蘭契ニ光ヲ和グ 〜らんけいに光をやわらぐ〜

加須 千花

第一章  その匂ふこと金蘭の如し

第一話  あな安らけ

 奈良時代。

 初夏の宵。


 上毛野君かみつけののきみの屋敷。

 庭には可我里火かがりびが焚かれ、たちばなの白い花が匂う。

 朧月夜おぼろづきよ麗景れいけい


 宇都売うつめの部屋から、元気な緑兒みどりこ(赤ちゃん)の産声うぶごえが響いた。


おのこか。良くやったな。」


 部屋では中肉中背の父親が、産まれたばかりの我が子を腕に抱き、あまり熱のこもらぬ声を発した。


 この屋敷の主である二十三歳の上毛野君広瀬かみつけののきみのひろせの顔は、父親となった喜色というより、興味の薄い表情を浮かべていた。

 上品な口髭くちひげを生やした口元には、笑みさえない。


 二十歳の母親、宇都売うつめは、切れ長の目、完璧な曲線の眉、白い肌、形の良い唇。

 初産ういざんに消耗しつつも損なわれぬ、花顔雪膚かがんせっぷの美しさ。

 際立って美しくありながら、控えめな雰囲気を醸し出すおみなだ。


 母親は父親にむけ、満足そうに笑い、誇らしく言葉をつむいだ。

 

広瀬ひろせさま。名前をつけて下さいませ。」

「いらぬ。」

「えっ。」


 宇都売うつめ産婆さんば、控える大勢の女官がいっせいに顔色を失い、場が凍りついた。


とおになったら、大人の名前を与える。心配するな。それまではそなたが好きに呼べ。」

「そんな……!」


 それが宇都売うつめの精一杯のあらがいの声だった。


 宇都売は、韓級郷からしなのさと郷長さとおさの娘。

 先祖は百済くだらではそれなりの身分であったが、しょせん、宇都売うつめは生まれた時から、上野国かみつけののくにに生きる良民りょうみん(一般の百姓)であった。


 二年前のある日突然、郷長の娘、親戚筋の娘、あわせて十人ぞろぞろと、上毛野君かみつけののきみの屋敷に連れてこられ、広瀬の前に立たされ、何も会話のないまま、広瀬が宇都売を指差した。


 そして広瀬の二人目のつま宇波奈利うはなりめかけ)となったものの、広瀬の態度はいつもひんやりと冷たい。

 なぜ、選ばれたのか? 宇都売はいまだもって、わからない。

 広瀬の目が、自分にのぼせあがったことなど、一度もない。その黒光りする目を見ると、なぜあたしを? と、一言訊くことすら、怖くてできない。

 甘えなど許される雰囲気ではない。

 反論などできない。


「養生せよ。」


 緑兒みどりこ(赤ちゃん)を乳母ちおもとなる鎌売かまめに預けながら、冷たく告げた広瀬は、そのまま振り返らず部屋を出ていってしまった。


「あっ……、ああっ……!」


 宇都売の目から涙がこぼれた。


(父親に名もつけてもらえないなんて。なんて可哀想な子!

 緑兒みどりこを産めば、きっと、広瀬さまの目にもぬくもりが宿るわ、と思ったのに。)


「うぅ……。ううう……。」


 悲しみが突き上げてきて、しばらく宇都売は目を閉じ泣くことしかできなかった。

 安産ではあったが、出産は根こそぎおみなから体力を奪う。

 絶望に顔を覆いたくとも、腕が重く、持ち上げることすらできない。

 側近く立つ女官が、こまめに白妙しろたえ手布てぬので涙を拭う。

 

 宇都売のすすり泣きと、緑兒みどりこの泣き声が部屋にこだまする。


 女官らは誰も喋らない。

 女官から見て、広瀬は、美女の宇都売をしいたげる、という事は無いが、とくだん、寵愛する、という風でもない。

 いつも淡々と、表情を変えず宇都売に接する。

 情の薄い男よ、というのが女官一同の心中だが、それにしても。

 せっかくおのこを産んだのに。

 常識からかけ離れた広瀬の冷たい仕打ちに、女官らは言葉を失い、息をひそめ立ち尽くす。


 やがて、立ち姿から厳しさがにじみ出る女嬬にょじゅ(女官の取りまとめ役)の鎌売かまめが、宇都売の泣き声が落ち着いてきた頃を見計らい、静かに声をかけた。


「宇都売さま。こんなに元気な緑兒みどりこです。めでたいこと。く、御子おこ言祝ことほぎなさいませ。」

「……。ええ……、そうね。そうね……。」


 宇都売は無理やり笑顔を浮かべた。

 麗しい顔に、朧月おぼろづきのような鈍い輝きが宿った。

 濡れた瞳。

 はかなげな美しさをたたえた笑顔……。

 宇都売は鎌売にあやされながら泣く我が子に目をむけた。


(まだ産まれたばかりの緑兒みどりこの泣き声は、うるさいというより、どこか、淡く、天高くとよもす声だわ。なんて愛おしいのでしょう。

 顔をくしゃくしゃにして、大きく口を開けて、こんなにも全力で泣いている。この子は、生きる意志を、この泣き声で、天にも地にも高らかに表明しているのだわ。)


 宇都売うつめは、健康でふっくらした身体で産まれた我が子に、優しく声をかけた。


「あなやすらけ あな安ら 安ら あな あな安らけ 


 ねりの ころもそでれてや 袖を垂れてや


 加巴理田かはりだの 稲穂いなほ諸穂もろほ垂れてや 諸穂もろほ垂れてや


 あな安らけ。」


おのこを産むことができたのだ。

 広瀬さまも優しい言葉をかけて下さったのだ。

 そんなに悲観することはない。)


 宇都売はそう、自分を励ました。


加巴理かはり。あなたの名前は加巴理かはりよ。一緒に生きていきましょうね。

 健やかに、優しい御子おことなりますよう。

 まわりの誰からも、……お父上からも、愛されるよう……。」


 そう、まわりに優しく。そうすれば、愛が返ってくるもの。

 それは、宇都売の母刀自ははとじ(母親)が教えてくれた、宇都売が守ってきた教えだった。


「素晴らしい言祝ことほぎですわ。なんておおらかで美しいお名前でしょう。

 健やかにお育ちになるでしょう。

 きっと宇都売さまに似て、世にも麗しいおのことなるでしょう。

 あな安らけ。」


 緑兒みどりこ(赤ちゃん)を抱く鎌売がしっかりした笑顔で言祝ぎをし、続け、女官が口々に言祝ぎを述べた。

 宇都売は、泣きつかれ、うとうとしはじめた小さい我が子の顔をじっと見て、重ねて、思った。



(────加巴理かはり。一緒に生きていきましょうね……。)



 

 

 上毛野君加巴理かみつけののきみのかはり

 ちょうじては、大川おおかわと名をかえるおのこは、こうしてうつに生をうけた。

 



 庚寅かのえとらの年。(750年)

 ───天平勝宝てんぴょうしょうほう二年の、初夏の宵のことである。





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