1・2
王宮の広大な敷地の中で祓魔庁は比較的、大正門に近い。奥地じゃなくて本当によかった。
エリート貴族の子弟が集まる学生部に途中入学した庶民の少年は祓魔庁外でも有名で、心無い貴族のからかいの的だもの。早く外に出られるに越したことはない。それに帰ってやらなくちゃならないことがある。
建物を飛び出ると門を目指して走る。
「おや、ユベールじゃないか」
うわっ、さっそく捕まった。
仕方なしに止まる。だけど声の主を確認してほっとした。国王の補佐官のひとり、フォルタン様だ。侯爵家の嫡男でたぶん二十代前半。柔らかな物腰に優しげな笑顔、身分や地位を鼻にかけない良い人だ。しかも結構な美青年。
「久しぶりだね。勉強のほうはどうだい」
「やっぱり実践が全然ダメです」
「気にすることはない。君のお祖父さんも遅咲きだったというじゃないか。力が強大なほど能力の発現が遅いとの説もある」
「はい。信じてがんばります」
「うん。焦ることはないよ。それにもし力が発現しなくても、君の知識量は教師をするのにふさわしいものだからね。ところでほかの学生たちとは上手くやれているかな」
「ええ」
「それはよかった。じゃ、陛下にもそう伝えておくよ」
「ありがとうございます」
頭を下げてフォルタン様を見送る。
私なんかが学生部に途中入学したのは、国王陛下のご采配があったからだ。
陛下は昔祖父に助けられたことがあったみたいだ。昨年即位した機会に恩返しをしようとしたらしいのだけど、祖父は他界していたから私を代わりにした。それが入学。陛下はまったくの善意で、私が喜んでいると信じている。
まさか教師にまで煙たがられているとは思っていないだろう。
それに無邪気な善意のせいで、私が大変な生活をしているとも。
◇◇
王宮から遠く離れた下町の小さなアパート。階段を三階まで駆け上がると鍵を開けて中に入った。リビングに飾ってあるお祖父ちゃんの肖像画に『ただいま』と声をかけてから奥に進む。開け放たれた扉から中を覗くと、お婆ちゃんがベッドの上で半身を起こしていた。
「ただいま、お婆ちゃん! ご飯は食べた?」
枕元のチェストの上には空の食器がある。
「食べたわ。でも誰も下げに来ないの」
「メイドはお休みだよ」
「そうだったかしら」
「僕が持っていくね」
「あの人はまだ祓魔庁なの?」
「うん。まだバリバリ働いている最中だよ。お婆ちゃんちゃんは刺繍して待っていてね」
そう言ってベッド脇の床に落ちている刺繍セットが入ったカゴを拾い、お婆ちゃんのそばに置く。
お婆ちゃんの時間はお祖父ちゃんが死んだ直前で止まっている。孫が成長していることにも、メイドのいない狭いアパートで暮らしていることにも気づいていない。それと、愛する夫が永遠に帰ってこないことにも。
食器ののったトレイを手にとる。
「お婆ちゃん、僕はこれからまたお出かけしてくるからね」
「また? ひとりで淋しいわ」
「ごめんね」
お婆ちゃんの額にキスをする。
「帰ってきたら、たくさんお話をしよう」
「早くね」
もう一度キスをして『いってきます』と言う。そばについていてあげられない罪悪感でいっぱいだ。けれども私は生活費を稼がなくちゃいけない。多少の蓄えはあるけど、家賃数年分だけ。生活費に当てるのは不安だ。
食器を台所に片付けるとリビングの隅で制服から私服に着替え、急いで家を出た。
以前は日中は代書屋、夜は居酒屋の皿洗いのバイトをしていた。でも陛下の善意で学生になってしまったから代書屋は辞めるしかなかった。いいお給料だったのに。
仕方ないから早く帰れる日は単発バイトをしている。今日はレストランの調理場。お値段は安いけど得意分野だから助かる。それに賄いをくれるかもしれないしね。
――贅沢な食事しかしていないアルフォンスたちには想像もつかないだろう。パンと具のないスープを一日二食だけのひもじさは。
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