第四章 幻魔の少女
第1話 ヴィオーラの森
ヴィオーラの森は、別称“魔の森”とも呼ばれる深い森林だ。
広葉樹が密集する森の中は昼なお暗く、むせ返るほどの生命力にあふれている。
獣のものか鳥のものか、あるいは魔物なのかも分からない、聞いたことのない鳴き声が絶えず響き、無数の気配がこちらを警戒して潜んでいる気がした。
不用意に人間が森の中に足を踏み入れれば、迷うことなく生還するのは、ほぼ不可能だろう。
現在のところ、この広大な森林を開拓しようとする余力は、人類の側にも魔王軍の側にもない。
戦乱の火からは遠い、
イブナは迷いのない足取りで森の奥深くへと分け入っていく。
「さすがだな。道が分かるのか?」
「印を付けてあるからな。しかし、すまないが今はあまり話しかけないでくれ。気を抜くと迷いかねない」
「……ああ、分かった」
俺も彼女の言う“印”を木々や地面に見出そうとしてみたが、分からなかった。
よほど目立たないようにしているのか、そもそも魔族にしか知覚できない印なのか……。
イブナの後ろに従いながらも、帰路を絶えず頭に叩き込んではいた。
見知らぬ場所からでも、太陽の位置や植物の生え方で方角を読み解き、単身で帰還できるというのも、勇者隊に課せられた訓練の一つだ。
しかし、正直に言って、今イブナとはぐれたとしたら、一人でも森を抜け出せるかどうか自信がなかった。
ほとんど暗闇に近い森の中を歩くのは、楽ではない。
木の根に足を取られ、枝葉が腕を擦り切る。
城塞を築き、戦略的拠点としやすい山岳と違い、深い森の中というのはあまり歩きなれなかった。
正直、イブナに付いていくだけで精一杯ではあったが、もう少しゆっくり進んでくれとは言えない。死病に冒されながら、バルモア山脈を踏破した彼女の気概を思えば、弱音など吐けなかった。
意地でも遅れまいと付いていく。
おそらく、イブナもそんな俺の内心に気づいていただろうが、速度をゆるめたりはしなかった。
妹のもとに一刻でも早く着きたい気持ちはよく分かる。
それに、俺が遅れずに付いてこられるか試しているフシもあった。
バルモア山脈のときの、ささやかな
イブナと出会ってからまだ日は浅いが、なんとなく、彼女のそういう性格は分かるようになってきた気がする。
そして、そんなふうに彼女に試されるのも、不快ではなかった。
意地の張り合いを心地良くすら感じている自分がいた。
「着いたぞ」
振り返ったイブナの口角が微かに上がっている。
俺が、森の中の道なき道を進むのに苦闘していたのを、見透かしているような目だった。
その視線を避けるように、イブナの指し示したほうを向く。
だが、そこには草木が生い茂るばかりで、聞いていたような
「下がっていろ」
そう俺に告げ、イブナが両腕を前方にかざす。
不可視だが、魔力がそのてのひらから生まれているのが分かった。
口の中で小さく呪文らしき文言を唱えているのも聞こえる。
すると、陽炎が空気の中に溶けこむように、少しずつ目の前の光景が一変する。
そして、何もないと思えた空間に、イブナに聞いていたような洞穴の入り口が姿を現した。
「……すごいな。結界を張っていると聞いていたが、幻術まで施していたのか」
魔術によって目の錯覚を起こす術がある、というのは俺も知っている。
だが、高位の魔術師であっても、一瞬人影に見えるものを相手に見せる、くらいがせいぜいで、こんな大規模な術は初めて見た。
イブナは俺の問いに首を横に振って答えた。
「いや、この術はシャンナの魔力が無意識に生んだものだ」
「……なんだって!?」
「昔からよくあったんだ。シャンナの部屋の扉が消えていたり、わたしたちの住処があるべき場所に見つからなかったりということがな。思うように身体を動かせないあいつの、無意識の自衛手段なのかもしれない。それを解けるのは本人か、血縁であるわたしだけだった」
呆れて何も言えなかった。
無意識に住居の姿を消してしまう。
いったい、どれほどの魔力があれば、そんなことが可能なのだろうか。
「さあ、いくぞ」
イブナは唖然としている俺を置き、洞穴の中に足を踏み入れる。
俺も慌ててそのあとに続いた。
暗い森の中にある洞穴には、日の光もほとんど差し込まない。
どれほどの深さがあるのかも分からなかった。
「すまん、イブナ。明かりの魔術を使ってもいいか?」
返事の代わりに、イブナは淡い光球を生み、天井に放った。
乱魔の病に冒されていなければ、彼女にとってこれくらいの魔術を行使するのは、息をするのと変わらないくらい無造作にできるようだ。
「あまり強い明かりではあいつが怯えるかもしれない。これで我慢しろ」
少々過保護に思える言いようだったが、とりあえず何も言わないでおく。
イブナの生んだ光は洞窟の隅まで照らすほどの光量ではなく、奥の方にはまだ闇がわだかまっていた。
洞穴は俺とイブナが並んで歩いても不自由ないくらい幅があり、奥はかなりの深さがあるようだった。しばらく早足で歩いても、まだ行き止まりが見えない。
「シャンナ。今戻ったぞ。無事か?」
闇の向こうに、イブナは呼びかけていた。
その声音は微かに震えている。
生きて再会できるかも分からなかった姉妹の対面なのだ。
邪魔をしないよう、俺はできるかぎりそっと、イブナの後ろについて歩いた。
「シャンナ……。しっかりしろ、シャンナ。今、助けるからな」
イブナは地面にかがみ、グリフォンの血と心臓を荷袋から取り出していた。
そして、闇の向こうから、イブナのものとは違う、かすかな吐息が聞こえてくる。
――生きている。
まず、そう思った。
洞穴は暗く、イブナの妹――横たわるシャンナの姿ははっきりとは見えない。
どうやら毛布代わりに、全身をマントにくるまれているようだった。
頭部だけは外に出ていたが、顔は陰になってよく見えなかった。
イブナが呼びかけても、微動だにしない。
けど、息をしていることだけは、確かだ。
間に合った。
それさえ分かれば、俺には十分だった。
イブナは、グリフォンの心臓を噛みちぎり、横たわるシャンナの頭の上にかがみこむ。
口移しで、食べさせているのだと分かる。
血も同様だった。
心臓を嚙み砕き、血をすすり、妹へと分け与える。
その姿を盗み見て、なぜか心が震えた。
見ようによっては、おぞましい光景と言えるのかもしれない。
しかし、俺の目には親鳥が必死でひなを生かそうとする姿に似て見えた。
イブナは妹を前に、俺の存在などもう忘れてしまったかのようだった。
俺も、あまりじろじろと見るべきではないのかもしれない。
それでも、その光景から目が離せなかった。
少し二人からは距離を置いて、洞穴の壁を背にして座り、イブナの姿に見入る。
どうか彼女の献身が実を結び、妹が目を覚ましてくれるように。
俺の声を聞き届けるのが、人間の神なのか魔族の神なのかは分からないが……。
俺は心からそう願わずにはいられなかった。
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