第6話 近衛騎士隊長マルキーズ
近衛騎士隊長マルキーズ。
豊かな黒い口ひげをたくわえた、壮年の男だ。
連日の激務のためか頬はやせこけ、身体つきも戦士と呼ぶには細すぎるが、眼光だけは誰よりも鋭い。目に映るもの全てを掌握するように、瞳は
肩書きは近衛騎士隊長だが、魔族との戦いに最も力を注いでいる大国、エバンヘリオ公国において、ローレル公爵に次いで、実質的に第二位の権力者である。戦士であるよりも、政治家としての側面が強い。
俺は、この男が剣を持って自ら戦っている姿を見たことがなかった。
だが、政治能力は高く、どこまでも冷徹に、合理的に動くことのできる男だ。
正直、あまり好感を持ってはいないが、常にはるか先を見据えて行動できる先見の明と判断力は、俺には一生かかっても及びもつかないものだ。
人には得手、不得手があるということなのだろう。
俺は勇者隊を率いての実践的な作戦なら立てられるが、この男のように大局を見据えての、大軍の指揮は不可能だ。
生理的には好きになれない男だが、個人的な好悪を除けば、一定の敬意を払うべき相手だった。
今回、俺たちの奇襲を成功させるため、陽動部隊の指揮を執ったのも、この男だ。
近衛騎士隊長自ら前線に立つ部隊がおとりのはずがない、と敵はおろか、ごく一部の上層部を除いた味方全員にも信じこませた。
わざわざ、俺と副隊長ヴェルクの影武者まで用意し、偽の勇者隊まで陽動部隊に加えるほどの用意周到さだった。
再び表に出ると、いつの間にか雨は止んでいた。
だが、空にはぶ厚い灰色の雲がのしかかり、薄暗い。
「ご無事だったのですね、マルキーズ隊長」
「ああ。我々は当初の作戦通り十分な時を稼いだ後、撤退したからな。犠牲は小さくはなかったが、予想の範囲内だ。そちらの戦いも勝利を収めたようだな」
「はい。本隊が敵のほとんどを引き受けてくれたおかげで」
互いの無事を喜び、たたえあうも、俺もマルキーズの顔も晴れない。
表情から察するに、彼もいまの状況は誰かから聞かされているのだろう。
思わぬ形で、作戦遂行が危うくなってしまっていた。
「……説得は
単刀直入に切り出され、俺はうつむく。
「すみません。まさか、こんな所でつまずくとは思わず……。けど、少し時間は掛かるかもしれませんが、必ず――」
「いや、もういい」
俺の言葉をマルキーズが遮った。
顔を上げると、背筋が震えるほど冷たい視線が返ってきた。
街の人々を説得できない俺を責めている。
そんなレベルの眼差しじゃなかった。
もっと
まるで、倒すべき敵を見つめるような……。
「マルキーズ隊長?」
思わず俺は呼びかけていた。
反射的に、右手が腰の鞘に伸びかけた。
彼は、殺気とも呼べる鋭い気配をまとっていた。
いったいなぜ?
もう街に巣食う魔族たちは、一掃したというのに。
「よく聞くんだ、勇者マハト」
その声音もぞっとするほど低い。
「いいか。――いまから、この街の人間を殺せ。一人残らずに」
瞬間、思考が停止した。
何を命じられたのか、まったく理解できなかった。
人間を……殺す?
気でも触れたのか、と俺は目で問いかける。
マルキーズの瞳は一切揺らぐことなく、俺を見つめていた。
俺は思わず視線をそらしたくなる衝動を、かろうじてこらえた。
この凍てつくような視線に負けたら、呑まれる。
なぜだか、そう思った。
「もし彼らが君の説得に応じたなら、それで良かった。だが、長く魔族に支配されるうち、住民たちから人としての誇りは失われていた」
「しかし、それは……」
「聞け、と言ったはずだ。これ以上君がどれだけ言葉を重ねようと、失われたものがよみがえることは決してない。かつては彼らも誇り高き鍛冶職人だったが、その面影はもうない。――彼らは、自ら死を選択したのだ」
「……言っている意味が分かりません」
声を絞り出し、そう返すのがやっとだった。
俺の動揺など意に介していないかのように、淡々と、マルキーズは言葉を重ねる。
「ローレル公爵閣下は、こうなる可能性も予想しておられた」
「公爵が?」
「そうだ。そして、その時に取るべき次の一手も授けてくださったのだ」
老境へと差し掛かったローレル公爵の顔を頭に思い浮かべる。
マルキーズの言葉を、そのまま
証拠があるわけではないが、この男なら自ら立てた計画を遂行するために、公爵の名を持ち出すくらいのことは、顔色一つ変えずにやってのけるだろう。
「それが街の人間を殺すことだって言うのか!? だとしたら、公爵はもう――」
「何度も言わすな。話を最後まで聞け、マハトよ」
正気を失っているとしか思えない。
不敬を承知で言おうとした俺の声を、マルキーズが鋭く遮った。
「マハトよ。お前や勇者隊のみなが善戦していることはよく知っている。だが、個々の活躍で大局は覆しえない。このままの状況で戦争が続けば、我ら人間は魔王軍に敗北を喫するだろう」
「…………」
さすがに衝撃を覚え、俺は何も言えなかった。
それは誰もが感じながらも、あえて口にできずにいることだった。
冷徹なマルキーズといえど、公の場では決して言える内容ではない。
「数では圧倒的に勝る我ら人間が、何故魔族に勝てないか。分かるか、マハトよ?」
「それは……生まれ持っての魔族の力が並の人間より、遥かに強力だから……」
「違う」
短く、強い否定の言葉が返ってくる。
「人々が心を一つにできずにいるからだ」
「心を一つに……」
「勇者として戦い、お前も感じているはずだ。魔族どもという人類共通の敵がありながら、戦争が始まってより一度たりとも、各国が一致団結することはなかった。足並みの乱れは、月日が経つごとにひどくなる一方だ」
利権。国としての体面。古き権力者たちの保身。
そんなものに足を引っ張られ、もどかしい思いをしたことは、一度や二度ではなかった。
勇者として、比較的自由な立場で戦っている俺でさえ、強い憤りを感じるのは事実だ。
魔族と人類の戦いが始まったこのときでさえ、国家間の足の引っ張り合いは止むことはなかった。
だが、マルキーズの言葉がローレル公爵の策とやらと、どう結びつくのかいまだ俺は分かりかねていた。
「魔王が凍れる大陸で封印から目覚めて十年の月日が経った。はじめは力押しに侵略するばかりだった魔王軍も、いまや
「…………」
「森林伯キルギエンは魔族の側についた」
「バカな……!」
俺は愕然と返した。
マルキーズが挙げたのは、ここより北方、どの国にも属さず、独立領としては異例なほどの領地を持つ、地方領主の名だった。
この戦乱の世にあって、豊かな資源と人口を持ちながら、魔王軍との戦争には消極的で自衛のためにしか兵を用いず、各国からの非難を浴びていた。
以前より、協調性に欠く人物という噂はあったが……。
だが、まさか人間が魔族の側につくなんて。
そんなことがありうるのか?
「密偵からの情報だが、魔族の占領地の一部を割譲されたうえ、多額の同盟資金も与えられ、魔王軍への協力を表明したのだ。我らが、魔王軍との戦いに手いっぱいで、とても制裁を与える余力がないことを見越した上でな」
「なんて、バカな真似を……」
「そう、実に愚かで恥ずべき振る舞いだ。人類への
「他にも人間を裏切るヤツが出てくる、と考えているのか?」
「可能性は低くない。時を同じくして、魔王軍は各国に使者を送り、同盟を結ぶよう申し入れ始めた。おそらくは、キルギエンに密約したのと同じ条件でな」
「各国の反応は……?」
「それは我らとて、正確にはつかみかねている。いまや諸国間で、疑心暗鬼の兆候は広まり、いよいよ足並みは乱れ始めている。特に魔王軍の支配地に近い土地や、独立した武力を保ちえない小国は、いつ寝返るかも分からない」
絶望的な思いが湧くのを、こらえきれなかった。
戦とはただ敵を倒せばいい、という単純なものではないらしい。
まさか、魔族の力よりも先に、人間のほうに絶望するなんて思わなかった。
いくら俺たちが前線で戦い続けていても、国家という名の巨大な怪物相手には無意味なのだろうか?
「だからこそ、全人類にいま一度思い出させてやらねばならないのだ。――魔族は憎むべき、我々人類共通の敵であるということをな」
熱を帯びていたマルキーズの声音が、再び冷酷な低いものへと変わる。
冷水を浴びせかけられたような心地がした。
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