第5話 子どものころの約束
「『覚書』……」
宇多見に手渡された紙の見出しにはそう書いてあった。以下の文章も鉛筆書きの拙い文字のわりに妙に書式が整っている。
『宇多見好花(以下、甲とする)と丸瀬柊真(以下、乙とする)は、下記事項に関して覚書を締結する。』
俺の字ではない。ということは宇多見が書いたものだろう。
『1・甲と乙は大人になっても良き友人であること』
『2・一生独身のまま老いた場合、甲は乙の面倒を見ること』
――だからなんで俺が先に衰える前提なんだよ。
思わず頬が緩む。
これは例の約束を書面にしたものだった。
なんとなく思い出してきた。宇多見に渡されたこの覚書の一番下の記入欄にサインをし、このクリアファイルに挟んで返したんだ。
記憶どおり、一番下には今より下手くそな俺の字でサインがしてある。
――……?
俺の記憶では例の約束は『2』までだ。しかしこの覚書にはそれ以降も項目があった。
それは――。
『3・高校生まで一度も恋を経験できなかった場合、甲と乙はお試しとして恋人になってみる』
「……え?」
思わず声が漏れた。その下にまだ項目がある。
『4・恋人関係に飽きる、または無理と判断した場合、甲と乙は友人関係に戻らなければならない』
「これ……」
こんなの記憶に――。
――いや、でもなんとなく……。
「その顔、やっぱり忘れてたんだ」
宇多見は呆れた口調で言った。
「忘れてたっていうか、多分、ちゃんと聞いてなかった」
「なお悪い!!」
「あのころ俺、三国志にはまっててさ」
「知ってる。好きな武将は法正でしょ」
「よく覚えてたな。――で、前半の約束が桃園の誓いみたいでテンションが上ってて、そこしか気にしてなかったんだと思う」
「はあ~……。ほんと、昔から興味があること意外まったく興味ないんだね」
「それは、なんかすまん」
「ふわっと謝るな」
「そもそも俺たちはなんでこんな約束をしたんだ?」
「丸瀬がきっかけ」
「俺が?」
それこそまったく記憶にない。
「バレンタインデーにクラスメイトがチョコをあげたとかもらったとか話してるのを見て――」
宇多見は咳払いをして、少年のような声で言う。
「『恋だなんだとくだらない。そんな時間があるなら三国志でも読んだほうが人生豊かになるのに』」
「え、なになに? なにが始まったの?」
「当時の状況を再現しようと思って」
「そんな、コント漫才みたいな……」
「ちなみに今のは丸瀬ね」
「だろうな」
すごく言いそう。
宇多見が言うには、以下のようなやりとりがあったらしい。
『恋だなんだとくだらない。そんな時間があるなら三国志でも読んだほうが人生豊かになるのに』
『……作品に触れもせず聞いた話だけで批判する人を丸瀬はどう思う?』
『そいつんちの冷蔵庫にある食材の賞味期限全部切れろって思う』
『うわぁ、陰湿……』
『一オタクとして、作品が根拠なき迫害を受けるのを許せるわけないだろ』
『今、丸瀬がやってたことだよ』
『は?』
『恋というコンテンツを経験したこともないのに聞いた話だけで否定してる』
『っ!? た、たしかに』
そうだ、そういう話をした。
ひとつ思い出すと、芋づる式に記憶が蘇ってくる。
そのあと『勉強』と称して宇多見の家で一緒にラブコメアニメを見まくった。でもやっぱり、未来の自分たちがこんなふうにきらきらの恋をするなんて想像もできないという結論に至り、例の約束――覚書の1と2――を交わしたんだ。
恋愛や結婚できなくて一生独り身でも、ずっと友だちでいよう、と。
そして……、そうだ。宇多見はこのように言っていた気がする。
『わたしたちが老人になってさ、やっぱり恋愛なんてクソだな、って堂々と批判するために、一度わたしたちで恋愛を経験しておこう』
と。
それが覚書の3だ。
全部、思い出した。
宇多見のほうを見る。
――こいつと恋人に……?
「嫌?」
宇多見は上目遣いで尋ねた。
「嫌ではない」
その返事に彼女の表情は明るくなる。
「じゃあ――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。いきなりすぎて混乱してる。少し考えさせてほしい」
正直、恋というものに興味や憧れはある。
ただ、友だちとしての宇多見が完璧すぎて、あえてその関係性を変えるのが怖い。いつでも友だちに戻れる約束だとしても、恋人を経たあとに今みたいな気の置けない関係に帰ってこれるのだろうか。
でも、いやしかし、だとしても……。一生、答えなど出そうにない煩悶。
ふと視線を感じて顔をあげると、悩む俺を宇多見がじっと見つめていた。
その顔にはなぜか微笑みが浮かんでいる。約束を覚えてなかったばかりか優柔不断な俺にいらいらしそうなものなのに。
「なに見てんだよ」
「別に。悩んでるなあって」
「悪趣味だな。楽しいか」
「楽しい……、とは違うかな」
宇多見は機嫌がよさそうに笑う。
――なんなん……?
しかし視線を気にしてる場合じゃない。俺は再び煩悶に身を投じる。
と。
「わたしね、誰とも付き合ったことないって言ったでしょ?」
「え? あ、ああ」
「でも告白は何回もされたんだよ」
なぜ今その話を。しっかり悩ませてほしいんだが。
「同級生とか先輩とか。あと駅で大学生にいきなり付き合ってって声をかけられたこともあった。みんなまともに話したこともないのに」
「なんだよ、自慢かよ」
「違うよ。だって別に嬉しくなかったし」
じゃあなんで話した。愚痴か。今それを聞いてる余裕はない。
しばらく悩んでいると――。
「丸瀬はさ」
宇多見がまた話しかけてきた。あくまで邪魔をする気か。
「今度はなに」
「わたしが変わって嬉しい?」
なにを言い出すかと思えば。
「変わったのは見た目だけだろ」
「その見た目の話をしてるの」
質問の意図が分からない。
「なんでお前の体積が減ると俺が嬉しいんだよ」
「体積て」
「すまん。脂肪が減ってしぼんだと考えれば容積か」
「ひとを水風船みたいに」
宇多見はふっと息を吐いた。それはちょっと笑ったようにも、安堵したようにも見えた。
「やっぱり丸瀬は丸瀬だ」
「そうだが?」
「わたし、丸瀬のそういうところ――」
宇多見はちょっと言いよどんだみたいに間を置いた。
「? なんだよ」
「――が美術の点の低い原因だと思う」
「苦言!? 褒める流れじゃないのかよ」
「そんな流れなどない」
「というかなんの話だ。今、悩んでるからちょっと静かにしててくれ」
「はいはい。ふふっ」
以降、宇多見は本当に黙った。俺を凝視するのはやめなかったが、それでも話しかけられるよりはずっと悩みやすい。
そうして俺はしばらく逡巡しつづけた。
ふと気づくと空がオレンジに色づきはじめていた。
「あ、す、すまん。悩みすぎだよな」
「ううん」
かなり待たせたにもかかわらず、宇多見が機嫌を損ねた様子はまったくない。
「それで、答えは出た?」
宇多見はおずおずといった様子で尋ねる。
どうするのが最善か、に対する答えは出なかった。もともと答えなんてないんだろう。
だから問いを変えた。俺はいったいどうしたいのか、と。
俺は恋に向いてないと思う。でも恋はしてみたい。もしかしたらうまくいく相手がこの世界にひとりくらいはいるかもしれない。
だとしたら――。
その相手は宇多見しか考えられない。
「やってみるか」
「よしっ!!」
宇多見は拳を握って大声をあげた。
「な、なんだよ。そんなに嬉しいのか?」
「は、はあ? わたしはただ約束が果たされたことが嬉しいだけですけど? そっちこそ『やってみるか』なんて、丸瀬にしてはすごく前向きじゃん」
「べ、別に前向きじゃない。約束だからだよ。あくまで恋愛を批判する権利を得るための」
「わたしもそれだし」
「……」
「……」
妙な沈黙。やっぱり照れが出てしまう。
宇多見はわざとらしく咳払いをした。
「じゃあ今日からよろしくね、か、カレシ」
「ああよろしくな、か、カノジョ」
こうして俺たちは『恋人』になった。
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