夜を泳ぐ

織葉 黎旺

夜を泳ぐ

 定期的に刻まれる心地よい揺れを身に感じながら車窓を眺める。といっても何が見える訳でもなく、そこには黒い闇がぽっかり浮かぶばかりだ。ほとんどの場合はむしろ、反射した車内の光景の方が映る。疲れ顔のサラリーマン、舟を漕ぐ老人、単語帳と睨めっこする女子高生、中には自分と同じような旅行客の姿もある。僕は何をするでもなく、ぼんやりとそれを見続けていた。することがないからというのも理由の一つではあったけど、何より車窓を眺めるのが好きなのだ。たとえそこに何も映らないとしても。

 都会は色んな建物に灯が点り、街灯も明るく、人々の営みの証を確かめることが出来るけれど、田舎となるとそうはいかない。目を凝らせば何とか見える街灯、ぽつりと鎮座する家の灯。道標のようにそれらが浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。東京の夜は眩しすぎる。夜の車窓なら、僕はこのくらい静かな方が好きだ。


「……ん」


 揺れが収まり、電車のアナウンスが停車を告げた。どうやら地域の中では大きな駅に着いたようで、隣のサラリーマンやスーツケースの旅行客を含め、多くの客が降りていく。もしや乗換駅だっただろうか、とメモをめくったが、まだ一時間ほどかかるようだ。駅前のロータリー、でかでかとしたクリニックの広告、ぽつぽつと並ぶビル群などを横目で見ていると、反射して乗降口の光景が見えた。有り体に言ってしまえばとても美しい妙齢の女性だった。現代にしては珍しく、浅葱色の和服に身を包んでいるのが一層目を引いた。髪を耳にかきあげ、きょろきょろと車内を見回している。ふと、窓の向こうの彼女と目が合った。疚しい気持ちはほとんどないとはいえ不躾に眺めてしまっていた罪悪感もあって、硝子越しに小さくお辞儀した。彼女はそれに微笑で答えて、こちらに歩を進めた。


「隣、よろしいですか?」


「どうぞ」


 失礼します、と女は隣に座った。椿のような柔らかな香りが鼻孔を擽った。丁度扉が閉まり、電車は緩やかに走り始める。大きな駅の周りだからだろう、街は比較的明るくて、少し遠くのマンションの明かりや連なって並ぶ街灯が煌めく星みたいに見えた。もっとも、すぐに現れたコンビニの立ち看板で台無しになったけど。

 また暗い地域にさしかかり、窓に車内の風景が濃く反射し始めた。どうやら女も車窓を眺めていたようで、硝子越しに目が合う。結ばれていた赤い唇が少し開いたことに気づいて、ゆっくりと振り向いた。


「どこからいらしたんですか?」


「東京です」


「随分遠くからですね、ずっと電車で?」


「ええ、まあ。体力には自信があるもので」


 鈴を転がしたような綺麗な声音だと思った。地方特有の訛りみたいなものは微塵も感じられない。


「それに、気ままに車窓を眺めるのが好きなもので。新幹線だと早すぎて、どうにもそういうわけにはいかない」


「いいですね、私も好きです」


 彼女の興味が僕から硝子の向こうに移ったことに気づいて、つられてそちらを見つめた。枠の中には相も変わらず闇しか見えない。映るのは自身と、憂いを帯びた黒い瞳だけだった。


 トンネルに入る。小さく耳鳴りがした。


「硝子を一枚隔てた向こうは、古来より別世界ですからね。鏡像然り、車窓然り」


 なるほど、と頷く。合わせ鏡などが顕著な例だが、鏡というのはを繋げるものだとよく言われてきた。車窓の向こうも、いってしまえば通り過ぎただけの見知らぬ場所、自分には関係のない別世界。言い得て妙だ。


「トンネルもまた、然り」


 トンネル内の電灯がノッキングするように瞬いて、消えた。突然の事象に驚いて振り向きかけるが、柔らかな手がそっと、視界を塞いだ。


「驚かないで」


 耳元のささやきは、甘く脳髄を蕩けさせるように響く。


「貴方が見るのは一夜の幻。泡沫の夢。だから、何も恐れることはない」


 ゆっくりと頷くと、温もりは離れていった。車窓を見て思わず息を呑む。外は最早トンネルではなく別のどこかだった。


 淡いコバルトブルーに包まれた夜の世界。柔らかな闇の中にそびえ立つ摩天楼。それを包み込むように優しく輝く光の海。見れば、それらは煌めく魚の群だとわかった。彼らはひしめき合い、所狭しとぶつかり合いながら進んでいく。まるで踊っているように見えた。


 幻想的な光景に目を奪われていると、ふと彼女の気配が消えたことに気づく。振り返っても見えるのは、屹立する藍色の天守閣だけ。再び正面の車窓を見やると、彼女は夜の中にいた。濡れ羽色の長髪を優しく靡かせ、優雅に嘆美に夜を泳ぐ。魚が、羽衣のように彼女の周囲を舞っていく。こちらを見てにっこりと、涼しげな笑みを浮かべた。その姿が優しく光り始めたように見えて、目を擦る。彼女の口が、ゆっくりと動いた。


 「縁が合ったら、また会いましょう」


 彼女が夜空へと舞い上がる。瞬き流れる星となる。一際強く煌めいて、思わず目を瞑った。どれほどそうしていただろうか、気がつけば先程までと何ら変わらぬ電車内だった。いつの間にかトンネルを抜けていたようで、車窓にはぽつりぽつりと街の灯が映っている。


「…………」


 目を閉じる。先程までの光景が泡のように浮かんでいる。五感が現実を訴えてくる。彼女の別れ際の一言が、耳に残り続けている。


 「縁が合ったら、また会いましょう」


 小さく呟く。椿のような香りが、鼻孔をくすぐった気がした。


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