第10話 もしかして、鈍いすぎる?

 二人の間に流れる極めて微妙な空気を、一体何と呼べばいいのだろう。


 思わず口にした言葉――オトコノコ↓、ではなく、オトコノコ↑


 そのイントネーションが合っているのかとか、その意味するところシニフィエがちゃんと佳弥かやに伝わったのかとか、いやそもそも、そんな言葉を遠慮のかけらもなく相手に向かって発することが良かったのかとか、そんなことはもはや問題ではない。


 佳弥の表情が、極めて冷たいもの――唾棄すべきものを冷ややかに見降ろす、そんなものへと変わったのだ。


 こ、こええ、まじこえええ……


「ご、ごめん、つい、その」


 一度口から出てしまった言葉は、消しゴムで消すこともできず、まるで命を吹き込まれたように二人の間を駆け巡る。


 そう、まさに『言霊』。


「ふぅん、そうなんだ。キミはそういう目でボクを――」


 そういう目って、どういう目!?

 聞きたかった。すんげー聞きたかった、のだが。


 いきなり現れる人影。


「いや、お前は寝てろ」


 さっき蹴り飛ばした黄泉人が、起き上がり、こん棒を振り上げながらよろよろと近づいてきたのだ。俺はそいつにもう一度前蹴りを入れた。


 バランスを崩し、黄泉人が吹っ飛んでいく。道のわきにあった岩に頭をぶつけ、黄泉人はもうピクリとも動かなくなってしまった。

 なんだよ、そんなんで倒せるのかよ。それを先に……


 あれ、なんか忘れてるような。


虎守こもりくん!」


 佳弥がそう叫ぶのと、忘れていた重大な何かを思い出すのとが、ほぼ同時だった。

 振り返った俺の目の前で、あのデカブツが巨大なこん棒を振りかぶっている。


 横に避けようとして、そうしてはいけないことに気が付いた。


 リーチが長すぎる。俺が横に避けたとしても、それでは佳弥かやに当たってしまう……


 とっさに後ろに体を投げ出し、その勢いで佳弥を突き飛ばした。遅れて、下半身を衝撃が襲う。

 ズンという、こん棒が地面にめり込む音がした。しかし、痛くはない。


 外れた?


 顔を向ける。その視界で、俺の右足がこん棒の下で無残につぶれていた。

 痛くないんじゃない。痛みが大きすぎて、麻痺してるんだ――


 恐怖。顔から血が引いていくのが自分でもわかった。


 デカブツが、こん棒をまた持ち上げる。その勢いで、こん棒についていた俺の右足の肉片と鮮血が周りに飛び散る。


 あの一撃をかわせていたなら、攻撃のチャンスはおつりがくるほどにあっただろう。それほどに緩慢な動きであっても、俺はそれをただ眺めているしかなかった。


 ……もはやこれまで。


 佳弥はそのこん棒の届かない場所で、上半身を起こし俺を見つめている。目を見開き、何かを叫んでいるようだ。


 何を言っているのかは、もう俺には聞こえない。

 でも、安心しろ。お前より俺の方が先に逝く――


 待てよ。

 どうせ逝くのなら、メイドの土産を置いていこう……


「来たれ、来たれ、でっかくて、めっちゃ重たい岩、我の前、高い場所に」


 薄れゆく意識の中、俺はそうつぶやいた――



 夢、だろうか。


 一人の『男の子』が、その手に持っていた赤い包みを俺の方へと差し出している。それを受け取り、中を見る。

 ビニル袋に入ったカップのチョコケーキ。一目で、それが手作りのものであることがわかる。


 その男の子は――いや、『男の子』ではない。髪を短く刈り込んでいて、見た目はそうではあるが、『彼女』はれっきとした『女の子』――小学校の同級生だった。


 三年生の冬に、「転校するから」と、そして「いままでありがとう」と、俺にプレゼントをくれた。


 中身がチョコケーキだったのは、時期が時期だったからにちがいない。同じクラスの、俺が班長をしていた班にいた子。ただそれだけの関係で、一緒に遊んだわけでも、仲が良かったわけでもなかったのだから。


 見目が男の子だったせいで、その子はずいぶんとクラスメイトから揶揄われたり、時にはいじめともいえるような仕打ちを受けていた。


 俺はただ「班長としての義務」と、そして子供っぽい正義感ゆえに、何度もその子をかばったものだ。


 一体なぜ彼女がそんな姿をしていたのか、今となってはもう分からない。

 どこへ転校していったのかも知らない。


 みんなからは『ヨッシー』と呼ばれていた。そのあだ名の由来ももう記憶にない。

 何て名前だったっけな。

 たしか……寺本だか寺山だったような。 


 俺が生まれて初めて、そして今までで唯一もらったバレンタイン。その子の記憶は、ただその情報だけに紐づけされている。


 なぜそのことを今思い出すのか。

 きっと佳弥が、男なのに女ものの下着をつけていたからだろう――



 口の中に、柑橘系の爽やかで、それでいてどことなく切なさを含んだフレーバーが広がる。

 唇に触れる、少し冷たく、でも柔らかな感触。

 このままずっと、こうしているのもいいかもな……


「……もりくん。虎守こもりくん」


 誰かが俺の名を呼んでいる。少し高めの、ハスキーな声。

 目を開ける。すぐそばに、黒い瞳。


 一般的に瞳の色は茶色が多いだろうに、本当に黒いのだ。吸い込まれそうなほど。

 それを囲う切れ長の目、長い睫毛は湿り気を帯びている。巻き気味の前髪が、その周りにまとわりついていた。


佳弥かや……俺、また死んだか」


 俺の問いかけに、佳弥が軽く首を振る。


「まだ生きてる、かな」


『かな』ってなんだよ、『かな』って……


 佳弥が体を俺から離す。その背後には薄暗い空。星も月も何もない。

 右横には、佳弥の体。左には巨大な岩が鎮座している。

 岩陰の秘め事――なんてかわいらしいもんじゃないようだ。岩の下には、下敷きになったあのデカブツが、無残にそのつぶれた体を晒していた。


「うげ、気持ちわる……」


 どうやらあのデカブツを倒せたようだ。あの状況ではラッキーだったとしか言いようがない。


「よく、思い付いたね」


 佳弥の指が、俺の髪――サイドを刈り込んだ、ややツーブロック気味の――をなでる。このスプラッターな状況の中で、佳弥は俺に膝枕をしていた。

 むき出しの肌にはパンと張るような弾力がある。


「どうせ死ぬなら諸共ってね。って、そうだ、足、俺の足は」

「大丈夫、ちゃんと、ついてる」


 起き上がろうとした俺を、佳弥が押さえた。


「怪我は治したけど、まだ無理をしないほうがいい」

「でも化け物は」

「もう、この辺りにはいない」

「そっか。俺の魂は?」

「キミの中に」


 言葉の一つ一つはぶっきらぼうだが、その口調にはどことなく――湿度を感じる。


「そうか、やったか、やっと終わった」


 この厄介ごとから、おさらばだ!


「虎守くん、お願いが、ある」


 ……ってことには、ならないんだろうな。


「協力しろってか」

「うん。何も言わずに無理やり連れてきてしまったのは、本当にすまないと思ってる。色々な事情を、ちゃんと、その、説明するから……」

「別に、いいぞ」

「そう言わずに、せめて話だけでも」

「じゃなくて」


 佳弥が不思議な顔を見せた。


「なに」

「付き合ってやるよ。説明は、今度でいい」


 シーン虫が大量発生。

 ……っていうか、この場所、虫の音一つ聞こえない。風もないようだ。


「つ、つきあう?」


 ボンっと、音が聞こえるくらいに佳弥の顔が真っ赤になった。

 ……なぜに?


「ああ。どうせ断っても、またお願いに来るんだろ。しょうがなしだ、誤解すんなよ」


 何をどう誤解するのか?

 俺も知らない。

 でも俺の言葉に、佳弥の表情が一変した。


 へぇ、こんなうれしそうな顔もできるんだ。


「あ、ありがとう」

「あと、佳弥の『秘密』も誰にも言わないでおくから」

「秘密?」

「ああ。お前が、その、『付けてる』こととか」


 さすがに『ちちぱっど』とは言いにくい。だから一生懸命オブラートに包んだのに、佳弥は――ああ、今度はなんか、ジト目になってる……


「虎守くん、ボクがつけているのは、フラットブラと言ってね」

「や、やっぱりブラなのか」


 ブラじゃないよ! 〇〇矯正サポーターだよ! って言って欲しかった……


 佳弥が一つ、大きなため息をついた。

 そしてなぜかクスッと笑うと、俺に顔を近づける。


「ちょ、ちょっと待て」

「なに」

「それは何の治療だ」

「……目、かな」

「目? 別に目なんか悪くは」


 そのあとの言葉は、強引なキスで消されてしまった。


 その後しばらくして、俺たちは『結界』へと戻り、そこから現実世界へと帰った。

 夜、佳弥との『キス』のことばかり考えてしまい、まったく眠れず、月曜日、俺は人生で初めて学校に遅刻した。


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