第2話 予兆
「マハト殿。よもや魔王軍に寝返るとは……」
ジジンはちらりとイブナたちに視線を走らせ、つぶやく。
かつての英雄が魔族二人とともにいる光景は、彼の目には異様と映ったことだろう。
「違う、と言ったところで、ゆっくり話ができる状況じゃなさそうだな」
表情の読めない顔に、一分の隙もない立ち姿。
ジジンと行動をともにしていたのはほんの数か月前なのに、もう遠い昔の出来事のように感じられた。
影が滑るように、音もなくジジンが動いた。
一瞬にして、その姿が目の前に迫ったような錯覚を抱いた。
地に肘がつくほどの低い姿勢で短刀を閃かせ、俺の脚に斬りつける。
「ふっ」
呼気とともに、跳んでかわす。正確に足の
着地と同時、上から剣を振り下ろす。
さらに、俺の脇からイブナが細剣を突き出した。
常人にかわせる間合いではない。
だが、ジジンは重力を無視するような跳躍を見せ、壁を蹴り、俺とイブナの連撃をすり抜けていた。
そのまま、俺たちの脇を抜け、奥へと駆ける。
「のけ」
廊下にひしめいていた兵たちのあいだを巧みにすり抜け、その姿は一瞬のあいだに遠くへと消えていた。
「逃げた……のか?」
イブナが拍子抜けしたようにつぶやく。
「まずいな……」
だが、俺はジジンという男をよく知っている。
正面切っての戦いよりも、偵察や暗殺を得意とする、異能力と呼べるほど、身のこなしが軽い男だ。
彼のもたらす情報は常に正確。そして迅速だった。
常人の倍以上の速さで道なき道を駆け、
今ごろ、俺を発見したことを本国に知らせるため、魔導研究所をあとにしているはずだ。
「イブナ、魔核を見つけ次第、脱出するぞ」
「ハイカルという男の首は?」
「できればでいい。こだわりすぎるのは危険だ」
「魔核のことを最優先するというんだな」
「ああ。増援に囲まれたら抜けようがない」
ジジンが俺たちの力を過小評価する、ということはありえない。
彼の認識では、俺は人間側の情報を知りつつ、魔王軍に寝返った人間だと思われているはずだ。
三人相手に大げさな、と呆れるほどの大軍を引っ張ってくる可能性がある。
幸い、魔導研究所があるのは、エバンヘリオ公国の辺境だ。
すぐに動ける兵を動員したとしても、ジジンほどの早さではやって来られないはずだ。
魔核だけはなんとしてでも見つけ出し、すみやかに脱出する。
シャンナからも異論はなかった。
「イブナ、やるぞ」
「ああ、分かってる」
地下へと続く階段まで辿り着き、俺とイブナは迫りくる兵たちに向けて、両手をかざした。
背中にシャンナをかばうような格好になった。
俺の手からは炎が、イブナの手からは爆風が生まれ、相乗効果で通路を荒れ狂う。
壁が崩れ、砦が揺れた。通路はもう、人が通れる状態ではなくなった。
追手を足止めすると同時に、できるだけ大きな混乱を起こす。
「あんまり派手にやりすぎると、わたしたちも生き埋めになりますよ?」
バラバラと壁や天井から崩れた石が振ってきて、シャンナが呆れたように言う。
「そのときは運がなかったと思うしかないな」
俺の言葉に、イブナも肩をすくめてうなずいている。
俺もイブナも、立場は真逆ながら、最前線で戦い、生き延びてきた。
ギリギリまで自身の命を危機にさらす戦いをしたほうが、かえって生存確率が高くなることを経験から知っている。
「さあ、行こう」
俺たちは地下の研究所へと階段を降りていった。
俺を先頭に、あいだにシャンナを挟んで、イブナが最後方という隊列だ。
そこから先は、地上の砦とは様相が一変する。
一見すると前後左右が岩肌に覆われ、天然の洞穴を拡張したかのようだ。
しかし、そこには魔力のランプが備え付けられ、金属質の柱や扉、ガラス製の窓なども見て取れる。
剥き出しの洞穴と最先端の技術が混沌と混ざり合ったような、ひどく奇妙な場所だった。
「ここが魔導研究所……」
「なんとも薄気味悪い光景だな」
シャンナ、イブナがそれぞれ固い声でつぶやく
俺も、かつて目にした魔術師たちの実験の記憶がよみがえり、足を踏み入れるだけで気分が悪くなる。
戦闘の感覚も、階上の砦とはまったく異なるものとなった。
すでに襲撃の知らせは受けているのだろう。
俺たちの行く手を阻む相手は、次々と現れた。
魔術師がその大半だった。
諜報や潜入を得意とするような、特殊兵の姿も少なくない数、入り混じっていた。
顔を布で覆い、屋外で用いるものよりも短い剣を得物としている。
狭い屋内での戦いでは、一般の兵以上に危険な相手だった。
不意打ちや、予測もしない飛び道具を用いてこちらの命を狙う。
影のジジンも、ここで何か特殊な任務を受けていたのかもしれない。
イブナが横にいるのは、かつての勇者隊の仲間たち以上に頼もしかったが、油断すれば罠にかかるか、致命傷を負いかねなかった。
迫りくる魔術師や特殊兵を打ち倒しながら、奥へ奥へと進む。
もう二、三十の相手は二人で斬っただろうか。
「魔核がどこにあるか検討はつくか?」
「……すまん。あまり施設の中のことは詳しくない」
イブナに問われ、俺は首を横に振った。
俺たちの息も少しずつ乱れ始めた。
まだ限界は遠いが、疲労感がつのり始めている。
一瞬たりとも油断できない状況に、神経がすり減っていく。
「たぶん、こちらです」
俺の代わりに、シャンナが一方を指さした。
「魔核によるものかは分かりませんが、強い魔力を奥から感じます」
イブナに視線で問われ、俺はうなずきを返した。
「シャンナの示すほうへ行こう」
俺が先頭という隊列はそのままに、シャンナの導きを頼りに先へ進む。
「前方の曲がり角、魔術師が五人、攻撃魔法を用意して待ちかまえています」
魔導研究所という特殊な魔力空間が作用したのか、シャンナが次々と道や敵の居場所を予知しはじめた。
その声音には、一片の迷いもなかった。
俺もイブナも、ためらうことなくそれに従った。
イブナと二人で同時に曲がり角へと踏み出し、短刀を投げうつ。
銀の刃は、魔術師の放った火球に直撃し、彼ら自身を爆風に巻き込んだ。
ひるんだ隙に、俺たちは五人の魔術師に一息に詰め寄り、斬り伏せた。
「背後から殺気が近づいています。おそらく、魔術師ではありません」
その警告を頼りに、俺とイブナは奇襲をかけようとしていた特殊兵を、逆に不意打ちで葬った。
次々と予知を告げるシャンナの様子は、何かに憑かれているかのようだった。
敵や進むべき道を感知するたびに、消耗しているようにも感じられた。
イブナが心配げに妹の顔を見るが、止めようとはしなかった。
シャンナにこれ以上負担をかけないためには、進むしかないのだ。
「シャンナ、この先は?」
「そのまままっすぐです。強い魔力はこの下から感じます。おそらくまた階段があるはずです」
シャンナの読みどおりだった。さらに地下へと続く階段があらわれる。
「待ってください!」
俺が階段を降りようとすると、シャンナが強い口調で呼び止めた。
「また待ち伏せか?」
振り返ると、シャンナは顔を強張らせ、震えを帯びた声で告げる。
「いえ……。ですが、この先から強力な……そして、禍々しい魔力を感じました」
「禍々しい?」
「はい。わたしたち魔族に似た……けれど、それとは異質な何か……」
「シャンナにも正体は分からないんだな?」
「申し訳ありません。こんな気配は初めてで……」
言われてみれば、この階段の先から何か嫌な予感がまとわりついてくる気がした。
シャンナのように魔力を感知したのではないが、戦士としての勘だった。
戦場にあって、思わぬ強敵に遭遇してしまったときのような、死の予感とでも言うべきものがあった……。
イブナもそれを感じているのか、険しい顔をしていた。
「正体が分からない以上、進むしかないな」
「ええ。ですが、くれぐれも気をつけて……」
シャンナの顔は今にも倒れそうなほどに、憔悴していた。
もし、ヒトであったなら、その顔は蒼白に見えたかもしれない。
不吉な予感をこらえながら、俺たちは最大限に警戒しつつ、階段をおりた。
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