無つき、是に頁をつくろう

雪村 紅々果

逃走

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元は数年前に見た悪夢。追いかけられる話。

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 傾く夕日が私の背中を焦がしている。気が付けば、私は夜に向かって走っていた。


 背の低い茅ような植物が脛を叩く。そこに生きた植物の鋭さは無く、泥を含んだ露に濡れて、触れるとしつこくまとわりついてきた。辺りは静かで、開けた口から漏れる、短い息の音が耳につく。吸い込む空気は重く湿って、喉の奥を塞いだ。私は唾を飲み込む。


 白い浴衣を着て、白い布を顔に巻き付けた人達が追いかけてくる。彼らの腕は立ったままでも地面に付きそうなくらい長かった。彼らは地面を滑るように足を動かさずに追いかけてくる。


 一度も振り向いていないにも関わらず、私には彼らの姿がはっきりと見えた。ここがどこかも知らず、理由も分からないのに、彼らが私を捕まえようとしていることだけは明らかだった。


 私は走り続けた。足がもつれ、息が上がって、脇腹が痛くて仕方が無いのに、ただ一心に草原を駆ける。視線を上げて、遠くの空を見つめる。走る他には、何も考えられなかった。


 水をたっぷりと含んだ画用紙に絵の具をぽと、ぽと、と落としていったように、少しずつ滲んで広がる紺色の空。黒と青の曖昧な境界に、ひとつの星が昇る。星は混じり気のない白で、光っているのでは無く、そこだけ抜けている、という風に見えた。


「すこし薄めたマスキングインクを筆に含ませて、筆の先を指で弾いて、飛沫を飛ばします」


 逆さまに浮かんだ絵描きが囁いた。彼女が持つ、プラスチックのパレットは色とりどりに染まっている。美しい瞳を持つ絵描きは、細い筆の先を私に向けて、無表情でこちらを見ていた。彼女の顔は何も描かれていないカンバスのように白かった。


「菜の花や月は東に日は西に」


 教科書で読んだ俳句が書かれた短冊が目の前にばらばらと降ってくる。絵描きと同じように、やはり逆さまに浮かんだ老人が、色あせた短冊を次々に放り投げながら、私を指さしている。その指先は骨ばって、第一関節に奇妙なこぶが付いて、曲がっていた。


 夢だ。これは夢だ、と私は唐突に知った。


 追いかけてくる白装束の彼らも、逆さまに浮かぶ絵描きと老人も眠っている私の頭が勝手に作り出した幻想で、実在するものでは無い。怖がる必要の無いものたち。


 もうすぐ夢は終わる。夢を自覚する時は大抵終わりが近い時だ。目が覚めたら私はピンク色のカーテンに囲まれた部屋のベットの上で、ぐずぐずと体を起こすのだ。そして、また一日が始まる。


 安心して立ち止まった。もう白い彼らは追ってこないし、絵描きと老人も、この夕闇に向かってゆく世界も消えていくのだろう。そう思って、私は後ろを振り返った。


 白い手がそこまで伸びてきていた。長い指が私の肌に触れて、石のような冷たさにぞっとした。絵描きと老人が甲高い声で笑っている。白装束の彼らも口元に細い隙間を開けて、無音で笑っていた。


 そして、世界は暗転した。

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