三、飛び降り自殺


 こんな夢を見たのですと私は言いました。

「私は、学校の屋上から飛び降りました」

 恐ろしい夢でしたと私は続けます。

「死ぬと分かって飛び降りたのです、私は」

 色の濃い青空がいっそのことケミカルな雰囲気でした。自然とは、一周回れば化学的です。

 今日、回向先生は麦わら帽子をかぶっていました。

「学校の屋上ですか」

「はい。夢の中の私は、中学校の屋上から飛び降りました」

 五階建ての、外装のひび割れた、よくある古ぼけた校舎でした。私はそれを薄汚いと感じていました。

 正門から入り、下駄箱を通過する際に上履きに履き替えて、五階のその先の屋上までゆっくり階段を上ったのです。

「校舎内は、授業中のようでした」

「なぜそう思ったのですか」

「階段を上がるさなか、三階に差し掛かった頃、静かな中で微かに大人の声がしたからです」

「なるほど」

 ケミカルな青空のその中に、不自然なほどくっきりと輪郭を持った入道雲があります。先生はその入道雲を背に、暑さでぼやける視界の中佇んでいます。

 先生の輪郭だけがぼやけて、麦わら帽子との境目が分かりにくくなり、先生のシルエットが異形のように見えました。

「休み時間であれば君も誰かとすれ違ったでしょうにね」

 異形のまま回向先生は言います。

「はい。でも、誰ともすれ違わないまま、私は屋上まで着いてしまいました」

 そうして鉄の扉を開いた先の青空も、今日のようにケミカルな色をしておりました。

 私が死のうというのに、世界は化学的に美しい日でした。

 柵を乗り越える中、暑さにやられて眩暈がしました。飛び降り自殺をこれからしようとしているのに、私はおっと危ないと口にしたのでした。

「滑稽ですね」

 回向先生はそう言って顰め面のまま笑いました。先生は笑うと眉間に皺がよる不思議な人です。

「滑稽でした」

 私はそう答え、頷きました。

「そうして、飛び降りたのですか」

「はい。飛び降りました」

 置き手紙だとか、最期の言葉だとかを遺すこともなく。上履きすら履いたまま。

 私は直立のまま前に倒れ込むようにして、真っ逆さまに落ちたのでした。

 薄汚い校舎が視界に入ります。

 校舎の窓が視界に入ります。

 窓に映った青空が視界に入ります。

 その向こうの教室が視界に入ります。

「教室に、私を見ている人が居たのです」

「落ちている君をですか」

「はい。目が合ったのです」

 青白い顔の。

 異様に頭の大きな。

 ぎょろりとした目の少年が。

 確かにこちらを見ていたのでした。

「恐ろしいと感じました。私はその少年を、これから数秒後の死よりも恐ろしいと感じたのです、回向先生」

「そうですか」

 目の焦点が合って、ようやく先生の輪郭がくっきりと見えました。

 先生は異形ではなく、ただ麦わら帽子をかぶっただけの‪回向先生でした。

「その少年が恐ろしくて、私は自分の死をなんとも思わなくなってしまいました。そうしてそのまま、地面までいったのです」

「死んだのですか」

「死にました」

 私は夢の中で死にました。

「でも、先生。私は死んだのに、なぜ死のうとしたのか、理由が思い出せないのです。なぜでしょうか」

「それはそうでしょうね。だって君は、飛び降り自殺をしていないのですから」



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