第56話
出産後、助産師指導として、沐浴の仕方、母乳のあげ方、服の着替えと紙おむつの交換、母親としてのミッションは数知れない。
昼夜問わずに要求される。
入院中は仕事に戻らなくてはいけないため、さとしはいないし、頼れる者は助産師さんだけ。
不安なことがあれば、すぐにナースコールする。
たまたま担当になった助産師は母乳推進していて、3時間開けなくても何回もやっていいと言われたが、なかなかうまく母乳が出ないらしく、お腹が空いて泣き叫んでいる。
母乳一つ与えるだけでも体力が半端ない。
クリニックから出される食事は一般の方よりも多めに出されているようでお腹いっぱいになってしまって、残してしまうこともあった。
その分、食べれば、いっぱい母乳が出る。
陸斗の泣き続けてるのを聞くと、母乳が出ないことに落ち込んで、手も足も出ない。
諦めかけそうになった時に、別な助産師さんから声をかけられて、
「無理しないで、母乳が出なかったら、少しだけミルク足しても大丈夫。母乳は確かに良いものだけどね。できる時にやりましょう。」
その一言で紗栄は涙が出た。
一生懸命にやっていたつもりでも、できることとできないことがあることに気づく。
優等生の紗栄は、妊娠中に、育児書を読破したが、予想外のことが起きることに焦りを見せた。
着ていた病衣がくしゃくしゃになるほどに、子供と向き合ってる姿を見た助産師は、両肩をポンポンと優しく撫でてくれた。
「頑張っているよ。大丈夫、大丈夫。あなたは子どもと向き合ってるからきちんと答えてくれるわよ。疲れた時は休んで、遠慮なく、私たちに頼って良いんだよ。入院中だけよ、ゆっくり休めるのは…。」
「ありがとうございます。」
泣きながら、会釈をする。
思い詰めすぎて、頼ることを知らなかった。
夜のシャワーする時だけしか、預けられないと思っていたからだ。
そんなことはない。
体が疲れた時や、眠い時は遠慮なく助産師に陸斗を預けて寝ても良いらしい。
ほぼ昼夜問わず24時間営業の育児。
母の美智子が、父に匙を投げたくなる気持ちが今分かった。
妹の花鈴が生まれた時に母と離れ離れになった時があった。
あの時は母と離れるのが寂しくて、どうして置いていかれるのかと心底悲しかったが、母の体のことを考えて引き離されたのだろうと納得した。
助産師に頼もうとした時、病室のドアのノックがしてすぐに開いた。
「こんばんは。お世話さまです。今、入っても大丈夫ですか?」
さとしが仕事終わりに来てくれたようだった。
「さとし!あ、すいません、夫です。預けられるので、どうにか大丈夫です。」
「そう? 夜間の授乳で大変な時はいつでも呼んでくださいね。それじゃぁ、失礼します。」
助産師は病室を後にした。
さとしは持ってきた荷物を病室の中のソファに置いた。
「入って良かったんだよな。お?陸斗は熟睡中か? 泣いてるところいつも見逃すな…。」
紗栄の名前が書かれたベビーベッドに陸斗は静かに眠っていた。
「いつでも泣いてるよ。いやでも見るんだから!」
「ごめんごめん。帰ってきたら抱っことか代わるから。頼まれてたペットボトルのお茶持ってきたぞ。冷蔵庫に入れておくな。たんぽぽが入ってるのでいいんだよね?」
さとしはビニール袋に入った600mlのペットボトル5本を冷蔵庫に入れておいた。
「そうそう。何だかたんぽぽ茶を飲むと母乳が多く出るって話だから、コンビニでもあるそのペットボトルがいいらしいんだ。ありがとう。助かったよ。」
「元気そうだけど、大丈夫なの?」
話そうとすると、紗栄は個室内に併設されたお手洗いに行った。
水の音がジャーと聞こえるとすぐに出てきた。
ドアを開けて
「今、胎盤がおりてきたみたい。何か、すごい出血で…。」
話してるうちに意識が飛んだようで紗栄はそのまま床に倒れそうになる。
さとしは異変に気づいて慌てて、腕で支えた。
「あぶなっ! 紗栄、紗栄、大丈夫?」
貧血になったようで顔が青白かった。
腕を自分の肩に乗せてそっと体を運んで、ベッドに座らせた。
「う…うん。ごめん、何か一瞬見えなかった。ちょっと、横になる。陸斗、見ててくれるかな。」
そのまま、ベッドに足を伸ばしてふとんをかけた。
「ああ。俺は大丈夫だけど、紗栄は?看護師さん呼ばなくて良いの?」
「うん。平気。ちょっとフラフラしただけだから。夕ご飯もしっかり食べたし、ちょっとだけ寝かせて。」
「うん、分かった。」
さとしは、ベビーベッドにいる陸斗を何度もスマホのカメラで写真におさめていた。ほぼ寝ているところだけだった。
静かに寝ている時は天使そのもの。
至福の時を味わっていると、目がクシャと崩れて泣き始めた。
それでもずっと写真を撮るさとし。
「可愛い!」
「ちょっと写真ばっかり撮ってないで、あやしてよ!」
泣き声に敏感な紗栄は怒り心頭だった。
「あ、悪い悪い。今抱っこします。」
そっと、左側から左手を首の下に入れて、右手は腰の付近で抱き寄せた。
お母さんじゃないからか、泣き止まない。
「よーし、よーし。ねんねんころり、ねんころりー。」
とよくわからない歌を歌うが、ずっと泣いている。もう一度ベッドに寝かせて、今度はオムツを確認した、よく見たら青くラインがついていて、明らかにおしっこを、していたようだった。
ベビーベッドの下の棚にある紙おむつを広げて、お尻の下に敷いて、手際よく濡れたオムツをくるんとまとめた。
初めてするには、すごく迷いもなく手早くできていた。
横目でちらっと紗栄はさとしを見ると、すぐに反対側に背を向けた。
(できるじゃん。ウチ帰ったら、オムツ交換いっぱいしてもらわないと!)
ニヤニヤと考えながら寝たふりをする紗栄。
「ねえ、何か言いたいことあるんじゃないの?」
さとしはドヤ顔で言うが、紗栄は無視して寝たふりを続行した。
(ちぇ、せっかく深月から借りた赤ちゃん人形でオムツ交換練習したのに…何も言ってくんないのかよ。)
ブツブツ文句を言いながら、陸斗のロンパースのボタン部分をパチパチと、とめた。
「紗栄、起きてたら聞いて欲しいんだけど、俺の母さんと父さんはここに来たかな?」
「……来てないよ。」
さとしがいるソファの方に寝返りを打った。
「何だ、起きてるじゃん。2人来てないのか。うちの方に来るのかな。空の葬式以来、会ってなくて連絡ずっと取れなかったから。今回の出産くらいは…って思ってて。どうする? どっちがいい?」
「出来れば病院が良いかな。ウチだとお店もあるし慌ただしくなるでしょう?」
「そうだな。連絡しておくわ。俺いなくても平気?嫁、姑大丈夫?」
スマホのラインアプリを起動した。
「平気だよ。しばらく会ってないけど、お義母さん優しいもん。」
「母さんは、姑…おばあちゃんといろいろトラブルあった人だから嫁には優しくしたいって言ってたよ。かまかけただけですー。母さんはいじわるなんてしないよ、安心しな。」
ラインでどこの病院に入院かなど必要事項を千桜子に連絡を入れた。
「明日、午前中に少しだけ顔出しますってさ。陸斗と紗栄の顔見せてあげて。すっぴんでも良いけど…眉毛だけは描いた方がいいかも? 怖いよ。俺の前はいいけどさ。」
「分かってますよ。出産する前に間違って剃っちゃったんだから仕方ないでしょ。眉毛くらい描きますよ!」
「可愛いけどね。眉毛なしでも。」
「どこ見て言ってるの?」
「え、天井。」
「それ嘘でしょ。」
「……。」
「うわ、黙ってるし。」
さとしは、ガサゴソと荷物を整えた。
「そろそろ帰るかな。明日も仕事あるし…。」
「えー、もうすぐ泣くからいても良いんだよ。」
「なんで、予告してんだよ。ずっと寝てた方いいじゃんか、夜なんだし。」
紗栄はわざと、陸斗をゆすって起こそうとした。
「あ、それ、反則だって。かわいそうだろ?」
「え、おかしいなあ。規則正しく15分おきで起きるはずなのに…。」
「んなアホな。陣痛じゃないんだからん
な訳ないでしょう。」
紗栄の頭にチョップを軽くした。
「…だって、大変なんだもん。もっとお世話してくれても良いじゃない。」
頬を膨らませて怒ってる。
「ごめんな、一緒にいてやれなくて…。ありがとう。陸斗お世話してくれて。」
そっと紗栄をハグをして、頭をそっと撫でた。
紗栄は返答するように背中に腕を回した。
「うん。」
「退院したら、たくさんお世話するから。紗栄も陸斗も、な?」
「私は別にお世話しなくても良いけど…。」
「俺がお世話したいのー。」
呆れた顔をする紗栄。
「あー、はいはい。お手柔らかにね。」
額にキスをして、荷物をまとめて、病室を後にした。
紗栄はキスされた額をおさえて、ふとんに潜った。
陸斗はすやすやと眠っていた。
ーーー
退院日。
紗栄は、私服に着替えて、病室を出る準備をした。
陸斗はよそゆきの赤ちゃん服を着せられた。
泣かずに手足をバタバタ動かしていた。
終始ニコニコしている。
「もう大越さん退院なのね。お大事にすごしてね。」
とても良くしてもらった助産師が声をかけてくれた。
部屋をきれいに整えて、スリングに陸斗を乗せた。
さとしは入院中に使った荷物を一式持った。
「あれ、よく見たら、あなた、テレビのCMで出てるわね。SATOSHIくんじゃない? 結婚して子供もいたの?!」
「あ、それは秘密にしておいてください。個室にした理由はそれなんで…。」
口元に人差し指をやると助産師にウインクをした。
「キャー、サインもらっても良いかしら…。」
手帳のメモ欄にボールペンを添えられた。さとしはサッサとサインを書いた。
「大事にします。ありがとうございます。」
紗栄は面白くなかったのかそそくさと病院の玄関の方まで歩いて行った。
さとしは、バックの中に入ってたメガネをうっかりつけ忘れていたことを思いだし、パッとつけた。
慌てて、紗栄の待つ病院の玄関まで駆け出す。
チャイルドシートを後部座席にしっかりと取り付けていたさとしは、紗栄から陸斗を預かるとそっとシートに座らせてシートベルトを装着した。
外出ができるとあってか、ニコニコ喜んでいた。
紗栄は助手席に座り、さとしは運転席に座って、エンジンをかけた。
軽快な音楽が大音量で鳴って、びっくりした。慌てて音を下げた。
「おっと危ない。大きすぎたよな。これでよし。さて、お家に帰りますよ。」
「はい、お願いします!」
紗栄は久しぶりに戻る自宅に心が躍った。
出産といえど、入院は苦痛なものがある。
狭いお部屋で1日を過ごす。
母乳ミルクオムツあやしの4ミッションの繰り返し。
プラスで沐浴。
自分のシャワーと3食の食事をする。陸斗が寝ている間の仮眠。
栄養ドリンクを飲んで、次の陸斗の授乳に備えながら、時間を過ごした。
目の下にクマが出てきていた。
体力が回復してないまま、退院となる。
「ただいま~。」
紗栄は、陸斗をだっこしながら、お店の中に入った。ちょうど、ランチタイムが終わったところだった。
ホールのバイトの2人はホールの中の掃除をしており、キッチンでは遼平が後片付けに追われていた。
さとしは、入院中に使っていた大きなバックを肩にかけて中に入っていた。
「お疲れ様~。みんなごめんな。差し入れに、牛タン弁当買ってきたから食べて。ここにおいておくよ。」
全部で5人の弁当をカウンターの棚に置く。
「おかえりなさい。お弁当ありがとうございます。男の子ですか?」
「お疲れ様です。差し入れ、ごちそうさまです。」
「そう、男の子だよ~。可愛いでしょう。」
「うわぁ~。手が小さいー。店長にそっくりじゃないですか。」
「本当、よかったね。陸斗ー。パパ似だって。」
そんな他愛もない話で盛り上がっていると、さとしは、遼平のそばに駆け寄った。
「長い時間、ごめんな。助かった。今日のディナーは休んで良いから。」
「お疲れ様です。いや、大丈夫っすよ。まだ、体力ありますし、気にしないでください。」
「そう? 無理すんなよ? あと、来週の発注はもうやった?」
「えっと、その棚に書いた用紙置いておきました。電話とかメールはまだ送ってなかったんで頼んでもいいですか?」
さとしは、遼平に言われた通りに棚にあった用紙を確認すると丁寧に来週分が書き終えてあった。
「さんきゅー。わかった。やっておくわ。」
そんな中、紗栄は遼平に近づいてきた。
「ほら、お父さんですよー。」
陸斗を抱っこしたまま、紗栄は遼平に見せつける。
「え?マジっすか?」
冷や汗をかいている。後退りした。
「え?…。遼平くん、冗談だよ!」
そこへさとしが
「え、なに、なに、何の話?」
「え、いやぁ…。」
「あ、まさか、遼平がお父さんとか言っちゃったわけ?んな訳ないっしょ?」
「ないない!」
紗栄と遼平は2人同時に手を横に振って答えた。
声が揃っていることに笑ってしまうさとし。
「なに、2人揃ってるの?」
(いや、多分、俺の子ではないと思うけど…。ね?)
(うん、違うと思うけど…。)
2人は冷や汗をかいた。
さとしは、その様子を見て、表向きは笑っていたが、内心、寂しい思いをしていた。
少しの違いだが、自分に似てはいたけれど、どこか髪の毛の天然パーマのようにクシャクシャになっているところが気になった。
自分も紗栄も、どちらもストレートの髪だった。
紗栄は陸斗を連れて、2階の部屋に登って行った。
「なぁ、遼平って天パなの?」
さとしは、冷蔵庫の中を整頓しながら、話しかける。
「え、いや、ストレートですけど…昔はクルクルだったって母が言ってましたが、今は自然にしててもストレートですよ?小学校の時に坊主にしたことがあって、髪質変わったかもしんないですね。」
「ふーん。そうなんだ。これ、消費期限切れてたから捨てといて。」
冷蔵庫に入っていた豆腐パックを手渡した。
「了解っす。え、なんでそんなこと聞くんですか?」
「え、何となくな。」
頭に疑問符を浮かべながら、遼平は片付けを続けた。
(やっぱ、俺じゃないかもな…)
そう思いながら、キッチンの作業を続けた。
「あ、着替えるの忘れてた。ちょっと着替えてくるから、あと、休憩してていからな。俺が戻って、残りの作業しておくから。」
「あ、はい。わかりました。」
さとしが、階段を駆け上がっていくと同時にホールの方が騒がしくなっていた。
「こんにちは。遼平くんいますか?」
ホールバイトの2人に話しかけているのは、森野くるみだった。
あえて、休憩中だと知ってのことだった。
「あ、どちら様ですか? 今、お店は準備中でして、夕方5時からオープンですが…。」
「森野くるみです。遼平くんがここで働いてるって聞いて…。あ! 遼平くん!」
くるみはズカズカと中の方へ入っていく。
「え、くるみ? なんでここに? 今日、仕事休み?」
「うん、ちょっとね。いるかなぁと思って来てみたの。これ、職場の皆様にと思って差し入れも持ってきた。」
話題のショートケーキが缶の中に入っているっていうお菓子を10個くらい袋に入れてくるみは持ってきた。
「あ、それ、有名なお菓子ですよね。美味しいですよね。」
「そう、わかる?ぜひ、食べてね。」
「ありがとうございます。」
遼平は、そんなくるみを見て、焦りを見せた。
「いや、差し入れしてくれるのは嬉しいだけどね。なんで、休憩中かなぁ…。」
「…だって、休憩中じゃないと、さとし様とゆっくりお話しできないでしょ? え、さとし様は??」
ズイズイとキッチンの奥の方を覗くが、誰もいないことにくるみはがっかりする。遼平はなるべくだったら、さとしに会わせたくないと思い、お店の外にくるみを誘導した。
くるみは抵抗しつつも外へ出ていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます