第49話
外でスズメが鳴いている。
今日も朝が来た。
とても具合悪い朝をまた迎えている。
いつまでこの体と戦わないといけないのか。
つわりっていつまで続くのか。
1度経験しているけども、
具合悪いのは嫌なのは嫌だ。
逃げ出せるのなら逃げ出したい気分だ。
ベッドの上で、天井を見上げ、
横には洗面器とビニール袋。
時々、水分補給にとペットボトルのお茶を置いておいた。昨日の夜に用意していたが、まだ半分も残っている。
飲まないと脱水になるとわかっているが、飲んだら吐き気をもよおしそうで、少しずつチョビチョビ飲んでいた。
ペットボトルの横にはフルーツキャンディのレモン味の袋があった。
酸っぱい飴を舐めているとなぜか落ち着く。
そして、無性にファストフードのフライドポテトを食べたくなる。
他の食べ物は受け付けないのにそれだけは食べられた。
でも、今はそれはない。
ため息を大きくついた。
食べたいものを食べられない悲しさで情緒不安定になって涙出た。
さとしは昨日、東京に新幹線で裕樹と行ってしまった。クローゼットから慌ててスーツを取り出して行ったのだろう、乱雑に服が出ていた。
おもむろに丁寧にそれを戻した。
誰もいない部屋。
気持ち悪さが残るムカムカさ。
何も食べないのはよくないと紗栄は1階に階段をおりていく。
人の気配を感じた。
確か、今日はディナー営業で誰もいないはず、泥棒かなと恐怖を感じながら、静かにおりた。
ガサゴソと音がする。
怖くなって、近くにあったホウキを持って目をつぶって立ち向かっていく。
パジャマの姿で無防備の状態だが、武器は持参でキッチンに立ち向かう。
「さ、紗栄さん!! 俺です。遼平です!! 落ち着いて!!」
「わー!」
遼平は両手でホウキをおさえた。
怖いのか、ホウキでバシバシと目をつぶってたたいた。
「紗栄さん!!」
遼平は、バシバシたたくホウキをバシッと手で叩き飛ばした。
「あ、え?ハハハ…。ごめんなさい。泥棒かと思って…。」
我に返り、遼平だと分かり安心した。
「だって、コックコート着てないから知らない人かと思って…仕事だと思わないじゃない。え?待って本当泥棒してたの?」
「そんな訳ないでしょう。コックコート着て外歩けないじゃないですか。さとしさんがいないから、全部俺がしないといけないんで、早めに出勤してたんです。これから大学も行くし、帰りに食材の買い物してこようと思ってたんですよ。」
「え、それ、早く言ってほしい!」
「え、さとしさんに許可取ってましたよ。紗栄さん聞いてないんですか? 嘘でしょう。」
「うん。聞いてない。ずっと寝てたから。話もしてないもん。東京行っちゃったし。起こしてくれなかった…。」
遼平は、初めてのパジャマ姿にちょっとドキドキしながら、話を聞いてあげた。
紗栄は、ハッとパジャマだったことを思い出し、扉に体を隠して話を続ける。
「紗栄さん、カレンダーに書いてますよ。ほら、俺の名前、あるし。『遼平の買い出しあり』って、時間は書いてないけど…。いつもだと八百屋さんの配達とか外注に頼んでるんですよね。でもそれって1週間前に頼まないと届けてくれないじゃないですか。後輩バイトの指導で発注するのすっかり忘れてたんですよ。それ、さとしさんに2日前に相談したら足りない分は、当日に買い出し行ってこいって言われてて…全部聞いてないんですか。」
「こっち見ないでね。そう、何も聞いてないの。ずっと寝てたから。」
「…さっきから寝てたからって紗栄さん、何?サボっているんですか。仕事のことも考えてくださいよ。こっちは忙しいんですよ?」
「うん。でも、具合悪いから。休んでていいよってさとしに言われてて…。ごめんなさい。」
そう言うと、また気持ち悪いのが上がってきて、トイレに駆け込んだ。
よだれがダラダラと垂れる。吐き気をもよおすが、何も出てこない。気持ち悪さが抜けきらない。
「…紗栄さん?具合悪かったんですか? さとしさんから何も聞いてないから、冗談なのか、サボっているとか言ってたんですよ。俺たちに。なんでそんな嘘つくのかなぁ。」
さとしは、遼平に妊娠しているとか言うのが悔しくてあえて言わなかった。
あえて、嫌われるようなことを仕向けていた。
遼平に紗栄を心配させたくなかったかもしれない。
紗栄はトイレの中でそれを聞いて、イライラが募る。
オエオエ言いながら。
遼平が近くに寄ってきた。
ドアにノックをする。
「紗栄さん、大丈夫ですか?」
「うん。だ、大丈夫じゃない~。無理。」
崩れるようにトイレのドアを開けて倒れた。
「うわぁ~、パジャマ見ちゃダメ! ぅううー気持ち悪い。」
「いや、もう、パジャマどころじゃないでしょう。」
かがんで、様子を見る遼平。
紗栄は床にうつ伏せ寝をしながら、
口をおさえる。
「ほら、袋に。どうぞ。」
また、よだれが出てくる。
ただの袋が救世主に思えてくる。
「全く、世話の焼ける人だ…。」
ブツブツ文句を言いながら、お姫様抱っこされた。
「ぎゃー。」
高いところにあげられて、そのまま2階ベッドまで運ばれた。
遼平は、おばあちゃんの介護だと思っていた。
「具合悪いならしっかり寝てください!」
「う、う。はい。わかりました。」
ふとんをかけられて、両手でふとんをつかみ、顔を隠した。
「食事全然取れてないんじゃないですか?体軽いっすよ。」
「ちょっと体重検査みたいにしないでよ!今は食欲ないからいいの。」
「なんで具合悪いかは聞かないですけど、食べないのは体に毒っすよ。ちょっと待っててください。」
遼平は1階に駆け降りて、紗栄のためにご飯の準備をしに行った。
食器棚の中に1人用土鍋があったのを見つけ、シンプルな梅干し入りのお粥を用意した。
トレイに乗せて、紗栄のいるベッドの横にそっと置いた。
「ここに置いておきますよ! あ、時間がヤバい。1限目に遅れる。紗栄さん、これ食べて元気出してくださいね。今日は大学行くんで、時間なので失礼します!」
「あ、ありがとう。」
ドタドタと階段を駆け降りて、ドアの鍵が閉まる音がした。
それと同時にバイクのエンジンがかかる。
窓を閉めていても、バイクの吹かす音が聞こえてくる。
2段階で変わるバイクの音が音楽のように聞こえて、だんだんと遠くに走り去っていく。
普段聞こえる暴走するバイクはうるさくて聞きたくなかったが、遼平の乗るバイクの音は、何故か消えてなくなるのが寂しくなった。
さとしは来週まで仕事で帰れない。
具合悪いのに仕事の邪魔をしてはいけない。助けてと素直に言えない。我慢して耐えた。
枕を涙で濡らす時間が増えた。
ーーー
夕陽が照らし出す頃、遼平が鍵をガチャと開けて帰ってきた。
バイクなのに、買い出しの荷物をぶら下げて来たらしい。
ビニール袋のガサガサする音が響く。
紗栄は、遼平が来たと思って、下に降りようとした。
階段で力尽きて、その場に座り込む。
物音に気づいた遼平はこちらを見ていた。
「紗栄さん?! 具合悪いなら寝てて良いんですよ? さっき、さとしさんに電話しておきましたから。1本仕事減らして帰ってくるって言ってましたよ。えっと、確か、#明々後日__しあさって__#って結局、1日早まっただけ…。」
遼平は、カレンダーを指差して確認すると、1週間後が6日後になっただけだった。
今日は3日目であと3日もある。
それを聞いて嬉しい反面、耐えきれないと気持ちが落ちた。
遼平が紗栄の様子を見に2階に登ると顔が赤くなっていて、発熱しているようだった。
これは大変だととりあえず、休憩室に紗栄を運んで、許可を得るためにさとしに電話した。
作業中のためか、全然電話に出ない。
「店長、早く出ろ~。」
念を押すように、コールしている電話に話しかけた。10コールした頃。
『はい。もしもし?』
「さとしさん! 今、紗栄さんが具合悪いって1階に降りてきたんですけど、めっちゃ、高熱出てるんですが、どうしますか?病院ってどこ連れてけばいいんですか?」
『え? マジか。高熱? うーん、とりあえず、産婦人科電話してみてくれない? 今ラインで番号送るから。前もって電話すれば診察してくれるところだから。悪いけど、頼んでいい? 車の免許持ってんだろ? 車使っていいから。紗栄から車の鍵聞いといて! 俺これから、雑誌の取材だから。あと、お店今からだと開店させられないだろうから臨時休業でいいぞ。バイトの2人にも言っといて、ごめん、切るぞ。』
さとしは、有無を言わせず、淡々と用件を言う。
返事を聞くことなく、電話は通話終了してしまった。
遼平は言われたことをメモして、的確に行動した。
これはもはや、仕事ではなく、ボランティアだ。
「紗栄さん、その具合悪いのってもしかして…。」
休憩室に横になっていた紗栄に遼平は何かを言いかけた。
「ん?」
具合悪そうな顔を遼平に向ける。
「いや、あの…何でもないです。とりあえず、産婦人科の方に電話しておきますね。発熱って言っても37.2で微熱ですね。まあ、食欲もないわけですし、病院に行く意味はありますね。」
遼平は、非接触型の体温計を紗栄の額に当てた。
体調のようすを事細かにチェックしてクリニックに電話した。
すぐに来てくださいとのことだった。
遼平は、必要な荷物を紗栄の指示に従って用意してくれた。
車の鍵を手渡され、エンジンをかけた。
助手席のシートを横になれるよう、倒しておき、荷物を後部座席に置いた。
ドリンクホルダーには、ペットボトルのお茶を用意しておき、万が一、吐きたくなっても良いようにビニール袋を近くに置いた。
比べてはいけないんだろうけど、さとしはそこまでしてくれない。
遼平は高校生の時に祖母の介護を手伝ったことがあるらしく、いろんなことに気がつく人だった。
ふとした優しさに心揺れ動く紗栄だった。
産婦人科のクリニックについてすぐ、看護師の佐藤が対応してくれた。前にもお世話になった人だった。
「大越さん、今の調子どうですか? 食事取れてないって旦那さんからの電話で聞いてましたけど…。」
「気持ち悪くて、何も食べたくないんです。それでもよだれが出て飲み物も飲みづらくて…。」
「そうだね。辛いよね。こっちの処置室で待っててね。順番で診察呼ばれるから。あ、旦那さんも一緒に待ってて良いですよー。」
看護師の佐藤は、遼平とさとしと勘違いしてるらしく、言い訳するのも仕事に支障きたすだろうと、2人はあえて黙って応対した。
小声で
「ごめん。中まで付き合わせて…時間大丈夫?」
「大丈夫っすよ。今日、お店臨時休業で良いってさとしさんから、言われてたんで…どっちにしろ、車で送迎しなきゃいけないんで、待ってますから。俺のバイクも向こうにあるんで…。あ、でも、バイトの2人に今日休みのこと伝えてなかったんで、電話してきます。」
遼平は、クリニックのラウンジに移動し、スマホでバイトの2人に電話した。
そのついでに、遼平はくるみにも電話をしておいた。バイト終わりに会う約束していたが、大幅に遅れることを予想して、別な日に約束し直すことをラインした。
バイトじゃない許容範囲を超えたことを、してるのを自覚していたが、紗栄といることを悟られたくなくて、バイトで遅くなると嘘をついた。
なんだか悪いことをしている気がして気が気ではなかったが、ボランティアだと言い聞かせた。
電話を終えて、遼平が戻ってきた。
処置室のベッドで座っていた紗栄が話し出す。
「さっき、先生と話したんだけど、これから2時間くらい点滴していってくださいって言われたの。すごい待たせちゃうから先帰っていいよ。タクシーで帰るから。」
「点滴なんですね。」
遼平は、スマホを時計を確認すると、17:06と示してあった。頭の中で2時間後を計算すると、19時過ぎ頃終わる見込みだなと考えた。一人暮らしで、くるみとの予定もキャンセルしたし、バイトも臨時休業で、特に何も予定は入ってないことを再確認して、ベッドの隣にあったパイプ椅子の下に荷物を置いて、そっと座った。
「大丈夫ですよ。終わるまで、待ってますから。タクシー代、勿体無いし、知らないおじさんに乗せられるよりいいじゃないですか? さとしさんの影武者なんで、最後まで演じないと…。」
遼平はバックから大学の課題を取り出して、レポートを書き始めた。
「今日のレポート書き忘れてて…。ちょっとやってしまおうかな。」
勉強の姿を見ると一気に年齢を感じてしまう。さとしを演じると言っておきながら勉強する姿に笑いが止まらない。
「遼平くん。テーブル使って良いよ?」
「あ、すいません。結局、さとしさんの真似は出来てませんけどね。こうやって勉強しませんよね。」
ベッドに備えてあったテーブルを広げた。隅の方を使って、レポートを書き始める。文章がスラスラと出て、丁寧に書いていた。字が綺麗だった。
「そうだね。勉強はしないけど、スタッフの名札とか、マニュアルとか、メニュー表とか、看板とか細かいところは誰かに頼まないで自分で作るの好きみたい。自分でしなくて良いところをしちゃうのは…遼平くん、さとしに似てるね、本当。真面目なところかな?」
「真面目ですかね…。不真面目な部分、結構あるんですけどねぇ。」
話しながらも、レポートをほぼ書き終えている。
課題をするのも早かった。
紗栄は話しながら、点滴が体全体に行き渡り、気持ちが落ち着いたのか、不意に眠りに落ちた。
遼平は、シャープペンと消しゴムを筆入れに入れて、チャックを閉めた。広げたノートや紙をバックに入れてパイプ椅子に座り直し、スマホのラインをチェックすると、くるみからラインが来ていた。
『いつもバイトお疲れさま。今日は仕方ないよ。来週水曜日なら都合がつくよ。バイト終わりに仙台駅で待ち合わせしよう。久しぶりにカラオケに行きたいな。』
同じ大学の授業中に出会った森野くるみ。
遼平にとって、何でも話せて気を許せる女子だった。
さとしと紗栄のこともあり、バイト先の所在地は教えられなかったが、休みが合えばよく会っていた。
くるみもアイスクリーム屋でバイトしている。
どこの場所かは把握していない。
お互いに干渉せず、ちょうど良い距離感で交際していた。
『んじゃ、来週、仙台駅ステンドグラス前で19:30 待ち合わせでカラオケ行こう。』
遼平は、たのしみスタンプを送ってラインを終えた。
外来診察を終えて、受付事務員や看護師数人が廊下を歩いて帰っていく。
病室の外の音がこちらまで聞こえてきた。
引き継ぎは入院病棟の看護師にしました看護師の佐藤から聞いた。
引き継がれた看護師の伊藤は、点滴の袋を見て、あと、1時間くらいですと言われ、終わり次第、ナースコールを押してくださいとのことだった。
遼平は軽くお辞儀をして、また椅子に座った。
紗栄は、気持ちよさそうにすやすやと眠っている。
落ち着いてる姿を見て、安心した。
読み途中だった小さな本をバックから取り出し、しおりから読み始めた。寝てしまわないように、本に熱中した。
あくびが時々出たが、首を振って起きていようと集中させた。
病室は静かにゆっくりとした時間が流れていた。
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