中編

 フィッシェルが婚約破棄をされた数日後の休日、彼女はマリーの家に馬車で向かっていた。

 二人ともお互いの家を頻繁に訪れながらお茶をしたり、本を読んだりと親交を深めており、今日は久々のマリーの家でのアフタヌーンティーの予定となっていた。


(マリーの家も少し久しぶりかしら)


 馬車を降りてマリーの両親に挨拶を済ませると、いつも二人がアフタヌーンティーをする室内の植物園へと向かった。

 すると、お茶をするテーブルの近くに誰か背の高い男性が立っており、緑の葉を撫でて何か真剣な眼差しで見つめている。

 その男性はブロンドのさらっとした髪で太陽の光を受けて綺麗に輝いており、前髪は目にかかるほど長い。

 フィッシェルはその人物をよく知っており、声をかけようとした……が、彼のほうが先に鋭い声色で話しかけてくる。


「動かないで」

「……え?」


 ゆっくりとその人物はフィッシェルに近づいていき、彼女の顔に自らの顔を近づけると二人の距離は吐息がかかるほどに近くなる。


「──っ!!」


 フィッシェルは思わずその端正な顔立ちの彼との接近に耐えられず、顔を真っ赤にして目をつぶる。

 すると、彼はフィッシェルの肩に乗っていた小さくも禍々しい黒い影を振り払う。

 振り払われた黒い影は彼の魔法によって氷漬けにされ、そして一気に力を加えられて粉々に砕け散った。


「フィッシェル、目を開けてごらん。大丈夫だよ」

「──レイ様?」

「君の肩に何か強い魔力の呪いがかけられていた。もう払ったから大丈夫」

「どうして?」

「マリーから何か良くないものがついてるけど、自分の力じゃ払えないから手を貸してほしいって言われてたんだ」

「そうだったのですね、本当にありがとうございます」


 フィッシェルは深々とレイにお辞儀をすると、彼はふっと笑顔になって彼女の頭を優しく撫でる。

 彼──レイ・ヴェルンは次期公爵であり、そしてマリーの8歳年上の兄であった。

 よくこのヴェルン家に来ているフィッシェルともよく知った仲である。

 妹のマリーと同じ碧眼は美しく、さらに彼は魔力が国一番と言われるほど強い。

 そんな彼についた名は『氷の魔術師』──


 自分とは爵位も魔力も比べ物にならないほど上である彼に、幼い頃から純粋な憧れと尊敬の念を抱いていたフィッシェルは、彼との久々の再会を喜ぶ。


「そういえば、マリーはどちらに?」

「マリーなら少し街に買い物に出るって言ってたけど、そういえば遅いな」


 窓の外の方を眺めながら帰りが遅いマリーを心配するレイの耳には、シルバーのシンプルなピアスが光っている。

 彼の強い魔力を浴びてしまうと、一般人や低い魔力を保持している人間には刺激が強くて彼の魔力に『魅了』されてしまう。

 魅了されると、自我を失ったり、意識を失ってしまう。

 昔一度、レイの魔力にあてられた令嬢が倒れて大騒ぎになったことをきっかけに、彼は自分の強すぎる魔力を封じ込めるために制御ピアスをするようになった。


「まあ、じきに戻ってくるだろうし、よかったら僕とお茶でもして待たない?」

「いいんですか?」

「ああ、今日は仕事も休みだし暇してたんだ。なにより、フィッシェルと久々に会えたことが嬉しくて、もっと話したいな」

「そんなこと言ったら、女の子なんてすぐに勘違いしちゃいますよ」

「勘違いしてもらっていいよ」

「……え?」


 思わぬ返しにフィッシェルは顔をあげて彼の綺麗な瞳を見つめる。

 冗談かと思っていたのだが、存外彼の目は真剣でそしてそんな瞳に吸い込まれそうになる。


(そんなこと言われたら、ドキドキする……)


 そう思っていたフィッシェルの身体はふいにレイに引き寄せられる。

 ぐいっと身体と身体が近づき、そして彼の細く角ばった手がゆっくりとフィッシェルの唇のすぐ横を撫でる。


「婚約破棄されたって聞いて驚いた。君はもう彼の元にいってしまうって思ってたから」


 フィッシェルは教室の薄暗い中で突然恋人に別れを告げられたことを思い出して、表情を曇らせる。

 それに気づいたレイは彼女の頬を優しくなでて、そして慈愛の瞳で見つめながら言う。


「ごめん、思い出させるつもりで言ったわけじゃなかったんだ。今言うのは不謹慎かもしれない。でも言わせてほしい」


 レイは覚悟を決めたようにフィッシェルの目を見つめると、形のいい唇が言葉を紡いだ。


「好き」

「……え?」

「僕はずっとフィッシェルが好きだったんだ。だから、僕の婚約者になってほしい」


 突然の愛の告白に思わず固まってしまって声が出ないフィッシェル。

 数秒の沈黙が流れた後で、彼女はあたふたとして取り乱した。


「え? その、え? レイ様が、その、え? 私を、好き?」

「うん」


 信じられないほどの衝撃にフィッシェルは頭がくらくらしてきて、そして頭の中が真っ白になる。

 どうしていいかわからないまま、手があたふたと宙を何度も行き来し、そして目がきょろきょろとして視点が定まらず、目の前にいる彼と目が合っては恥ずかしさで逸らしてしまう。


(レイ様が、私を好き?)


 あまりにも自分の中で信じられない言葉だったため、何度も口に出したり、心の中で呟いたりを繰り返す。


「君のことが好きだったんだ、幼い頃からマリーと一緒に遊ぶ君をずっと見つめてた。でも、君が14歳のときに君の婚約が決まってからは自分の気持ちを抑えようと会うことを減らした」


(もしかして、高等部にあがる少し前からレイ様と会わなくなったのって、お仕事が忙しかったんじゃなくて、それで……?)


 レイはもう一度頭をなでると、フィッシェルの目線に合わせるように少し屈んで微笑んだ。


「無理に今返事はしなくていい、ただ、これからは遠慮なく君を落としにいくから覚悟してて?」

「──っ!!!」


 ぽわっと顔が赤くなるのが自分でもわかり、恥ずかしくなって顔を隠そうと手で顔を覆うフィッシェルだが、その手を掴まれてリンゴのように赤い顔が露わになる。


「その反応ってことは、少しは期待して良いのかな?」


 少し意地悪そうに口角を上げて笑うレイに、益々フィッシェルはドキリとする。


(こんなにドキドキしたのなんて、ハエル様でもなかったのに……!)


 自分自身の想いと鼓動に戸惑いながら、彼の瞳から目を離せずにいると、何かぞくりと嫌な予感がしてフィッシェルは身体をビクリと跳ねさせる。

 その瞬間にレイも険しい表情を浮かべ、窓の外に二人揃って視線を向けた。


 すると、窓から見える近くの森のほうからバタバタと凄い勢いで鳥たちが羽ばたいていき、そして禍々しい気配が森を覆う。


 咄嗟にフィッシェルは自分の意識より先に、魔物が”そこ”にいると感じ取った。

 レイに視線を向けると、彼もすでにそれを感じ取っており、二人は急いでその森の方へ向かう──



 森のすぐ入口では馬車が魔物に襲われており、横転して動けなくなっていた。

 御者はもう遠目から見ても息絶えていることがわかる様子で、そして魔物はすでに馬車の中にいた人物をも手にかけていた。


「マリーっ!!」


 レイはその馬車が自車であること、そしてそれは今朝妹が乗っていっていた馬車であることを理解して妹の名を叫ぶ。

 フィッシェルもその言葉に反応して馬車の中にいるマリーを助け出そうとするが、恐怖で足がすくんで動かない。


 そして、最悪の事態は突如として訪れた。


 馬車の中から血が溢れてきたと思ったら、だらりと少女の手が馬車から出ている。

 よく見ると、その手首にはフィッシェルがマリーの誕生日に彼女にプレゼントをしたブレスレットがある。


「──っ!!!!」


 マリーの命が失われたことを悟ると、レイは怒りで理性を失い、そして左手で自身の制御ピアスを外した。

 ピアスはカランと地面に落ちて、そして魔物へと近づいていくレイの靴で踏みつけられて粉々になる。


「レイ様っ!!」


 フィッシェルは彼を必死に止めようとするも、彼の氷の魔力が強すぎる影響で近づけない。


(マリーっ!! それにレイ様がっ!! どうしたら……)


 そんなことを考えているうちにフィッシェルの目の前にいた人物は手を顔の前に翳した後、そのまま魔物へと指先を向ける。

 すると、彼のまわりに無数の氷柱があらわれ、そしてそれらが魔物へと一直線に飛んでいく。


 ああ、魔物は死んだ。

 そう、フィッシェルは瞬時に頭の中で理解するほどに力は歴然で、そして一瞬のうちに決着はついて魔物の姿はそこになかった。


 ただそこには、彼が愛する妹の亡骸が残っていた──




◇◆◇




「フィッシェル、パンを持ってきたよ。食べないのかい?」

「…………」

「フィッシェルの好きなレーズンパンだよ。これ以上食べないと、死んでしまうよ?」


 彼はゆっくりとした動作と虚ろな目でフィッシェルにパンをちぎって差し出す。

 ──そのパンの渡し先は、鎖でベッドに繋がれたフィッシェル。


 仄暗い明かりが灯る部屋は、一級品のシーツに枕の備えられたベッド、高級な木を使ったサイドテーブルに少し離れたところに椅子がある部屋。

 部屋は広いのにどこか寂しいこの部屋でフィッシェルは、彼の手によって軟禁されていた。


「フィッシェル──僕の可愛い子、愛する子、誰にも触れさせない。誰の視線にも入れさせない。僕だけのもの」

「レイ様……ここから出して……」

「ダメだよ、ここから出たら魔物はおろか、野蛮な男どもに目をつけられるじゃないか。そんなの僕は許せない。僕だけのフィッシェル、ただ一人君だけがいればそれでいい」


 フィッシェルは何日も食事が喉を通らず、そして段々思考能力が低下してきていた。


(レイ様……目を覚まして……)


 彼女には祈ることしかできない。

 マリーの死を目の前に何もできなかった自分を責め、そして愛する者を閉じ込めることで安息を得ている彼の目が覚めることを──


 レイは鎖で繋がれたままのフィッシェルを後ろから抱きしめ、自分自身で着せたドレスの裾を撫でながら彼女の耳元で呟く。


「永遠に君は僕のもの。誰にも渡さないし、決して失わない。僕だけが君を愛する。それでいいよね?」

「レイ様……」


 彼は後ろからフィッシェルの頬に手を当てて、首筋につーっと指を滑らせると唇をそこにつける。

 彼女はもう自分で逃れる気力も、毎日行われるその歪んだ愛情の仕草を拒否することも、できなかった。


「僕の可愛いフィッシェル……」


(彼を好きなのに、彼とこのまま堕ちていくしかないの──?)


 マリーの影を追いながら失うことへの恐怖で歪む、彼の愛を受けながら、とフィッシェルはふと目を閉じた──

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