第七話  昨日の甘寝

 大川は、群馬郡くるまのこほりの見廻りを愛馬、水雄婆閼多みをゔぁあたで終え。

 上毛野君かみつけののきみの屋敷、西に位置する務司まつりごとのつかさで、主帳しゅちょうさまから行政を学び終え。

 八十敷やそしきから武芸の稽古をつけてもらい終え。



 うま四つの刻(午後12:30)



 大川は、母刀自───宇都売うつめの部屋で、昼餉を食べ終わり、白湯さゆをゆっくり口に含みながら、手入れの行き届いた庭のたちばなをぼんやり眺めていた。


比多米売ひたらめ……。)


 まだ、月に照らされたなまめかしい、白いたわわな乳房が、脳裏にちらつく。

 昨日の甘寝うまいに、人知れずため息がでる。

 気を抜くと、左手の小指、かわいい口に噛まれた跡を、見てしまう。


(私は、兄上とは違う。

 遊びで、なんて言わない。)


 早く、比多米売の事を、皆に宣言して、一人用の部屋を与えて、大事に囲ってしまいたい。


 胸がはやる。


 まだ、誰にも比多米売の事を言わないでいるのは、大事な事を訊けていないからだ。


「私のいもになってくれるか。」


 と。比多米売をいもとするには、まず本人の了承がいる。

 男がいもと呼んではじめて、女は男を愛子夫いとこせと呼ぶことができる。

 

「私のいもだ。正しく一人きり、現し世で生きるなかで、たった一人のえにしで繋がれたおみななのだ。」


 と、皆に高らかに宣言したい。

 そうすれば、誰も文句は言わない。尊重してくれるだろう。


 大川は将来、身分の高いおみなめとれ、と父上から要求されるかもしれない。

 断れるものではない。

 たとえ、身分の高いおみなを後から娶り、身分ゆえ、毛止豆女もとつめ(正妻)とするしかなくても。

 比多米売は、宇波奈利うはなりめかけ)という立場が下のおみなとなったとしても。


 いも愛子夫いとこせは、本人同士で決めること。


 比多米売がいもであることは、揺らがない。

 皆、宇波奈利うはなりめかけ)であっても、比多米売を、大川のいもとして、最大限、尊重してくれるであろう。


(比多米売、早く会いたい。)


 大川は、さるの刻(午後3時)を過ぎ、自分に課せられたやる事を終え、自由時間になるのを、そわそわと待っている。


 これまでの時間で、すれ違う女官の顔をいちいち確認してしまっていたが、比多米売はいなかった。


(早く……、一目でも、明るい陽の下で、姿を見たい。)


 夢のような甘寝うまい

 昨日のことは、全て幻だったのではないか。

 昨日愛したおみなは、陽の光で照らされると、淡く消え去ってしまわないか。

 そうではないと、早く確証が欲しかった。


 比多米売と会ったら、どんな反応をするか楽しみだった。


(比多米売は恥じらって、赤面するだろうか。

 いじらしく微笑みかけてくるだろうか。

 そしたら、私も微笑みかけよう。

 私も真っ赤になってしまうかもしれない……。

 もしかしたら、さるの刻を待たず、簀子すのこ(廊下)ですれ違うかもしれない。

 そしたら、蘇比そび(赤橙)色の袖を捕まえてしまおう。

 比多米売、と甘く名を呼び、微笑みかけ、懐に持っている金のかんざし美豆良みずらにそっとし、私のいもになってくれるか? と訊こう。

 まわりの人は驚くだろう。かまうものか。

 比多米売が、はい、とこたえたら、私はその柔らかい手をとろう───。)




   *   *   *




 にわかに簀子すのこ(廊下)が騒がしくなった。

 カツカツカツ、鼻高沓はなたかぐつ木沓きぐつ)が木の簀子すのこを駆けてくる足音がする。

 通常、上毛野君かみつけののきみの屋敷で仕える人は走ったりしない。

 女官、武人の多くはかのくつ(革のくつ)を履いている。

 鼻高沓はなたかぐつを履けるのは、それなりに豊かな、限られた人数だ。


 何かあったのか。


 開け放たれた妻戸つまとを見ていると、息を切らした日佐留売ひさるめが、鼻高沓はなたかぐつを鳴らし駆け込んで来た。


「宇都売さま! 女官が何者かにかどわかされました! ぞくが入りました!」


 母刀自──宇都売が息を呑み、女嬬にょじゅ鎌売かまめが、


「誰がかどわかされたのです!」


 と鋭く言った。青ざめた日佐留売が鎌売を見た。


「比多米売です!」






 

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