第55話


5月某日


紗栄のお腹が臨月になり、まもなく出産という頃、お店の仕事はお休みして、ほぼ家の中で過ごしていた。


 階段の上り下りは危ないと、お店の休憩室で横になったり、テレビで映画鑑賞したりゆったりしていた。


 スマホのインターネット検索で出産の兆候を何度も調べて自分はいつなんだろうとヒヤヒヤしていた。


 仕事中のさとしが心配になって様子を見に来た。


 コック帽子を脱いで横になっている紗栄の表情を黙って伺う。


「え? なに? なんか付いてる?」


「うーん…鼻の下の産毛がのびてる。」


「え、うそ。ちょっと、分かってても言わないでよ!」


 紗栄は重たい体をよいしょと起こして、引き出しの上にあるかごからフェイスシェーバーを取り出し、小さなスタンドミラーをテーブルの上に置いてそり始めた。


「どお? 何か調子悪いところないの?」


「別に、何もないですよーだ。ほら、仕事中でしょ?早く行ったら?」



「そんな邪険に扱うことないじゃない。今、遼平が頑張ってるから良いの。4月から社員になったんだから責任持ってやってもらわないとね。」



 テーブルにあったお菓子の袋を開けて食べ始める。



「よく、社員になってくれたね。こんな小さなお店に貢献してくれるなんて、もったいない。教育免許とか持ってるのに…。」



「何か、親に言われたからとりあえずは言われたことはやっといて、あとは自由にして良いってことらしいよ。好きなことをやってるんならいいじゃないの? 遼平、俺が教えたメニュー再現率高いから、安心して仕事任せられるんだよね。東京の仕事は、今年いっぱいやったら、地元の仕事にしてって坂本社長に頼んでたからさ。遼平に仕事教えといて良かったよ。」



 せんべいをバリバリ食べる。



「遼平くん、がんばりすぎてなければ良いけど、ほどほどにしなよ、さとし。自分の仕事もきっちりやりなよ。他力本願

は良くない。」



 マグカップにインスタントコーヒーを入れて、お湯を注ぎ入れた。



「分かってるよ。食材の在庫管理はほぼ俺がやってるし、バイトのシフトだって考えてるしさ、仕事やってないわけじゃないのよ。バイトだってランチとディナーで2人じゃ足りないからもう2人増やしたし…熱い!ふーふー」



 コーヒーを飲んで落ち着かせた。

 紗栄は何となくモヤモヤした。


「まあまあ、お産に響くからストレスなく、落ち着いて過ごしなよ。破水したら、病院連れてくから。あ、でも破水じゃなくて陣痛の場合もあるって…。どっちが先かな? ん?紗栄?」


 ふと、立ち上がった瞬間、お漏らししたような温かいものが流れ出てきた。


「あ、あ! 破水したかも…え。どうしよう。ちょっとトイレ行ってくる。病院に電話してて!!」


「え! 今? 早くない? 予定日までまだ3日先…電話しとくよ。」


 出来事は突然に起こる。さとしは、必要な荷物を裏口近くに運び、産婦人科に電話した。


 クローゼットから大きめのバスタオルを用意して、車の後部座席に敷いて置いた。


 お店のキッチンに顔を出し、遼平に伝えた。


「遼平、作ってるところ、悪いけど、俺、今から病院行くから。紗栄、破水してこれから出産になるかも、しんないのね。お店、あと、頼んで良い? ランチは3時までで、俺が戻ってこれたらディナーもやるから。」


「あ、はい。わかりました。さとしさん、ディナーも、俺やりますから行ってきてください。バイトの佐々木と、佐藤が出勤するので、何とか出来るかと…。」


 遼平は2人のために配慮した。せっかくの出産で途中で抜け出すのは紗栄がかわいそうだと悟った。


「ああ。本当? 助かる。今日の分の在庫処理は帰ってきたら、俺するから終わったらすぐ帰っていいからな。」


「了解っす。」



 ハンバーグプレートの準備に忙しくしていた遼平は話しながら作業をした。



 さとしはそう言い残すと、慌ててコックコートから私服に着替えて、紗栄を裏口から車に乗せた。


 まだ陣痛は来てなかったようで、まだ体は動かせた。


「仕事…大丈夫なの? タクシーで行っても良かったよ。」


 荷物も乗せてから紗栄は心配そうに言う。


「無理すんなって。俺がいるのにタクシーって酷くない? 夫の役目果たさせてよ。」


 サングラスをかけてミラーをのぞいて後部座席の紗栄を見た。


 お腹を押さえて、苦しそうだった。


「ごめん…お願いします。」


「素直でよろしい。出発するよ。」


 

 産婦人科について、先生に内診してもらうと、まだ子宮口が開いてませんねと言われ、陣痛室と呼ばれるところで、陣痛が来るのを待つことになった。一般病棟と同じベッドがあり、横になった。


 お腹には心電図を見る機械をつけられた。赤ちゃんの心臓はドクンドクンと元気よく鼓動が聞こえてくる。それでもまだ外に出ることはできない。


 しばらくぼんやりと水分補給をしながら、お腹が張るのを感じていたが、まだ陣痛はこない。


 さとしはベットの横の椅子で一緒に待っていた。


 破水はしているものの何も出来ない状態で、ベッドで横になっている。


「名前…何にするか決めた?」


 腕を組んで話し出す。


「私が決めて良いの?」


「うん。良いよ。もう男の子って分かってるわけだし…この間の超音波検査で見えたんでしょ? 大事なところ。」



 とっておいた写真をバックから取り出して、確認した。


「うん。確かに。先生にそう言われてた。お腹から蹴ってくるキックも強すぎるし…痛いんだよね。元気よさそう。名前、どうしようかなぁ。」



「お兄ちゃんは“空“だったもんね。この子は?」



「んじゃぁ、陸斗とか。大越陸斗ってどうかなぁ。陸は意味としてはそのままなんだけど、斗は北斗七星の文字から取ったとしたら、無限の可能性を秘めた人間になってほしいみたいな由来何だって。かっこいいでしょ?」


「へぇ~そうなんだ。いいんじゃない?俺よりもかっこ良くなってしまうかもな。」


「そう言うこと言わなきゃかっこいいんだけど…。」


 呆れてため息をつく。


「2世はぶおとこになるよりかっこいい方がいいだろうって…。まあ、どんな子だってかっこいいに決まってるけどな。」


 生まれる前から親バカの本能が発揮する。


「ん…うわ。来たかも。苦しい。」


 キューと下腹部が引っ張られるような痛みが規則的に訪れる。

20分間隔でお腹の痛みと張りが繰り返される。


 紗栄は横向きになって、ベッドの柵につかまり、痛みが過ぎるのを待った。

 さとしは立ち上がり、腰あたりをそっとさすった。


「大丈夫、大丈夫。ゆっくり呼吸して。」


 痛みがある時は呼吸が荒くなり、苦しくて、ただただ時間が過ぎるのを待った。


 陣痛の間隔が、10分になろうとしたとき、汗が吹き出し、痛みを耐えることに専念するが苦しすぎる。


「呼吸するのを忘れないで、過呼吸になるよ。吸って、吐いて~、そうそう。」


 看護師が声をかけてくれた。


 さとしはずっと横で腰をさすってくれている。額に出た汗をタオルで拭いてくれた。


 こんな大変な思いをしてるのに俺は何の力も役に立たないと悔やんだ。

 できることは汗を拭いたり、腰をさすること、そして、水分補給にペットボトルにストローをつけて渡す。


 どうして、男は出産の時、こんなにも無力なんだと痛感する。


「ごめんね、子宮の開きを見るよ。うん、そろそろ全開になりつつあるから分娩台へ行きましょう。」


 先生が陣痛室に来ると内診されて、そのまま看護師とともに分娩台へ移動することになった。

 痛みがまだまだあるのに、自分で分娩台まで移動しないといけないなんてと思いながら、紗栄は言われるがまま、移動する。


 さとしは分娩台の頭の上の方で、様子を見ていた。

 時々、持っていたタオルで汗を拭いてくれていた。


「はい、大越さん。深呼吸してね、次のタイミングでりきんでね。せーの。」


「んー、はあはあ。ちょっと、力出ない。」


「大丈夫、んじゃ、もう1回痛みがきたらまたりきんでね。旦那さんも声かけてね。」


「紗栄、深呼吸して!大丈夫。目開けて!」


 左手をしっかり握って、力を借りた。


「はい、次の痛み来るよー、せーの。」


 紗栄は力一杯振り絞ってりきんだ。それと同時に、やっと赤ちゃんが出てきてくれた。


「おぎゃ、おぎゃあ、おぎゃ。」


「元気な男の子ですよー。」


 看護師はすぐに赤ちゃんを体重計に乗せてから紗栄の胸のところに赤ちゃんを乗せた。

 大きなお腹からやっと出てきてくれた大事な赤ちゃん。

 自分の目の前にいると思うと嬉しくて仕方なく、涙が出た。


「おめでとうございます。」


 この瞬間をスマホで写真を撮られていつまでも、記憶に残る一枚となった。


 すっぴんでも、出産後の母親としての顔はとても幸せそうだった。


 カメラを向けるさとしも、涙が止まらなく感動していた。



 陸斗の笑った顔をいつまでもいつまでも見つめていたかった。



 空はお腹の中で亡くなってしまったけれど、やっとお空から帰ってきて、お腹に宿り、出産するところまで成長してくれた。


 世の中に出て荒波で生きることも大変だが、お腹の中で生き延びることも試練そのもの。


 さとしは、どんなことがあろうとも大事に育てようと心に決めた。


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