emergency

@chinzou

1話

まるでナイトスコープを覗いているかのような、視界の狭い、緑一色の映像が映し出されている……。


壁際に飾り気のないパイプベッドと、背もたれのない丸い椅子が見える。どこかの部屋を映し出しているのは間違いがないと思うが、過去に訪れた覚えはない。


部屋の中に人影はなく、ただ静まり返っている。見える範囲で部屋の細部をくまなく観察するも、見覚えがある物は何一つない。その動作と同時に、体に感じていた違和感についても自然と考えをめぐらせていたのだが、どうやらそれは呼吸にあるのだと気づく。ここは酸素が薄いのか、目一杯息を吸い込んでも満たされる気がしない。


息苦しい……。


臭覚に気をやると、煙草のフィルターが燃えたときのような、きな臭い匂いが漂ってくる。かすかだが、電波の悪いラジオを聴いているかのような「ジジ……ジジジジ……」という音が聞こえる。恐怖感こそないが、空漠たる不安に胸が締め付けられる。辺りを探索してみようと体を動かそうとしてみるが、体を縛り付けられているかのように、その場から動くことはできず、僕はただ、その映像を見ているしかなかった……。



この映像を見始めてから三十分、いや一時間も経過しただろうか。変化のない映像にいい加減嫌気がさしてきたその時、古く寂れたドアが開くときのような、耳につく軋んだ音が聞こえ、ほぼそれと同時に人の気配を感じる。すると突然、七、八歳くらいの少女の姿が視界に飛び込んでくる。少女は何をするというわけでもなく、まっすぐベッドに向かって歩いて行く。後ろ姿しか確認できていないが、髪の長い細身の少女だ。

少女は僕に気づく素振りもなくベッドに上がったかと思うと、こちらに背を向けたまま、両手で膝を抱えるようにしてその細い身を横たえた……。

突如現れた少女に気が動転し、しばらくの間僕は無心のままベッドに視線が釘付けになっていた。その間少女は時折体を動かしてはいたが、今はほとんど身動きを取らない。きっと眠ってしまったのだろう。相変わらず顔は向こうを向いたままで、少女の顔を窺うことはできない。せめてここがどこなのかということだけでも聞いておきたかったが、静かに眠っている様子の少女に声をかけるのは気が引ける。どうやら僕は何も知り得ないまま、少女が目を覚ますのを待たなければならないようだ。だが少女の出現により、空虚な孤独感からは開放され、心持ちもいささか平穏を取り戻してきた。とはいえ、静かに眠る少女を前に、いつまでもこの安堵感にくつろいでいる場合ではない。少女にとっては見知らぬ男に見られているというこの現状は、どう考えても不自然なわけで、少女が僕の存在に気づけば、驚くのは目に見えている。

少女が僕の存在に気づいたとき、驚きのあまり大声で叫んだりはしないだろうか。そしてその声を聞いた両親がこの部屋に飛び込んで来るのでは?そうなると警察を呼ぶに決まっている。体が動かず、逃げることができない僕はどうなってしまうのだろう。警察に捕まった場合、この状況をどう説明すればいいのだろうか。

想像が悪い方へと膨らんでいく……。

まずは少女が起きて自分に気付いた時、少女を驚かさないように話しかけることが先決であろう。眠っているのは間違いないので「おはよう」と声をかけるのがいいだろうか。子供だからといって、初対面なのに「おはよう」と言うのは軽すぎやしないか?とりあえず様子を伺って、少女が口を開くのを待つべきか。いや、話をする前に微笑んで見せるのがいいかもしれない。でも、いきなり笑いかけるのは不自然か。

千思万考するも、最良と思える手段が浮かばない……。


とにかく、自分の意思でここにいるのではないということを少女に伝えなければ、とんだ誤解をまねいてしまう。僕は無我夢中で我が身に降りかかるだろう危機への打開策を考えていた。すると思案も早々に、ずっと向こうを向いていた少女が突然寝返りを打つ。我を忘れ沈潜していた僕は、たじろぎながらも咄嗟に少女の顔を確認しようと目を凝らす。だがその瞬間、映像は瞬く間に消えさり、眩い光とともに辺りは一変した。



寝室の電気がいつもと変わりなく、辺りを照らしている……。



蛍光灯の光に目が慣れないまま枕元の時計を見ると、時計の針は午前五時を指している。どうやら夕食を終えた後、寝室のベッドで少し横になるつもりが、そのまま眠ってしまったらしい。ワイシャツ姿のまま何も被らずに寝ていたせいか、体は冷え切っていた。季節はもう春なのだが、朝方はまだ冷えるようだ。

とりあえず皺くちゃになったスラックスとワイシャツを脱ぎ、厚手のスウェットに着替えたが、寒さに耐え切れず急いでベッドにもぐり込み、体を丸める。震えながら布団の中で体を動かしていると、徐々に体が温まってくる。それとともに眠気が襲ってきて、眠気が再び意識を奪おうとする。七時には起きて会社に行かなければならないので、このまま起きていようかとも思ったが、どうやらこの眠気に支配されるしかないようだ。僕は枕元の目覚まし時計のアラームが定刻通りセットされてことを確認し、部屋の電気も消さずに再び眠りについた。



午前七時、目覚まし時計のアラーム音で目が覚める。どちらかといえば寝起きはいいほうなのだが、二度寝したせいなのか瞼が重い。ベッドから出ずに目を閉じていると、またすぐに眠ってしまいそうになる。

「若い頃は二度寝しても睡眠時間が少なくても、会社がある日はしっかり起きられたのに……」

そう思うと、なんだか三十路半ばに足を踏み入れた自分に腹が立ってくる。

「会社に行ってさえしまえば、眠気なんてなんとかなるもんだ」

僕は自分にそう言い聞かせ、眠気を一掃するべく勢いよくベッドから飛び起きた。


食パンと牛乳だけの粗末な朝食を終え、ワイシャツに着替えネクタイを締めていると、にわかに電話が鳴り出す。朝の忙しい時間に電話が掛かってくるのは迷惑なことだが、この電話はそうではない。僕は逸る気持ちを押さえ切れずに、ネクタイの結び目も中途半端なまま急いで電話に出る。

「おはようパパ。明日はどこに行くの?」

聞き慣れた愛らしい女の子の声。朝の電話は娘の柊奈のものと決まっている。いきなり質問をぶつけてくるのが、いかにも子供らしくて可愛い。

「おはよう柊奈。今日も元気だなあ」

「パパは元気じゃないの?」

「いいや、元気だよ。だけどちょっと眠いかな」

「お仕事たいへん?」

「仕事がたいへんで眠いわけじゃないから、心配しなくてもいいよ。そんなことより柊奈、明日はパパと何して遊ぼうか?どこか行きたいところはないのかい?」

「うんと、明日はねえ……」

柊奈はそう言ったきり黙り込んでしまう。

「柊奈の行きたいところでいいんだよ。言ってごらん」

助け舟を出しても声が聞こえない。ちょっと間が空いたので

「柊奈?」

と呼びかけてみると

「何?」

と即答で返ってくる。無言になるくらい考え込んでいたようだ。明日どこに行くかということは、柊奈にとってとても重要な問題らしい。このままずっと答えを待っていてあげたいのだが、会社に行かなければならない時間が迫っている。

「そろそろパパは会社に行く時間なんだ。学校に行って、今日の夜までに考えてみたらいいんじゃないか?」

「えー、学校で?うーん……」

柊奈は「今決めたいのに」と言わんばかりに、戸惑い混じりの声で答える。電話でなければ抱き上げて機嫌をとりたいところだ。

「せっかくパパと会うんだし、よく考えて決めたほうがいいと思うぞ」

そう諭すことしかできないのがちょっとやり切れない。

「うん、分かった。じゃあ学校で考えてみる。また夜電話するね」

「ああ。柊奈からの電話、待ってるよ。だけど学校で考えるといっても、勉強の時間に考えちゃダメだぞ。ぼーっとしていたら先生に怒られちゃうからな」

「うん、分かった。じゃあパパ行ってらっしゃい。バイバーイ」

柊奈はそう言うなりすぐに電話を切ってしまった。思い付くとすぐに行動したがる柊奈のことだから、少しでも早く学校に行って考えようと思ったのだろう。急いで身支度をしている柊奈の姿が目に浮かんで、つい顔がほころんでしまう。さっきまではまだ眠いような気がして、朝の支度もなんとんなくだらだらとしていたのだが、娘の声を聞いただけで「今日も一日頑張ろう」という意欲が湧いてくる。柊奈からの朝の電話は、どんなに値段の高い栄養剤よりも効果覿面だ。


柊奈との電話が終わったのでリビングを離れ、中途半端にしていたネクタイを締め直そうと鏡のある部屋へと向かうが、また電話が鳴り出す。「柊奈が何か言い忘れたのかな」と思い電話に出てみると、今度は妻の麻美子からだった。

「おはよう恭ちゃん。さっき電話に出たかったんだけど、柊奈がすぐに切っちゃうんだもの」

麻美子が出た瞬間、すぐにそんなことだろうと察しがついた。

「それに電話を切るなり今すぐ学校に行くってきかないのよ。まだ家を出る時間じゃないのに。恭ちゃん、柊奈に何か言ったの?」

「ちょっと学校に行きたくなるおまじないをしただけだよ」

僕はとぼけて答える。

「おまじない?ふーん。あっ、こらっ、柊奈待ちなさい」

麻美子の声とともに何か騒いでいる柊奈の声も聞こえてくる。電話どころではないようだ。とりあえず時間もないので

「もう仕事に行く時間だから、何か用があるなら携帯に掛け直してもらっていいかな?」

と取り込み中の麻美子に電話を切るように促す。

「あっ、そうね。でも特に急ぎの話はないからいいわ。行ってら……」

声が途中で途切れ、また麻美子が何か柊奈に小言を言っている声が聞こえてくる。

「じゃあ、行ってくるよ」

取り込み中の麻美子が聞いていたかどうかはわからないが、僕は受話器を置いた。そして足早に玄関に向かい靴を履く。そしてこの瞬間、まるで繰り返すデジャヴのように考えることがある。それは今日も「柊奈に朝はもうちょっと早く電話をかけるように言ってくれないかな」と麻美子に頼むことを言い忘れたと思うことだ。麻美子と柊奈の住む仙台を離れ、群馬の高崎に単身赴任して二年になるが、柊奈と話しているとつい時間を忘れてしまい、いつも朝食の片付けをする時間がなくなるのだ。まあ、半年間言い忘れている僕も僕なのだが……。


会社へは車で三十分。カーステレオをかけてタバコを吹かしながら向かう。特にスピードを出すこともなく、二車線の道路の左車線を流れに沿って進む。今日は桜の散り様がきれいで、時間があるなら遠回りをしてしまおうかと思うくらい、天気がよくて清清しい。

なぜかよく引っかかる交差点でいつものように信号待ちをしていると、ランドセルを背負った子供たちが列を作り、すぐ前の横断歩道を歩いていく。父兄らしき女性に誘導され、楽しそうに手を上げて歩いて行く子供たちは、自分の子でなくても可愛いものだ。思わず柊奈と背格好が似ている女の子と、柊奈の姿を重ね合わせてしまう。そしてその集団が渡りきるのを待っていてくれたかのようなタイミングで信号は変わり、僕は再び会社へと車を走らせた。


僕は地域情報誌を手がける雑誌会社の編集部に勤務をしている。編集部と言えば慌しい戦場のような職場のイメージがあるけれど、僕の会社はそうでもない。忙しいのは月末の締め切り前の一週間程度で、職場の雰囲気もどこかのんびりしている。地域情報誌を扱っているせいか、地元での知名度はそれなりにある会社で、僕はここで雑誌の記事を書いている。


今日は県内情報誌五月号の特集に関する会議があり、朝礼が終わるとすぐに、編集部のメンバー五人は会議室へと向かった。

八畳程の会議室には、カタカナのコの字に並べられた三人がけの長テーブルが三つと、白いホワイトボードがある。ホワイトボードを背にして右側に編集長のザキさん、隣に僕が座り、左側の机には女性社員の香月と鳴海が座った。そして進行役の高瀬がホワイトボードに「五月号特集」と書き始める。

「みなさんおはようございます。た、ただいまより五月号の特集についての会議を始めます。昨年は……、えーっと……、ゴールデンウィーク目前、県内隠れ家的スポットでした……。で、でしたが、何か意見がある方はお願いします」

高瀬は上ずった声で言い終えると、不安げな表情で僕の顔を見る。彼は入社してまだ半年で、会議の進行役を務めるのが今日初めてだった。緊張の度合いは資料を持つ手が震えていることからもよく分かる。高瀬が僕の顔を見たのは、彼が入社して以来、仕事の面倒はほとんど僕が見ているからで「こんな感じでいいですか?」と問いかけたのだろう。そういえば先週、会議の進行の仕方について事細かに質問をされたのを思い出した。ちょっと真面目すぎるぐらいだが、高瀬は可愛い後輩だ。

「高瀬君、手が震えてるよ。リラックス、リラックス」

おしゃべりな鳴海が高瀬を野次る。

「す、すいません」

そう言いながら高瀬が頭を掻くと、会議室全体が笑いに包まれる。この和やかな雰囲気が好きだ。

「鳴海、高瀬は若くは見えるが本当はもうおじいちゃんなんだぞ。労わってあげなきゃだめじゃないか」

ザキさんの一言に皆が一斉に笑う。ザキさんは編集部のトップで、皆からの信頼も厚い。ちなみに石崎という名字からザキさんと呼ばれている。

「去年の特集ですけど、結局隠れ家イコール温泉旅館みたいになっちゃって、秋にやった県内マル特温泉宿と内容があまり変わらなかったのよね」

香月が話題を戻す。

「取材範囲の限られた地域雑誌じゃ仕方ないさ。東京のでかい雑誌だって、バックナンバーの内容とかぶることはよくあるしな」

ザキさんが腕組みをしながら話す。

「もうゴールデンウィークかあ……。私はまだ何の予定もないなあ。だけどゴールデンウィークを地元で過ごす人なんているのかしら?みんな里帰りするか県外に出ちゃうと思うし、雑誌読んでくれる人なんているんでしょうかねえ?」

鳴海が口を尖らせて話す。

「五月ってゴールデンウィークがあるけど、さほど県内のイベントも多くないのよねえ」

という香月の一言で、皆が考え込んでしまった……。

しばらく続いた沈黙を破るかのように

「過去の特集には五月の花めぐり、ゴールデンウィークは山に登ろう、などがありましたね」

と高瀬が会議の進行を促す。すぐに鳴海が

「山登りの取材だけは絶対イヤ。虫に刺されて大変だったんだからあ」

と言うと

「あら、かっこいいアメリカ人に会えたって喜んでいたのはどこの誰だっけ?」

と香月が口を出す。

「そうだっけ?もう過去のことなんて忘れちゃったしー」

鳴海が斜め上に首を傾げ、とぼけてみせる。

「誰かさんはかっこいい人を見つけると取材どころじゃないもんねえ」

香月の突っ込みに、鳴海が顔を赤らめて

「もうっ、香月ったら余計なこと言わないの」

と小声で言いながら、香月の腕を引っ張る。香月と鳴海は同期入社で、いつも仲がいい。

「ほおー。鳴海は仕事中いつもそんなことを考えているのかあ。なるほどなあ……。仕事中に男のケツを追っかけているなんてなあ」

ザキさんが鳴海をいたずらに睨む。

「えっ、えっ、ちゃんと取材してますって。そのときの私のコラム、ザキさん褒めてくれたじゃないですか」

鳴海が精一杯弁解すると

「そうだっけ?」

とザキさんが鳴海のまねをしたので、皆大笑いした。

「とりあえず鳴海の仕事ぶりは上に報告するとして、会議が始まってからずっとだんまりの袴田は何かないか?」

ザキさんが僕に話を振ってくる。

「そうですねえ。さっき鳴海が言ったように、ゴールデンウィークはほとんどの人が県外に出てしまうと思うんです。すなわちこの雑誌を読む人は出かける予定がない人が多いってことですよね」

「まあそうなるわな。それで?」

ザキさんがテーブルに両肘をついて身を乗り出し、続きを求めてくる。

「雑誌の特集に相応しいかどうかは難しいところですが、遠出せずに自宅近隣で過ごす人をターゲットにした特集はどうかなと……。そう、遠出しなくても楽しめるゴールデンウィーク、みたいな……。でもやっぱり特集には相応しくないかな」

「ほおほお、ちょっと変わっているが、面白いかもな」

ザキさんが腕組みをして言う。

「それいいかも。出かける予定のない人の応援企画ってわけね」

鳴海が話に乗ってくる。

「世の中不景気で旅行どころじゃない人もたくさんいるはずよね。出かけない人たちのために、少しでも暇つぶしのお手伝いができれば、特集としても意味があるんじゃないかしら」

香月は納得している表情で僕を見る。

「んん、今回はこれでいってみるか」

ザキさんがパンと手を叩く。

「早速担当を決めるぞ。そ、れ、じゃ、あっと……。んー、よしっ。香月はゴールデンウィーク公開の映画とか、公演予定の舞台とかをくまなく拾い出すのと、来月発売の本とかグッズとか、県内のショップで手に入りそうなものを洗い出してくれ。鳴海は少ないかもしれないが、デパートなんかで行われるイベントをピックアップするのと、女の一人遊びの見出しでコラム2本な。そうだなあ、飲食店も何件か取材しとくか。高瀬は男の一人遊びのコラムを書いてみろ。しっかりな。それと袴田はいつも通りサポートを頼むわ。とにかく今回の特集のコンセプトは遠出しなくても楽しめるゴールデンウィークだ。家族やカップルはもちろんのこと、一人でも楽しめそうなスポットもどんどん取材してくれよ」

ザキさんの言葉で編集部全体に活気がみなぎる。その傍らで必死になってボードに書き込んでいた高瀬が

「すいません、ザキさん。早くて書ききれません」

と情けない声で言う。とても読めないボードの文字を見て、またまた皆で大笑いした。そして会議はさらに細かい内容を詰めるべく、和やかな雰囲気の中続いていった。



昼食をはさみ、会議室から出てきたのは午後三時を回っていた。僕はデスクに腰をかけてコーヒーをすすり、あくびをしながら両手をおもいっきり上げて伸びをする。すると左脇のほうから何やら視線を感じる。見ると隣のデスクの高瀬が何か言いたそうにこっちを見ていた。話しかけるタイミングを待っていたのは、僕に気を使ってのことだろう。

「今日は初司会ご苦労さん。緊張していたわりにはうまく出来ていたと思うよ」

僕から高瀬に話しかける。

「本当ですか? ありがとうございます!大丈夫だったかなって、ずっと気になっていたんですよ」

 高瀬はやっと肩の荷が下りたかのように、安堵の表情を浮かべる。

「本当に良くできていたよ。強いてダメ出しをするとしたら、もうちょっとリラックスしてできたら良かったかな。会社に入って半年になるんだし、そろそろ仕事に自信を持ってもいいと思うよ」

「とんでもないです。毎月二百ページの中から僕の担当はたったの十数ページ。自分がもっと仕事ができれば、みんなの負担も軽くなるのは分かっているんです。なんだか自分が足手まといのようで……」

「何を言っているんだよ。おまえのことを足手まといなんて思っている奴なんて、誰一人いやしないよ」

「袴田さん、それって本心で言ってます?」

難しい顔をしている高瀬に対し、僕はうなずいてサムアップのサインを出す。

「嬉しいです。仕事は楽しいし、編集部の人はみんな優しいし、この会社に入って本当によかったです。ありがとうございます」

高瀬はそう言うやいなや、やる気満々の形相でパソコンに向かう。誰から聞いた話か忘れたが、高瀬は一流大学を出て東京の大手建設会社の経理部に就職し、一年で会社を辞め、地元高崎に帰ってきたらしい。何があったのか詳しくは聞いていないが、こんなに真面目で一生懸命な人間が辞めるくらいだ、よっぽどのことがあったに違いない。僕はパソコンに熱心に向かう高瀬の姿を見ながら「この会社に入って本当によかったです」という高瀬の言ったフレーズを、頭の中で何度も繰り返していた……。



仕事を終えアパートに戻り、真っ先に冷蔵庫に向かいビールを取り出す。一緒に取り出したサラミを一切れ口に入れ、勢いよくぐいっとやると、キレのいい冷やりとした爽快感が五臓六腑を突き抜ける。大げさだがこの瞬間こそ、大地の恵みに心から感謝するときかもしれない。ビールが美味く感じるのも、こんな馬鹿げたことを考えられるのも、それだけ今日という日が充実していたということだ。

一本目を軽く飲み干し、二本目を開け、そろそろ夕食でも食べようかなと思っていると、電話が鳴り出す。予想通りだったが、電話の相手は娘の柊奈からであった。

「パパ、パパ。今日ね、音楽の時間に動物園の歌を歌ったの。だから明日は動物園に行きたいんだけど」

単純な動機に、思わず口に含んでいたビールを吹きだしそうになったが、真剣な柊奈にそれを悟られないように飲み込み

「そっかそっか。じゃあ明日は動物園で決まりだな。柊奈は何の動物に会いたいんだい?」

と返事を返す。

「柊奈は象さんに会いたい!」

まるで答えを用意していたかのように、即答で返事が返ってくる。

「柊奈は昔から象さんが好きだなあ。じゃあ明日は特別に象さんの背中に乗せてもらおうか?」

からかうつもりではないが、ちょっと冗談を言ってみる。

「えーっ、本当? 柊奈象さんに乗れるの? 本当に本当? 本当だよね? パパも一緒に乗れる?」

柊奈は声を弾ませて真に受けて答える。それを聞いて、口までもっていきかけた缶ビールを持つ手が自然と止まる。そして動物園で「絶対象さんに乗る!」と言って駄々をこねている柊奈の姿が頭に浮かんでくる。それを聞いた麻美子が「動物園では動物には乗れないのよ」と言い聞かせるが「だってパパが乗れるって言ったんだもん」と言いながら柊奈が泣き始める。そして麻美子が僕に怒り出し……。

このままではまずい!

「あっ、柊奈。そういえば動物園にはおいしいソフトクリームがあるらしいぞ」

「え……、ソフトクリーム? チョコ味もある?」

話をそらし、柊奈の興味をソフトクリームに向かせる。我ながらいい作戦だ。

「あるぞう……、いや、象じゃなくてあるに決まっているじゃないか。ソフトクリームはイチゴ味もサラミ味も……、あ、いや、そうじゃなくて……」

「サラミ味?」

「あっ、ごめんごめん。バナナ味だったかな?」

「柊奈はやっぱりバナナ味がいい」

柊奈の気を逸らせようとしたとはいえ、ソフトクリームのサラミ味はあり得ない。人は嘘を付こうとするとボロが出る。明日は象の話は絶対にしないようにしよう。

「そうだパパ。今からママとおやつを買いに行くの。パパもおやついる?」

アイスクリームの話題から、柊奈がおやつのことを思い出す。いい流れだ。

「そうそう、おやつは持って行かなくちゃな。そうだなあ……。今は思いつかないから、柊奈がパパの分も選んで買ってきてくれないかな。柊奈の好きなお菓子でいいからさ」

「うん、分かった。パパの好きなサラミもちゃんと買ってくるね。チョコレートは一つまでって決められているけど……」

「うんうん。パパも一つでいいよ」

「でもパパは柊奈よりもたくさん食べるから、ママには内緒で柊奈よりも多く買ってきてあげるね」

柊奈はひそひそ声で話す。

「柊奈は気が利くなあ。でもママに見つからないかな?」

 僕も柊奈に合わせて小声で話す。

「大丈夫パパ、スーパーのレジの前でそーっとカゴに入れるの、そーっと……、あっ、ママだ。ちょっと待ってね」

少し待たされて麻美子が電話に出る。

「恭ちゃん、お仕事お疲れ様。明日は動物園に行くことになったみたいね」

なんとなくだが麻美子も嬉しそうに話す。

「動物園に行ったのは柊奈がまだ三歳の頃だし、たまには動物との触れ合いもいいんじゃないかな。ちょっとあの匂いは苦手なんだけど」

「相変わらず恭ちゃんは匂いに神経質ねえ。動物園に入ってしまえば、匂いなんてすぐに慣れるわよ」

「まあ柊奈のためなら何でも我慢できるけどな」

「柊奈ったらリュックを背負って、歌を歌いながら家の中を歩き回っているのよ。楽しみでしょうがないみたい。明日の柊奈は大はしゃぎだわ」

「ああ。目一杯楽しませてやるさ。ところで、柊奈はもう学校には慣れたのかな?」

「もうすっかり。保育園で一緒だった子もたくさんいるし、楽しそうに行ってるわよ。人見知りもしないし、本当に手のかからない子だわ。母親に似てすっごくいい子だもの」

「いや、それを言うなら父親似だろ」

「あら、あなたに似たらこんないい子に育つわけがないじゃない」

「おいおい。ちょっとそれはないんじゃないか?」

「間違いなく私に似たのよ」

「だけど社交性があるところは俺に似たんだと思うけど……。いやいや、やっぱりだいたいは俺に似たんだって」

「ふふふ……」

「どうして笑う?」

「ふふふ……。そんなのどっちでもいいわよね。柊奈はまっすぐ育っているわ」

「うん……。それなら安心だ」

「だけどまだまだ安心なんてできないわ。まだ一年生だもの」

「ああ……。そうだな」

他愛もない家族の会話の中で、僕は春の陽気にも似た穏やかな幸せに浸っていた……。



夢の続きなのか……。


今僕は、昨日見た夢と同じ、緑一色の映像を見ている。ベッドに居たはずの少女の姿はなく、部屋は静寂を保ったまま何の変化もない。依然として僕はこの場から動くことはできず、誰もいない部屋を覗いている。変わったことといえば、夢だと分かっている分、この前よりは若干落ち着いた気構えでいられることぐらいか。

しかしなんという殺風景な部屋だろう。人形の一つも無いこの部屋は、柊奈の部屋と比べると大違いだ。もしここが少女の部屋だとしたら、少女は毎日退屈で仕方がないだろう。でも子供部屋は別にあって、寝るためだけの部屋なのかもしれないが……。いや、もしかしたら少女は貧しい家庭の子で、おもちゃ一つ買ってもらえないのかもしれない。だがたとえそうだとしても、人形の一つも与えられないのはあまりにも不憫だ。考えたくはないが、両親に愛されていないのだろうか?ちょっと待てよ……。もしかしたら少女は囚われの身かもしれないぞ!無意識に願ったSOSが僕に届けられているのかも!テレビなどで俗に言うテレパシーってやつか。夢の中のこととはいえ、このシチュエーションは何か意味がありそうだし、なんとなくだが少女は寂しそうで、疲れているようにも見えた。可能性は充分にある。今少女は何をしているのだろう?痩せている少女だったが、食事は取れているのだろうか?そんなことよりも、まだ無事なのだろうか……。

僕はいつの間にか柊奈のことを思うかのように、親身になって少女のことを考えていた。とにかく今は少女と話をして、困っているなら力になってあげたいという気持ちでいっぱいだった。必要のないおせっかいかもしれないが、それでもいいと思い、僕はいつ現れるかもかも分からない少女を待つことにした。



もうどのくらい時間が経ったのかさえ、分からなくなっていた……。


日常では時間に縛られない生活をしたいなどと思うが、今ほど時計を見たいと思ったことはない。あまりに退屈で、物音ひとつしない静寂に疲労を覚える。自然とため息をつく回数も増えてくる。少女と会うのは諦めて、現実に戻りたいという薄情な気持ちさえ沸いてくるが、方法があるわけでもない。いったいあとどのくらい待てばいいのだろう……。

そしてさらに時間は経過し、精神的な疲労の蓄積は僕の体に徐々に虚脱感を感じさせていく。誰もいないベッドの上に重ね合わせていた少女の姿はおぼろげになり、今でははっきりと思い浮かばなくなっていた。僕はとうとう目を開けていることさえ辛くなってしまい、うつむいて目を閉じる。しばらくそのままの状態でいると、深い眠りに入る寸前の暗闇に落ちていくような感覚に陥る。そして改めて「静かだなあ……」と感じたその時、以前ここで耳にした、ドアが開くときの軋んだ音が聞こえてくる。するとすぐにあの少女が部屋に入ってきた。僕は咄嗟に声をかけようとするが、いざ少女を目の前にするとなかなか言葉が出てこない。少女はそんな僕を無視するかのようにベッドの上に座り、背を丸めて両手を腿の下にしいて足をぶらぶらさせる。顔はこちらを向いているのだが、うつむいているのでよくわからなかった。話しかけるには絶好のタイミングなのだが、疲労からか頭が働かず、かける言葉を思いつけないでいると、不意に少女が顔を上げる。目鼻立ちのすっきりした、可愛らしい面立ちだった。ちょっと長めの前髪から、大きな瞳を覗かせてこっちを見ている。しかし、僕に気づく様子は全くない。少女の表情からも、僕のことは見えていないということが明らかだった。そうと分かると、少女と話せるかどうか疑問に思えてくるが「ダメもとで声をかければいいや」といういい加減な勇気も湧いてくる。そして僕は意を決し、少女が驚かないようにやわらかいトーンで少女に話しかけてみた。

「こんにちは……。でいいのかな?」

僕の言葉が聞こえたのか、少女は一瞬身を震わせ、驚いた様子で周囲を見回し始める。驚かせたのは悪かったが、少女に声は届いているようだ。

「驚かせてごめん」

さらに語りかけたが、少女は返答することはなく、ベットから降りて僕を探している。

「僕には君の姿が見えているけど、君には僕の姿は見えていないんだね」

「どこから見ているの?」

少女が初めて口を開いた。

「えーっと、どこからだろう?君のすぐ前にいるはずなんだけどなあ」

そうは言ったものの、見えないものを理解できるはずもないと思った。そのタイミングで少女はベッドから降りて左側へと歩き出し、僕の視界から消えると、すぐにドアの開く音が聞こえてきた。この部屋を出て僕を探しに行ったのだろうか。そう思ったのも束の間、すぐに戻ってきた少女は再びベッドの上に座り、僕が声をかけるよりも早く呟いた。

「やっぱりいないんだ……」

少女がこぼした言葉は、僕の耳にひどく寂しい余韻を残す……。その言葉の意味を考える間もなく、少女は両手で顔を覆い泣き始める。そんな様子の少女に戸惑いを感じながらも

「大丈夫?ここには君意外に誰もいないのかい?」

と聞いてみるが、少女は肩を大きく震わせて号泣している。泣きじゃくる少女を前に、僕はそれ以上何も言えなかった……。



寝起きでベッドの上にあぐらをかき、タバコに火を点けると、真っ先に少女の泣いている姿が頭に浮かんでくる。結局何もしてあげられなかった自分に腹が立つのと同時に、少女の悲しみへのやりきれない哀切感が込み上げてくる。二日続けて同じ夢を見たという不可解な事実の真相は、どうでもよかった。ただ今はずっと泣いていた少女のために、何かしてあげたいという気持ちでいっぱいだった。親切心とか正義感とか、同情の思いからではなく、使命感にも似た強い意志が、心の底から突き上げてくる。今すぐに行動を起こせないもどかしさに苛苛するが、どうしようもない。ただ不思議と、今日も眠りに付けば少女に会えるだろうという気がしていた。僕はこのまま深く考え込んでしまいそうになったが、はらりと落ちたタバコの灰で我に返り、柊奈との約束を思い出す。時計を見ると、もう出かけなければならない時間が迫っていた。僕は急いでタバコを灰皿でもみ消して、慌てて寝室を後にした。



二週間ぶりに柊奈と会える。こう言うとあまり会っていないかのように聞こえるが、柊奈とは二週間に一度は必ず会っている。それでも二週間という時間は長く感じてしまうので、二週間ぶりということになる。

柊奈は仙台の麻美子の実家に住んでいて、今は麻美子の父親と三人で暮らしている。高崎に赴任するまでは、仙台支社に勤務しながら僕も麻美子の実家で暮らしていた。婿に入ったわけではないが、柊奈が生まれてからも麻美子が仕事を続けたいと言ったので、麻美子の職場から近い麻美子の実家に住むことを決めた。柊奈が四歳になるまでは麻美子の母親も一緒に暮らしていたのだが、肺炎を患い、二年前に他界している。初孫の柊奈のことは本当によく可愛がってくれて、柊奈が日に日に成長していく姿を心から喜んでくれた。優しい義母だった。

高崎から乗ってきた高速を仙台で降り、十分も車を走らせると、柊奈の通う小学校が見えてくる。さらに車を走らせて、もう少しで麻美子の実家が見えてくる最後の曲がり角を曲がると、リュックサックを背負い、外で待っている柊奈が見えた。車の音で気付いたのか、柊奈は僕の車を見つけると、嬉しそうにこっちへ向かって走り出す。そしてその光景を見ると、いつも柊奈と手をつないで僕の帰りを待っていた、今はなき義母の姿が頭に浮かんでくる。会社から帰宅する僕の車を見つけると、すぐに走り出そうとするまだ幼い柊奈の手を、しっかり握っていてくれた。思い出すと辛くなる……。もちろんもっと悲しんだのは義父、そして麻美子であり、亡くなった当時の落ち込みようは痛々しい程だった。身近な人の死というのは本当に残酷で、やりきれないものだと切に思う。

「パパお帰りー」

車から降りた僕に柊奈が飛びついてくる。僕は義母の分も愛情を込めて、柊奈をしっかりと抱きしめた。

「ただいま柊奈。お前はいつも可愛いなあ。パパは大好きだぞ。今日は動物園でいーっぱい遊んでこような」

「うんっ」

僕の人生のすべては、この子のためにあるのだと実感する瞬間だった。



こんなに動物園が混んでいるとは思わなかった。なるべく混まないほうがいいと思い、日曜日ではなく土曜日の今日にしたのだが、まさか駐車場の空き待ちをすることになるなんて思ってもみなかった。

「電車で来れば良かったね」

柊奈はそう言いながら助手席の窓を開け、動物園の入り口を眺めている。柊奈の逸る気持ちとは裏腹に、車はなかなか前に進まない。こんな時は真っ先にタバコに手を伸ばすのだが、柊奈が乗っているときのこの車は禁煙車となる。

「動物園とはいえ、土曜日でも混んでいるのね」

麻美子もこの状況は予想外だったようだ。車の誘導をしている警備員も、罰が悪くてこっちを向けないのか、そっぽを向いたまま仕事をしている。

「ねえ、ママ。早くしないと象さんに会えなくなっちゃうかなあ?」

「大丈夫よ。象さんは柊奈のことをちゃんと待ってるって。もうすぐ会えるからね」

「早く会いたいなあ……。ねえ、ママ。象さんの卵ってやっぱり大きいの?」

「卵?ふふふ……。象さんは柊奈と一緒でお母さんのお腹から生まれてくるのよ」

「え?卵じゃないの?」

「卵じゃないわ」

「ふーん。そっか、そっか。でも卵じゃなくてよかったね」

「ええ?どうして卵じゃなくて良かったの?」

「だって、卵だったら人間に食べられちゃうでしょ。可哀想だもん」

「そうねえ。私たちは毎朝ニワトリの卵を食べているものね。これから卵を食べる時は、ニワトリさんに感謝して食べないとダメね」

「うん。学校の先生も言ってたの。感謝の気持ちを込めて『いただきます』と『ごちそうさま』を言わなきゃだめなんだって」

二人の会話を聞きながら「これから柊奈はいろんな知識を身につけて、どんどん大人になっていくんだなあ」と思った。そのことを嬉しく思う半面、成長していくにつれて子供らしさを失っていくという現実は、ちょっぴり大きい代償にも思えた。


やっとのこと車を停め、動物園に入ると、柊奈はまっ先に象を見に行くと言い出した。入り口から近い動物を順番に見て行きたいところだが、柊奈はまるで象の居場所を知っているかのように、僕たちの手をぐいぐいと引っ張って行く。右往左往連れ回されたが、体の大きい象だから、柊奈でも見つけることができた。

「ああっ、いたいた。象さんがいたー」

柊奈は僕たちの手を離し、象の方へと走って行く。

「うわあ……。大きいねえ」

柊奈は象の柵にしがみつき、食い入るように見ている。そんな柊奈をよそに、象はそっぽを向いて尻尾をぶらぶらとさせている。一向にこっちを向いてくれないので、僕達は像の顔が見える人が集まっている方へと移動する。正面に来るとその大きさに圧倒されるが、温厚そうな眼差しに愛着が湧く。

「象さーん、もっとこっちにおいでー」

柊奈が口元に手を添えて大声で叫ぶが、気付いていないのか単に無視しているのか、象は全く気にかける様子もない。

「象さーん、象さーん」

柊奈は叫び続けている。

「こっちのほうが良く見えるだろ」

僕は柊奈を持ち上げて肩車をしてやる。

「象さーん。こっちだよー」

僕の肩に乗って背の高くなった柊奈の声に気付いたのか、象はこっちのほうを向くと、まるであいづちを打つかのように、長い鼻をぶらぶらさせた。その反応に柊奈も大喜びして、僕の肩の上で体を上下させる。

「柊奈、あんまり動くと危ないぞ」

そう注意したが全く聞く耳を持たない。柊奈は興奮したままさらに大きな声で

「象さんは卵じゃなくて良かったねー」

と叫ぶ。麻美子が隣りで「ぷっ」と吹きだす。僕も思わず笑ってしまったが、柊奈にとっては今日一番伝えたかったことに違いない。気のせいだろうが、象も嬉しそうに柊奈の話を聞いているかのように見え、まるで柊奈と心が通じているかのように思えた。



帰りの車内、十五分も車を走らせると、柊奈は後部座席で眠ってしまった。動物園ではしゃぎすぎて疲れたのだと思うが、遠出した時のいつものパターンでもある。

「今日の柊奈は大はしゃぎだったな」

「柊奈ったら見る動物全部に話しかけて、まるで動物の言葉がわかるみたい」

「そうだなあ。柊奈なりに話す言葉を考えて一生懸命だったもんなあ」

「叫びすぎで声が嗄れていたもの」

「だけど象の卵には参ったよ」

「それも面白かったけど、サイに向かって『毎日こんなに臭いところで大変だねー』って言ったのもかなりウケたわよ」

「そうそう。隣にいた人も笑っていたしな」

「今も夢の中で動物たちと話しているのかもしれないわね」

「ああ。こんな可愛い顔して眠りやがって」

信号待ちを見計らい、後部座席で眠っている柊奈の頬を突っついてみる。小さな口を愛らしく動かす娘に、微笑まずにはいられなかった。

信号が青に変わり車を発進させると、僕はふと夢に出てきた少女のことを思い出した。

「まったく話は変わるんだけど、麻美子は二日続けて同じ夢を見たことってある?」

「え? 夢?」

「そう、夢。一昨日と昨日と続けて同じ夢を見たんだよ。同じというか、続いている夢をね。麻美子は経験ある?」

「二日続けて同じ夢なんて見たことがないかも。いったいどんな夢?」

「それが不思議な夢なんだけど……」

「夢なんて不思議なことばかりじゃない。急に場面が変わったり、突然登場人物が入れ替わったりするし」

「僕も夢ってそんな風に捉えていた。どこかがおかしい、どこか辻褄が合わないようなことが必ず存在する現実にはない世界。確かにその要素がないわけではないのだけれど、この夢は違うような気がして……」

「ふーん。詳しく教えて」

「うん。そこには小さな部屋があって、僕は体が動かない状態で部屋の中を眺めているんだ。しばらくすると柊奈と同い年ぐらい、いや、もうちょっと上くらいの少女が部屋に入ってくるんだけど、少女には僕の姿が見えていないんだよ。それで初めて話かけたら少女がいきなり泣き出してね。僕の声にびっくりしたわけじゃなくて、何か事情があると思うんだ。だっていきなり泣き出すなんておかしいだろう? 何とか力になってあげたいんだけど、ずっと泣いているから何を言ったらいいか分からなくなっちゃって。結局何も言えないまま夢は終わっちゃったんだけど。だから今度会ったときは、絶対に何かしてあげようと考えているんだ。こういう時はまずどう接すればいいのかな? 麻美子なら」

「ちょっと待って恭ちゃん。これって夢の中の話なのよね?」

「そうだよ。だから思うようにいかないんだよ。なんとかしてあげたいんだけど」

「そうじゃなくて、その少女にまた会えるようなこと言うから」

「あ、確かに……。だけどそんな気がするんだ。今日も眠りに付けば少女に会える気がする」

「幽霊とか宇宙人とか全く信じないあなたが、珍しく現実離れしたことを言うのね」

「いや、それとこれとは話が別だよ。まだ推測なんだけど、少女はどこかで監禁されていると思うんだ。きっと少女はSOSを送っているに違いない。少女には助けが必要で、その願いが僕に届いているんだよ。テレパシーなのかなあ」

「あら、私がどんなに幽霊は存在するって言っても信じないくせに、あなたが言う超能力は信じろって言うの?」

麻美子にそう言われ、ふと我に返る。偶然同じような夢を二度見ただけで、こうも言い切る自分が普段ではあり得ない。

「やっぱりただの夢なのかなあ? そうとは思えないんだけど……」

「その少女には見覚えはないの?」

「それがまったく無いんだよ。だけど柊奈と同じ年くらいの子供だから余計気になっちゃってさ」

そう言うと麻美子は黙り込んでしまった。きっと柊奈と同い年くらいの少女を不憫に思ったのだろう。

「やっぱりただの偶然なのかな」

僕がそう言ったところで、眠っていた柊奈が起きてしまった。

「ごめん柊奈。ちょっとうるさかったかな。まだ家まで一時間位かかるし、もう少し寝ていてもいいよ」

柊奈は僕の言葉に対して左右に大きく首を振り、眠そうな目を擦りながら

「パパ、まだ動物園に戻れる?」

と切り出す。

「どうしたの柊奈。何か忘れ物したの?」

麻美子の問いかけに

「動物園で象さんに乗るのを忘れちゃったから。だから早く動物園に戻ろう」

という柊奈の答え。


まずい!


「何を言ってるの柊奈。動物園では動物には乗れないのよ」

「違うよ、乗れるんだよ。だってパパが乗れるって言ったんだもん。だから早く戻って。暗くなったら動物園終わっちゃうから、早く早く!」

寝起きの機嫌の悪さも手伝ってか、柊奈は泣きそうになりながら訴えている。こうなるともう言い訳はできそうもない。僕はもう観念して、事の成り行きを麻美子に説明した。


ソフトクリームサラミ味で笑いを取り、誤魔化す作戦も麻美子には通用せず、この後家に着くまでの間、麻美子にしこたま怒られた僕であった。

 


高崎のアパートに帰ってきたのは日曜日の夜九時を回っていた。相変わらずだが部屋の中は静まり返っていて、一人暮らしに慣れてきたとはいえ、寂しい気分になる。賑やかな麻美子の実家にいたのでなおさらだ。こんな時はいつも話し相手がほしいと思う。友達がいないわけではないが、特別用もないのに電話やメールをするのはちょっと勇気がいる。学生の頃は「暇だから電話してみた」くらいの理由で友達に電話をすれば、適当な話をして暇つぶしができたものだが……。結局僕は手持ちぶさたにテレビのスイッチを入れ、適当にチャンネルを変えてみる。一通りチャンネルを回してみたが、見たいと思う番組もなく、そのままテレビの前のソファーに横になった。このまま寝てもいいかなと思いつつ靴下を脱ぎ捨てる。テレビの音を下げようとリモコンを手に取りブラウン管に向けると、ニュース番組で、女性キャスターが声を震わせながら話している映像が目に飛び込んでくる。

「本当に悲しい出来事です。なつみちゃんのご冥福を心からお祈り申し上げます。最近子供を虐待する事件が増えています。悲しいことです。お子さんをお持ちの方、どうか子供を叱る時の暴力はやめて下さい。赤ちゃんが泣くのはそれしか表現方法がないからで、親に分かってもらおうと一生懸命なんです。一生懸命生きようとしているんです」

何気なく目に入ったニュース番組の一コマだったが、涙を流しながら訴える女性キャスターに強い感銘を受けた。

女性キャスターが言っていたように、最近子供に対する虐待のニュースが目立つ。虐待のニュースを見るたびに、僕は虐待した親を殴りに行きたい気持ちになる。そういった衝動が起こるのは人間的にどうかと思うが、怒りを覚えずにはいられない。柊奈が生まれて父親になってからというもの、こういったニュースには特に敏感になっているみたいだ。きっと今もどこかで、虐待に苦しんでいる子供が泣いているに違いない。もしかしたら一刻を争う事態になっているかもしれない。でも僕はここに居るだけで何一つしてあげることはできないのが現実だ。結局はどうしようもないこととして整理してしまう。そして虐待のニュースに怒りを覚えたことも、可哀想だと感じ胸を痛めたことも、いつの間にか忘れている。そんな自分なんかに、他人を非難する資格なんてない。そういえば麻美子の実家に泊まった夜は、少女の夢を見ることはなかった。もしこのままあの夢の続きを見なければ、僕は夢の中でさえ、たった一人の少女も救えなかったことになる。救えないまでも勇気付けてあげることさえできなかった。きっとあの夢は無力な自分の象徴だったのかもしれない。少女の顔を思い出すと、どんどん悲痛な気持ちが膨らんで、なんとも言えない鈍い痛みが僕の胸を殴打する。非現実的な夢のことをここまで考えるのは無駄なことかもしれないが、少女との夢を、ただの夢として片付けられない気持ちは、ずっと心の中に残ったままだった……。



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