水の都の見習いゴンドラ乗りの話(登場人物:不良とか格闘家みたいな男)

@yugamori

第1話

 午前6時。いつもどおり体が勝手に起きる時間。ここに来るまでは早起きなんて世界で一番俺の苦手なものだと思っていた。環境が変わればこうも変わるのかと驚いたのが、師匠についてまず初めに驚いたことだった。それからいくつも驚かされることばかりなのだけれど。

 スッキリとした寝起きの頭の片隅でそんなことを考えながら体を起こす。眠りの質が上がったのも、こっちにきてからの変化の一つだ。

 まず窓を開けて海の調子を確認する。波は穏やか。今日は練習日和。これだけ静かな水面なら、細い水路を入っていってもよさそうだ。どの経路を行こうかと街の水路に頭を巡らせながら、ベッドから起きて部屋の窓をすべて開ける。街がまだ動き出す前の静寂に満ちた、けれども陽が昇り明るい朝。この時間が俺は一番好きだ。ホームにいた時は、太陽なんて気にも留なかった。朝日なんてガキの頃から見た記憶もない。ただ暑く目障りな光だと、むしろ邪魔な存在だった。同じ路地でも、ホームで俺が過ごしていた路地街は、夜中に害虫と、それと同じような人種がうごめいた、今とは考えられない環境だった。朝なんてなくなればいいとすら思っていた。それがいまじゃ、最も恋しいものになっていやがる。

 あの頃に戻りたいかと言われれば、そんな質問、はなから成立しない。

 あの頃の俺は、死んでいたも同然だから。

「!?」

 窓辺からなにかが入ってきた。とっさに体が反応する。あの頃のように。

 けれど、そんな不安や心配など、ここでは無関係だ。敵対するものなど、俺を狙うものなど、なにもない。命を狙われることなど、まるでない。なのに、とっさに反応するのが、いかにあの暗闇のなかで長く潜み、蠢き続けていたかを、体が物語っている。我ながら、情けない。すべてを変えるためにここに来たのに、いまだに俺の中に亡霊みたいなものが住み着いていやがる。

「まあ、そうすぐ変わるわけはないってもんよ」

 気持ちを切り替えようと大きく声に出して言葉を吐いた。6時に勝手に目覚めるようになっただけでも俺にとっては革命なんだ。あせる必要はない。ここでの生活を1日1日過ごしていく。それが俺にとって最短の、俺の変化だ。

「おはよう、社長さん」

 部屋に侵入してきた、敵対者とは真逆の存在。白い毛の塊。恐ろしさやおぞましさとは対極に位置する、抜けた表情。真っ白な毛の中に太い眉毛みたいに見える黒い毛が、毎回気の抜ける表情みたいに見える。師匠がはじめに社長に挨拶しろといった時、この会社のトップは師匠だと聞いていたのにまだ上がいるのかと思ったら、まさかこんな太眉の白猫だと知ったときは拍子抜けだった。

 以来、社長は気まぐれに俺の部屋に侵入しては、俺の部屋から脱出する。社長の気まぐれを邪魔するのは会社として言語道断というわけで、まず部屋の窓を全開するのは社員である俺の1日のはじまりの大切な仕事、らしい。

「あ、やべ。電話」

 下の階。事務所から電話が鳴っている。師匠はおそらく、もう沖に出ている。こんな時間に電話って、なんだ。予約の電話が朝6時に鳴ることはない。ならばゴンドラ協会関係の電話か。だとすると、急用。なにかあったか。

 急いで自分の部屋から出て階段を降りる。明るい木目の板ばかりを使った、吹き抜けの事務所。事務所といっても固い雰囲気などなく、海辺のシャレたカフェといった佇まい。いつ見ても、気分がよくなる間取りと吹き抜け。デザインとってもいい趣味した人だと思う。人使いは荒いけど。

「はい、アリアカンパニーです」

「なんでアンタが出んのよ!!」

 寝起きの甲高い声。思わず怒鳴り返したくなる最高に最低なイラつきを与えるトーン。が、この人に言い返すのはまずい。不味すぎる。

「もう師匠は船の点検がてら沖に出てますよ」

「アンタのテンション低い声なんて聞くために電話したんじゃないの! つうかなにそれでゴンドラのガイドなんてされたらもう2度とアリアカンパニー利用したくなくなるでしょ!! アーロン様の会社に泥塗らないでよホームの不良が!!」

 朝からひでえ言われようだ。もう嫌すぎる。電話でもこんなに嫌なんだから会ったらなおのこと嫌なんだと思えば、願わくば2度と会いたくない。そうは行かないんだが、なんでこんなのがゴンドラ協会の本部の偉いさんなんだ。人選ミス過ぎる。

「師匠に伝言でしたら、俺がしとくんで」

「だからアーロン様のお声を聞きたくて電話しただけって言ってるでしょ! テンションだけじゃなくて頭までヒドイのあんた!! なんでアーロン様はあんたなんか弟子にとったのかしら! ほんっと! 優秀なゴンドラ乗り見習いならいっっくらでも当協会から派遣するっていうのに!!」

 殺すかこいつ? 喉まで出そうになる罵倒の声を押さえ付けながら、足元に寄ってきた社長を揉み倒しながらなんとか殺意を吞み下す。

「師匠は予約いっぱいなんで、あと私用で電話は困るんで。そんじゃ」

「あ! まだ話おわ」

 できる限りの反抗を終えてから社長を掴んで抱きしめ、社長の腹に顔を埋めて思っ切り叫んだ。社長も思っ切り暴れた。

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