第3話 共犯者たちの乾杯


 シーラがアルフレッドを案内したのは、場末の居酒屋の二階だった。

 意外な場所に居を構えているのだなと思えば、扉の向こうは別の空間に繋がっているのだと言う。

 その言葉通り、居酒屋の二階とは思えないほどの空間が広がっていた。


「高い天井だな! しかも天井ぎりぎりまで本棚があって、その本棚には本がぎっしりときてる。法律家だってこんなに本を持っていないぞ」

「写本師が生業なんだ。仕事道具と思ってくれ」


 部屋の中央には、三角形の大きな台が置かれており、斜めになった板面には、製作途中の魔導書が置かれてあった。

 傍らの作業台には、たくさんの羽根ペンに加えて、多種多様なインク壺が置かれている。

 色とりどりに輝く石や、それを砕いてすり潰すための道具までもが所狭しと並んでおり、どれも使い込まれているのが分かった。


 広い部屋なのだが、何しろ至るところに本が積み上げられていて、足の踏み場もない。

 その合間に、枯れた植物の蔦だの、綺麗な羽根だの甲虫の標本だのが乱雑に置かれていて、もはや秩序はどこにもなかった。

 それに、シーラの人となりをうかがわせるものも、見当たらなかった。

 アルフレッドに分かるのは、彼女が人生のほとんど全てを写本に捧げているということだけだ。

 壁一面に据え付けられた棚と小さな引き出しを見たアルフレッドが、興味本位で近づこうとすると、


「不用意に開けるなよ。妙な魔術が作動するかも知れないからな」


 と制止された。なかなかどうして、危険な場所らしい。

 シーラは先程手に入れたばかりのアンシャル石のコアを、手のひらに乗ってしまうほどの小箱に収めた。

 小箱の内側は得体の知れない文字がびっしりと並んでいたが、アルフレッドがその内容を判読するより早く、シーラの手によって蓋を閉じられてしまった。


「そこのラグの上に立っていろ。ラグの上の物は触って良い」

「承知しました、女王様」


 アルフレッドが立つことを許されたのは、壁際のほんの小さなラグの面積だけだった。

 ラグの上には足の長い棚が置かれており、洗面器と水差しが無造作に乗せられている。

 水を拝借して顔についた血を拭い、人心地ついたアルフレッドは尋ねた。


「写本師というのは、魔導書を作る仕事のことを言うんだったかな」


 シーラは頷く。

 人間が魔術を行使するためには、魔導書が必要だ。魔術師と呼ばれる、魔術開発の専門家たちによって書かれた本である。

 魔導書を所有することで魔術が使えるようになるため、所有者の数だけ魔導書が存在する。

 最も多く流通しているのは、日常生活で使われる火起こしや水を呼ぶ魔術をパッケージングした、初歩の魔導書だろう。

 戦闘に欠かせない身体強化、暗視魔術といったものをまとめた魔導書や、農耕技術に特化した魔導書もある。

 魔術師たちは、オリジナルの魔導書のみを作成する。

 そのオリジナルの魔導書を、多くの人々が使えるように書き写してゆくのが、写本師たちの仕事だ。


「魔導書は、オリジナルをただ書き写せばよいというものではない。表紙の革、花切れの質、使う羊皮紙、用いられるインクによって、魔術の効果が変わってくる。ゆえに、私達写本師が存在するのだ」

「なるほど。だからあちこちに、本以外の素材も転がっているんだな」


 アルフレッドは、シーラが牢屋に乗り込んできたときのことを思い出した。


「確か君は、アンシャル石とやらが欲しくて、私の牢屋に殴りこんできたんだったな。そのアンシャル石も写本に使われるのか」

「青い色を出すのに必要だった。アンシャル石のコアは、目を奪われるほど見事な青色を出してくれる」

「他の材料ではだめだったのか? 何も夜にあんな暗い場所を一人で訪れなくても」

「妥協は許されない。魔導書の効力を最大限発揮するためには、適切な材料を、適切なタイミングで使わなければならない。アンシャル石は今必要なものだった」

「店が開くのを待てないくらいに?」

「愚問だな」


 答えるシーラの目はぎらぎらと輝いていて、写本師という仕事に誇りを持っていることが伝わってきた。

 アルフレッドはふっと笑い、腕組みをして壁にもたれかかる。


「なるほど。君という人間が分かってきたぞ。要するに魔導書バカだ」

「……まあ、否定はしない。昔同じことを言われたしな」

「誰にだい?」

「さあ、忘れてしまったな」


 そう言ってふと口元を緩めるシーラ。そうすると、穴倉のような部屋に籠って写本をする職人というより、一人の若い淑女に見えるから不思議だ。

 アルフレッドはまじまじとシーラの容姿を眺める。

 こうして室内の明かりで見ると、燃えるような赤毛がチャーミングだ。目鼻立ちもくっきりしているし、何より強気そうな太眉がアルフレッドの好みど真ん中である。

 少し眠たげに細められた大きな瞳は、蠱惑的と言えなくもない。

 着ているものは修道女のように質素な黒いワンピースだが、禁欲的な魅力がある。

 アルフレッドはシーラのきびきびした動きを見ながら、こう尋ねた。


「君、二十三歳くらいか」


 するとシーラが、警戒した猫のように大きく目を見開いた。


「……どうして分かった」

「あはは、女性の年齢を当てるのは私の数少ない特技なのさ。だがその年齢で社交界を見限るのはもったいない。どんな失態をやらかしたかは知らないが、君ほどに美しい人が社交界に背を向けるのは大きな損失だ」

「私は社交界に縁はないと言っただろう」

「『もう』縁はないと言ったんだ。それはつまり、かつてはあったということになるだろう。若いうちの失敗など取るに足らないことさ。私の武勇伝を聞かせてあげようか? そうすれば君も考え直すかも」


 するとシーラが初めて笑った。

 もっともそれは、微笑みというよりは、嘲笑に近いものだったけれど。


「あなたは何も分かっていないのだな。――私は社交界から追放されたんだよ」

「追放された? なぜ。国王陛下の妾に、公衆の面前で恥をかかせたか?」

「まあ、似たようなものだ」


 肩をすくめたシーラは、スケッチブックを手にとると、アルフレッドの側に近づいてきた。


「目を見せて欲しい。色見本だけでも取っておきたい」

「なら、あそこにあるウィスキーを頂いても?」


 薄い冊子が積み重なった棚の間には、確かにウィスキーの瓶がある。


「目ざといな。構わないがじっとしていてくれ」

「分かっているよ。しかし天使の目の色見本など取って、何に使うんだ?」

「インクの色を出す時に使う。魔術的に効果がなくても、美しいものは良いものだ」

「美しいかな、この目が」

「それほど禍々しい物が、美しくないはずがあるか?」

「……それは光栄だ」


 アルフレッドはウィスキーの瓶を開けながらにやりと笑う。

 どこからか見つけ出してきたコップをズボンで拭い、ゆっくりと酒を注いだ。

 立ち上る香りは豊潤で、良い酒であることが分かる。シーラは一体どこでこんな名酒を手に入れたのだろう。


「しかし、あなたの洞察力は素晴らしいな。私を見ただけで家名を当てるとは思わなかった」

「仕事柄、細部を観察するのは得意だ。……というかもはや習い性になっている」


 シーラは様々な染料を用いて、アルフレッドの天使の目の色を再現しようとしていた。

 妙な色の粉だったり、絵の具のようなものだったり、何かの植物の葉を紙にこすりつけたりしているが、あまり上手くいっていなさそうだった。


「写本師は、魔導書を書き写す以外にも仕事がある。来歴の分からない古代の魔導書の内容を読み解く仕事だ」

「ああ、聞いたことがある! 数百年以上前の魔導書が見つかったは良いが、魔術の効力が分からず、不用意に開くことができないことがあるそうだね」

「それを読み解き、魔術の効力を判定する――それも私達写本師の仕事だ」

「どんな風に読み解くんだ? 言葉だって違うんだろう?」

「まずは年代の特定。魔導書が編まれた時代が分かったら、その時代の関連資料を片っ端から探して、どうにかとっかかりを見つける。地道な作業だが、私は気に入っている」


 シーラはスケッチブックから顔を上げ、真剣な眼差しで天使の目を見つめる。

 彼女が見ているのは天使の目であって、自分ではないと分かっていても、アルフレッドは少したじろいでしまう。

 女性から熱烈な眼差しを注がれることは、アルフレッドにとっては慣れっこだ。


 だが、シーラの眼差しは、他の女性のものとはまるで違う。

 自分をばらばらにして、分析して、一つ一つの要素に落とし込むような。奥底まで見透かされて、丸裸にされるような。

 それでいて、どこか満足感がある。

 それはきっと、シーラという女性の関心が、この瞬間全て自分に注がれていると確信できるからだろう。


「……これはもはや、愛と呼べるのではないか」

「は?」

「ああいや、何でもない。ちょっと感動していただけだよ」


 アルフレッドはそう言うと、微かに唇を舐めた。

 シーラになら、言えると思った。根拠はないが、行動にいちいちそんなものが必要だろうか?


「君の洞察力を見込んで、一つ頼まれてくれないか」

「嫌だが」

「そうつれないことを言うな。さっきも言っただろう、天使の目について、まだ伝えていないことがあったと」

「ああ、そうだったな。だがそれと私に頼みごとをするのと、どんな関係がある」


 アルフレッドは静かに告げた。


「天使の目は、天使の所業を目撃し、なおも生き延びた人間に与えられる。だが私は、天使の所業を覚えていないのだ」

「覚えていない? どういうことだ」

「何を見たのか分からないんだ。前後の記憶はしっかりしているのに、天使についての記憶だけがすっぽりと抜けている」

「それは……記録にはなかったことだな。天使の目の所有者は、天使の所業を覚えているはずだ」

「覚えているからこそ、天使の目を与えられる――はずだった。だが私には、その時の記憶が一切ない」


 シーラが初めてアルフレッドの目を見る。天使の目ではない方を、疑問を込めて見つめてくる。

 その視線を受け止めながら、アルフレッドは言った。


「私が一体何を見たのか――私が見た『天使』は何だったのか。君に解き明かしてもらえないだろうか」


 シーラは瞬き一つしない。その反応は拒絶なのかそれとも受容なのか、それを判断することもできない。

 どんな女性相手でも、微かな言動をきっかけに、相手の気持ちを推しはかることができていたのに、シーラにはそれが通用しない。

 けれどそれは、初めて読む書物のような興奮をアルフレッドに与えてくれる。


「いいだろう」


 シーラはにやりと笑った。その目がぎらついているのが分かる。


「あなたの天使の目が何を見たか――それは非常に興味深い。どんな災厄が、あなたの右目に類稀なる緋色を宿らせたのか。私がいずれ手に入れるその天使の目は、一体どうして、どこから来たのか……」

「そうだ。それを解明して欲しい。……とは言え、ヒントはないに等しいんだが」

「古代の魔導書など概ねそんなものだ。仮説を積み上げ、崩し、また積み上げることを気が遠くなるほど繰り返して、どうにか真実に一歩近づくような有様だよ」


 アルフレッドが思わず見とれてしまうほど、シーラの微笑みは美しい。

 ぎらりと光る八重歯の剣呑ささえ、ぞっとするほど綺麗だ。


「だが! その一歩は誰が何と言おうと私だけに許された一歩だ。黄金の一歩だ。それを積み重ねて、私は真実に至る」

「頼もしいことだ!」


 アルフレッドは力強く手を叩くと、ウィスキーを注ぎ足したコップをシーラに渡した。

 だがシーラは首を振ると、コップを突き返してウィスキーの瓶を奪う。

 コップを受け取ったアルフレッドは苦笑しながら、


「おっと、これは失礼。――では、何に乾杯しようか」

「当然、天使の目に」

「では私は、君が歩む黄金の一歩に」


 こつんと乾杯をし、酒を飲み交わした二人は、共犯者のような笑みを浮かべた。

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