止めたいつもと違う自分がいた。ゆらゆらと揺れる海の中に一人でいる、碧の髪の人魚。表情は暗い。無理矢理笑ってみるととてもいびつな笑顔になった。いつも暗い表情をしている。それが私だ。ぼんやりと自分の姿を見ていると、この貝殻を付けている位置が夢で見た母の髪留めと同じだと気がついた。


「そういえば、お母さんとお姉ちゃんの声ってどんなだっけ」


誰かが言っていた。人に関する記憶は声から消えていくんだよ、と。さっき夢で聞いたはずの声は、私の中にはもう残っていないようだった。悲しいとも思わない。そのことがなんだか悲しかった。思い出せないことを当然としてしまっている自分が、なんだかとても赦せなかった。それでももう、私には私の大切な人たちの声を思い出す気力は残っていなかった。少しずつ沈みゆく意識の中、誰かの話し声が聞こえてきた気がした。


『リティスはもう、歌を歌わないのかなぁ』


『んー。歌ってほしいけど、やっぱりあんなことがあったからねぇ』


『でもさ。あんなに凄いのに』


『ね』


幻聴だろうな。幻聴だろう。私はお母さんとお姉ちゃんの前以外で歌ったことはない。朝の風が似合うお姉ちゃんと昼の光が似合うお母さん。明るい歌声の二人の間に挟まれて私は一度も歌わなかったはず。歌えなかったはず。多分。だけどその声を聞いて私は何かを忘れている気がしていた。何か大切なことを忘れている。



目を覚ますと眩しい太陽の光が水に反射をしてきらきらと煌めいていた。今度は何の夢も見なかった。


「歌、かぁ」


そういえば私はあの日から一度も歌っていない。お母さんが人魚狩りというものに合っていなくなってから。人魚狩りは人間が人魚の肉を食べると不死身になるという、全くもっての虚言を信じ込んだために起こっている出来事である。お姉ちゃんはそのお母さんを助けるために人間に着いていって、結局帰ってこなかった。


『リティスちゃん、どうしたの?』


「え?」


海底に落ちている小石を見つめて物思いに耽っていると、突然穏やかな声が聞こえてきた。顔を上げると心配そうな表情をした金色の小魚がこちらを見ていた。この子はルーフスと仲の良いアサティという名前の女の子。ゆるゆると私の目の前を行ったり来たりしていた。


『とっても哀しそうな顔してたよ。やっぱり今日は話しかけない方が良かったかな』

  

「え、今日はってどうして?」


アサティの言っている、今日はという言葉の意味を不思議に思った。毎日同じように何もしないで過ごしている私には、突然何かのイベントがやって来るとは到底思えなかった。首を傾げて彼女の言葉を待っていると、少し顔を青くしてわたわたと慌てたように泳ぎ出した。同じところでくるくると何回も回ってからこちらを向いた。アサティの表情はなんだか泣きそうだった。


『リティスちゃん。忘れちゃったの・・・・・・? 今日はリティスちゃんのお母さんとお姉さんが亡くなったって、海老のおじいちゃんが教えてくれた日だよ。なんだっけ、確か。・・・・・・命日、かな?』


え、という声は出なかった。全てが真っ白になった。


『ほら、五年前に海老のおじいちゃんがリティスちゃんのところにやってきて、言ってたでしょ。それから毎年この日は皆リティスちゃんに話しかけないようにしてるんだけど・・・・・・。あれからリティスちゃん、あんまり笑わなくなって皆で気にしてたんだ、けど・・・・・・。あれ? リティスちゃん?』


「・・・・・・気にしないで。そういえば今日なんだなぁって思っただけ。毎日同じような日々の繰り返しだから、時間の感覚が無くなっちゃって。ごめんね。今日はそっとしておいてくれると嬉しいかも」


『ううん。こちらこそごめんね。また明日ね』


私は上手く笑えただろうか。



二三年前からなんとなく不思議に思っていることがあった。あるときだけ、誰にも会わない日があるということに。それでも誰かに聞こうとは思わなかった。声にして聞くことが一番周りを困らせてしまいそうだったから。毎日毎日同じ場所でほとんど動かないで、同じようなルーティンを繰り返すようになった。海からも出なくなった。昔は夜空が好きでよくお姉ちゃんと星を見上げて歌を歌っていた。思い出の詰まった海の外は、恐怖で満ちているのだということを私は思い知ったからだ。海から出たらもしかしたら、お母さんとお姉ちゃんと同じような運命を辿るかもしれない。それがとてつもなく怖かった。何かをした訳でもないのに。何も彼らの邪魔をしていないのに。なんで。どうして。人間は私達を喰らおうとするのだろうか。


そんなことを悶々と考える内に、私は歌を歌わなくなった。名前を忘れていった。家族のことを少しずつ忘れていった。一日が一瞬で過ぎていった。私は前に進めないでずっとその場でもがいていた。そのせいで、私は家族の命日すらも忘れようとしてしまっていた。家族が亡くなった事実を、忘れてしまおうとしていた。まだ生きている。また帰ってきてくれる。そう願って止まなかったため、私はこの危険な北の海から移動することはしなかった。


そして全てをなかったことにしようとした。全てを忘れようとしていた。


「私の名前、なんだっけ。私の歌、なんでお母さんとお姉ちゃんは褒めてくれたんだろう」


何度口にしたか分からない言葉をまた、私は音に乗せる。ふわっと髪が波に乗ってこの広い海に漂った。上を見上げると明るかった光はもうなかった。いつの間にか、夜になっていたようだった。もう寝よう。もういいや。そう思って横になろうとするが、私の視線はここからでは見えない夜空へ向かっていた。


「外、出てみようかな」


いつもとは違って、全くと言っていいほど外への恐怖が私の中から消えていた。久しぶりに自分の鰭で海を泳いだ。ひんやりとした夜の海の水は心地よかった。ザパンと小さく音を立てて私は海の中から頭を出した。実に五年ぶりの外の世界だった。誰も何もない外の夜空は、落ちて来そうな明るい星の光を沢山抱え込んでいた。深い藍色の海から出ている見覚えのある石の上に私は座った。


「外、いいなぁ。綺麗だなぁ・・・・・・」


宵闇色の空は星によって明るくて、その光が海を柔らかく照らしていた。暗いとは感じなかった。遠くの方に見える点々とした無機質で色のない白い光は、私の嫌いな人間の街の明かりだった。線を描いているその光は、夜の一部となっていた。海の中よりも暗いはずの外は、私には暗く思えなかった。ただ、そんな心を打たれる美しさの外の世界を見て、何かが欠けているように感じた。


「誰もいないし・・・・・・ちよっとだけ、歌おうかな」


さらさらとした夜風に見守られながら、私はゆっくりとメロディーを紡ぎ始めた。どんな心境の変化なのだろうか。今、歌わないといけない気がしたのだ。下を向いて目を閉じて。記憶にあるたどたどしい私の歌は、いつのまにか芯の通った歌声へと変化していた。お母さんともお姉ちゃんともあまり似ていない私の歌声は、元気というよりも穏やかで。明るいというよりも一抹の淋しさが混ざっていて。お母さんの言う通り、私の歌は夜が似合うと感じた。


「あれ。海面が不思議な色になってる」


軽く瞳を開けると、夜空と同じような紺色だったはずの海が、紫や緑、青の光に照らされて優しく輝いていた。何かの光を反射している、そんな気がする。私は視線を上げて空をみた。


「えっ・・・・・・」


揺れる碧のカーテン。所々紫や青に縁取られている。記憶に深く刻まれている、オーロラの光だった。懐かしさと驚きで私は息を飲んだ。オーロラからは本当に星が降っているように、辺りがきらきら、きらきらと輝いている。神秘的で幻想的。はためくオーロラのレースは、瞬きを忘れてしまうくらい美しかった。私は思わず手を伸ばした。触れれるはずがない、思い出の一つに。そこでふと、視線に気がついた。


「皆、なんで・・・・・・?」


海面に笑顔の友人達がいた。オーロラに心を奪われていたり、こちらを見て何かを催促するように頷いている友人。


『リティスが作ったんだねーっ』


ルーフスがそう言った。そして海面から空へと跳んだ。それがなんだか可笑しくて嬉しくて、私は私の頬が緩むのを感じた。目を細めて息を吸う。そしてまた、言葉を、唄を紡ぎ出した。


ああ、そういえば。お母さんはいつも私にこう言っていた。






――――――流石、私の娘の『オーロラ』だわ。







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