聖賢幼女の世界征服
沢田和早
天才神童カシコちゃん
カシコちゃんは幼稚園に通う5才の幼女です。
身長体重頭囲スリーサイズなどは5才女児の平均測定値から±1/2標準偏差値内に収まっているのですが、賢さは収まっていません。ズバ抜けて優秀なのです。町内だけでなく隣町まで知れ渡るくらいの賢さです。
「それではお絵描きをしましょう」
今日も幼稚園では楽しいお絵描きの時間が始まりました。園児のみんなはクレヨンで豚の絵やトンカツの絵や豚しゃぶの絵などを楽しく描いています。でもカシコちゃんは違います。クレヨンで描いているのは数字です。
「しちいちがしち、しちにがじゅうし」
それを見たお友達は歓声をあげました。
「うわあ、カシコちゃん、ななの段ができるんだあ。すっごい!」
このお友達はカシコちゃんほどではないのですがなかなかのお利口さんで、足し算引き算はとっくにマスターし最近は九九を勉強中なのです。
でも7の段だけはなかなか覚えられずいつも途中で言葉がつっかえてしまうので、流暢に7の段を読み上げながら数字を書いていくカシコちゃんの賢さに驚いてしまったのでした。
「あら、7の段くらい朝飯前でしょ。九九なんて物心ついた時から覚えていたんだから」
それを聞いた幼稚園児たちはことごとく仰天してしまいました。しかし驚くのはまだ早すぎました。カシコちゃんが2桁の暗算を始めたからです。すでにインド式計算法をマスターしているカシコちゃんにとって、2桁の暗算など赤子の手を捻るよりも簡単なのでした。幼稚園教諭のお姉さんもビックリです。
「カシコちゃんは本当に賢いのですね。先生、驚きすぎて腰が抜けそうです」
「名は体を表すと言うでしょ。あたしの名はカシコ、賢くて当然ね」
カシコちゃんの堂々とした態度に幼稚園教諭のお姉さんはタジタジです。
「それではお習字をしましょう」
続いて楽しいお習字の時間が始まりました。園児のみんなは「ぶたじる」とか「ぶたにしんじゅ」とか「ぶたもおだてりゃきにのぼる」などという言葉を楽しく書いているのですがカシコちゃんは違います。言葉を発しながらこんな文字を書いているのです。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」
その言葉を聞き、書いている文字を見たお友達は歓声をあげました。
「す、すっげえ! カシコちゃん、はんにゃしんぎょうを漢字で書けるんだ!」
このお友達はカシコちゃんほどではないのですがなかなかのお利口さんで、平仮名と片仮名はとっくにマスターし最近は漢字を勉強中なのです。それに加えてこのお友達はお寺の息子でした。毎日お経を聞かされるだけでなく、父親である住職の教育方針によりお経を唱えることを日課のひとつにされていたため、カシコちゃんの言葉が般若心経であることはすぐわかったのでした。しかし言葉はわかっても文字までは書けません。ですから古来より能書家として知られている空海、嵯峨天皇、橘逸勢の三筆に勝るとも劣らない達筆で漢字をしたためているカシコちゃんの賢さに驚いてしまったのでした。
「ふふふ、この程度の漢字で驚いてもらっては困るわ。物心ついた時には小学校学習指導要領に定められた1026字を全て覚えていたんだから」
それを聞いた幼稚園児たちはことごとく仰天してしまいました。しかし驚くのはまだ早すぎました。それに加えてカシコちゃんは当用漢字1850字も覚えていたからです。幼稚園教諭のお姉さんもビックリです。
「カシコちゃんは本当に賢いのですね。先生、驚きすぎて開いた口がふさがりません」
「人は見かけによらずって言うでしょ。5才児だからって甘く見ないでほしいわ」
カシコちゃんの自信満々な態度に幼稚園教諭のお姉さんはすっかり圧倒されてしまいました。
「それでは地理のお勉強をしましょう」
昼食とお昼寝の後は楽しい地理のお勉強が始まりました。幼稚園児たちの前には都道府県の境界線だけが描かれた大きな日本白地図が掲示されています。
「この県の名前を知っている人!」
幼稚園教諭のお姉さんが質問すると幼稚園児たちは一斉に挙手して好き勝手に喋り始めました。
「はい、はい」
「あたし、知ってる」
「たぶんわかると思う」
「知らないけど手を挙げちゃう」
みんな元気いっぱいです。幼稚園教諭のお姉さんはにこにこ顔で一人の園児を指名しました。指された園児は立ち上がると大声で答えました。
「鳥取!」
途端に教室内はブーイングの嵐です。
「違うよ」
「そこは鳥取じゃないよ」
「うわあ鳥取だと思ってた。当てられなくてよかった」
「鳥取なんて県があったのね」
みんな興奮して好き勝手に騒いでいます。しかしひとりだけ冷静な園児がいました。カシコちゃんです。
「島根と鳥取の区別がつかないなんて救いようのないおバカさんね。全国から選び抜かれた優秀な幼児が集う私立天下一幼稚園の恥晒しだわ。あーあ、こんなお遊び簡単すぎて欠伸が出そう。先生、さっさと正解を発表して」
「あ、はい。そうですね。カシコちゃんの言ったとおり正解は島根県です」
幼稚園教諭のお姉さんはドギマギしながら答えました。それでもカシコちゃんは腕組みして睨み付けたままなので、幼稚園教諭のお姉さんは背中に冷たい汗が流れるのを感じながら尋ねました。
「えっと、次の問題に移ってもいいかしら」
「で、島根県の県庁所在地はどこなの?」
「えっ!」
まったく予想していなかった逆質問に直面し、脳みそが混乱する幼稚園教諭のお姉さんです。
「えっ、じゃないでしょ。早く答えて」
「え、えっと、島根市かな」
「松江市よ。こんな簡単なことも知らないなんて情けないわね。先生、もう一度学校に入り直して教職課程を履修し直した方がいいんじゃない」
「うう、ごめんなさい」
しょげ返る幼稚園教諭のお姉さん。島根県の県庁所在地が松江市であることくらいお姉さんだって知っていたのです。なにしろ2年前の卒業旅行の行く先が国宝5城のひとつである松江城だったのですから。それなのに間違えて「島根市かな」などと言ってしまったのはカシコちゃんの高飛車な態度に怖気付いて正常な思考が奪われてしまったからに他ありません。
「うわあ、カシコちゃんって賢いね」
「先生よりも賢いんじゃないかな」
「これからはカシコちゃんが先生やってよ」
幼稚園のお友達は口々にカシコちゃんを称賛し先生の交代を要求しました。カシコちゃんにそれを拒む理由はありません。みんなの要望を引き受けたカシコちゃんは幼稚園教諭のお姉さんを自分の席に座らせ教壇に立ちました。そして日本白地図に全ての都道府県名と都道府県庁所在地名を書き込み、さらにどこから取り出したのか世界白地図を掲示すると、世界196カ国の国名と首都を書き込みました。とんでもない賢さを目の当たりにした幼稚園のお友達はすっかり度肝を抜かれてしまいました。
「カシコちゃん、賢すぎる!」
これまで何度も叫んだ言葉をみんなで叫んでその日は終わりました。
「ただいま」
「おかえりカシコ」
自宅の玄関前で幼稚園の送迎バスを降りたカシコちゃんはドアを開けました。出迎えてくれたのは母方の祖母と父方の祖母です。カシコちゃんは7人家族。両親と両親の両親とカシコちゃんの7人です。両親はどちらもひとりっ子、そしてカシコちゃんも今のところひとりっ子なのでおじさんもおばさんもいとこも兄弟姉妹もいません。この7人が3親等以内の親族の全てです。少子化まっしぐらの典型みたいな家族です。
「今日は楽しかったかい」
「いつもと同じ」
「何か面白いことはなかったかい。話しておくれ」
「お話しするようなことは何もないわ」
カシコちゃんは素っ気なく返事をすると2階の自室に入ってしまいました。両祖母は顔を見合わせてため息をつきましたが、いつものことなのでそれ以上は何も言わず居間に戻ってテレビの続きを見始めました。
「ごめんねお婆ちゃん。でも年寄りと無駄話をしている時間はあたしにはないの」
カシコちゃんは自分の家族をあまり快く思ってはいませんでした。6人の人生があまりにも平凡すぎるからです。両祖父と父親はそこそこの会社に勤務する鳴かず飛ばすの会社員。両祖父は出世コースに乗り遅れて係長止まりで定年を迎えるのは確実。間もなく不惑の父親はいまだに平社員。すっかり昇進を諦めて事なかれ主義の毎日。母親はパート勤めのありふれた主婦。平凡を絵に描いたような家族です。
「カシコや、立派な人にならなくてもいいから幸福な人生を歩んでおくれ。普通に娘になって、普通にお嫁さんになって、普通にお母さんになって、普通にこの世を去る、それが一番幸せな生き方なんだよ」
両親も両祖父母も口癖のように毎日そんな言葉を吐くのです。
「そうね、それを幸福と思う人もいるわよね」
と答えてはいるのですがカシコちゃんの胸の内ではそんな生き方は断固として拒絶されていました。
「あたしは絶対にあの人たちみたいな人生を送らない。目指すのは常にテッペンなのだから」
野望に燃えるカシコちゃんにとって平凡な人生など悪以外の何物でもありません。
「まずは最難関の大学に入学。在学中に国家総合職の公務員試験に合格。卒業後は中央省庁でキャリアを積み重ねて事務次官まで昇り詰めた後は、政界に身を転じて国会議員となり史上初の女性首相としてこの国を統治するのよ」
これがカシコちゃんの夢でした。物心ついた時からこの夢を実現させるために精進と忍耐と苦難の日々を送って来たのです。カシコちゃんの賢さは天からの贈り物などではなく、血と汗と涙にまみれた努力の賜物なのです。
「カシコ、今日は火曜日だからフランス料理だよ」
「感謝するわ」
夕食は7人そろっていただきます。両祖父も父親も昇進を諦めているせいか残業を命令されることは滅多にありません。毎日定時に終業するので7人全員で夕方の食卓を囲むことができるのです。
「お婆ちゃんとお爺ちゃんはサバの味噌煮。お母さんとお父さんは豚肉の生姜焼き。そしてカシコは」
ここでカシコちゃんの母親は一息入れました。
「前菜にトマトとチーズのレタス包み。スープは蕪のポタージュ。メインは黒毛和牛のグリル、リゾット添え。デザートはストロベリーアイス。最後に梅昆布茶、です」
「いただきます」
カシコちゃんだけ特別メニューなのは将来迎賓館で開催される晩餐会で恥をかかないように、食事作法を身に着けておく必要があるからです。
カシコちゃんの食費は他の6人の合計よりも多いのですが、それは心配ありません。両祖父と父親の3人は給与所得者であり、しかも3人ともたいした趣味を持たず、酒もタバコも博打もやらず、人付き合いも悪いため、稼ぎのほとんどをカシコちゃんの養育と教育と娯楽に振り分けられるからです。バカ高いことで有名な私立天下一幼稚園の費用を捻出できるのもこの3人の凡庸な生き方のおかげと言えるでしょう。
「ふう、おいしかった。明日は中華ね。頼むわよ、お母さん」
「任せて!」
カシコちゃんのお母さんは胸を張りました。平凡な主婦ではありますがレシピさえあればどんな料理でも見事に仕上げられるのがお母さんの自慢です。
ちなみにレシピはカシコちゃんが検索して準備しています。そのおかげで今では古今東西あらゆる料理に精通する、三ツ星シェフ顔負けの料理人となったお母さんなのでした。
「ああ、今日も一日が終わってしまった」
カシコちゃんの就寝時間は夜9時です。本当はもっと遅くまで本を読んだりネットで知識を吸収したりしたいのですが、「寝る子は育つ」「早寝早起き病知らず」「睡眠は薬に勝る」などの名言に従って9時就寝7時起床の1日10時間睡眠を自分に義務付けているのです。
「明日も賢い1日が送れますように」
そしてカシコちゃんの賢い1日が終わるのです。
「はい、お昼寝の時間ですよ」
その日もカシコちゃんは幼稚園で賢い午前を過ごした後、賢く昼食を済ませてお昼寝をすることになりました。
「おやすみなさい」
どういうわけかお昼寝は夜よりも気持ちよく眠れます。カシコちゃんは目を閉じるとすぐさま眠りに落ちてしまいました。
「おお、現れましたよ!」
「これは、奇跡です!」
眠ったばかりだというのに先ほどから妙に騒がしいのです。それでもまだ寝足りないのでカシコちゃんは目を開けませんでした。
「ようやく我らの願いが聞き届けられたのですね」
「神よ、感謝します」
騒がしさは続いています。それどころかどんどんざわめきが大きくなっていくようです。ついに耐え切れなくなったカシコちゃんは目を開けて叱りつけました。
「お昼寝の時間に騒いでいるのは誰? 静かに寝なさい!」
「おお、目を覚まされたぞ」
聞こえてきた声は幼稚園教諭のお姉さんのものではありません。もちろん園児のものでもありません。カシコちゃんは半身を起こして周囲を見回しました。
「えっ!」
自分の目を疑いました。見も知らぬ数十名の者たちが自分を取り囲んでいたからです。しかもどう考えてもここは幼稚園の園舎ではありません。
「ここはどこ? あなたたちは誰?」
自分の賢さがまったく役に立たなくなるほどの異常事態に直面し、さすがのカシコちゃんも戸惑いを隠せませんでした。
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