グリム・エンペラー

月影ルナ

第1話 黄泉の世界


「随分朱色の濃い黄昏だな」

 皇昌教すめらぎまさのりは、間もなく西の地平線に沈んでいく夕日を眺めながら、勤務先の図書館から帰路についている。

 勤務先から今日借りたばかりの一冊の本を抱えながら。

『タロット占いとアルカナ』という白とクリーム色のグラデーションの表紙に黒の筆記体の様な文字でそう書かれている。

 端から見るとまるで魔法の本の様なデザインだ。

 彼がこの本を借りたのは、最近タロットにハマったからだ。

 元々昌教は、タロットや星座などの神秘的なものが好きだ。この本もいつか借りたいと思っていたのだが、いつも貸し出し中で読めなかった。

 なので、これから二週間はじっくり読もうと少しわくわくしているのだ。

 因みに昌教が勤めている図書館は、スタッフでもちゃんと手続きを踏んでいれば借りられるようになっている。

(……逢魔が時。あの世とこの世が交わる一時と聞くが。私には何処か哀しくなるな)

 今はゴールデンウィークが明けて最初の週末。まあ、昌教にとってはゴールデンウィークなんてあまり関係ない。一日だけシフトで休みが入っているだけだ。

「あ、そうだ。確か来週末は」

 昌教はポンと手の平を軽く叩く。

「隼人の誕生日だ」

 と言った。

「そうそう。隼人にメッセージっと」

 昌教はスマホを立ち上げて早速隼人に送る。


 ここで隼人の事について書いておこう。

 野々宮隼人ののみやはやと――

 オフィス機器を取り扱っている株式会社星奏せいそうの人事部の課長の座に就いている。

 彼はその会社の社長の息子だ。

 見た目はまるでモデルのようで、身長一八九センチと本当にそっちの本職の人と間違えそうだ。

 顔立ちは体型とは似つかぬふんわりとまるで綿菓子の様。

 現在、女性社員は勿論、学生時代から、そのモテモテは健在だった。

 隼人と昌教は高校時代に知り合って、今年で十二年の付き合いになる。

「えーっと、『お疲れ様。来週末誕生日だよね。その日何食べたい?』っと」

 打ち終わってまた歩き始めて十分後、隼人から返信が来た。

『おう、お疲れさま。そうだな、寿司が食いたいかな。後チーズケーキも』と。

『うん。分かった。じゃあ当日まで』

 と返して、また昌教は歩き出した。朱色のまばゆい光を全身に浴びながら。

 しかし、昌教はまだ知らない。これから当分の間、口が利ける親友に会えなくなることを。



「ふう」

 自分のマンションの部屋へと戻った昌教は、鞄を重そうにドサリと下ろしてベッドに一旦横になる。

 晩ご飯の支度をする前に十五分ほど、一旦横になるのが昌教の習慣だ。

 疲れたままの体では億劫な気持ちになってしまい、夕食が手抜きになってしまうからだ。

「今日もなんとか乗り越えたな。歩きっぱなしで大変だけど、本に囲まれるこの仕事は嫌いじゃない」

 と少し疲れた声で呟く。

 いつもならこの後目を閉じて仮眠するのだが、今日はどうも目が冴えてしまっている。

 何故かというと、

(それにしても、どうして隼人は私に優しくしてくれるんだろうか)

 ふと自己嫌悪になっていた。

 時々思うのだ。

 あんなに高スペックな条件を持ちながら、何故、自分の様な平々凡々な男を相手にするのだろうと。

 昌教はごく普通の公務員と主婦の間に生まれた。顔立ちは至って普通。イケメンでもないが、不細工でもない。

 身長も一七一センチとこれまた平凡。

 優遇され過ぎず、冷遇され過ぎずの二十七年間を送っている。

 昌教は心優しいのだが、少々自己肯定感が低いところがある。同僚の間でも、それが少し心配されているのだ。

 彼には良いところが沢山あるのに、と。

 残念ながら本人は、あまり分かっていない。まあ、そうでなければ、ここまで悩んではいないだろう。

「いかん、いかん。またネガティブになってしまった。晩御飯作らないと」

 と昌教は急いでベッドから起き上がり、小走りで部屋を出た。

 慌てた際に、傍にあった例の借りてきたタロットの本が体にぶつかってパサリと開いた。

 そのページは『Ⅴ』の見出しが見られた。



 当日がやって来た。幸い、この日は彼のシフトが休みに当たっている。

 だが、昌教の顔は少し疑惑を持っている。

「どうしたんだろ隼人」

 スマホと少し睨めっこしていた。

 それは昨日から隼人からの返事が来ない事だった。ただ単に返事が無いのなら、寝ているか忙しいかで別に気に留めない。

 だが昌教が連絡を取ったのは、昨日の昼からだ。何時に行けば良いかを訊きたかったのが、返事はおろか既読さえつかなかった。

 その時は忙しいとかスマホが手元に無いからと思っていた。だから夜に改めて同じことを書いたのだが、それでもつかなかった。

「妙だな。普段ならその日に連絡をしたら、その日のうちに返す奴なんだが」

 と歩みを止めて画面を見つめる。

 だが、いくら見ていても変わらない画面にふう、と一つ呼吸を置き、また歩む。

 左手には有名店のチーズケーキと、テイクアウトしたこちらも有名店のお寿司を持っていきながら。

「仕方がない。兎に角行ってみるか」

 隼人が住んでいるマンションは、昌教が住んでいる所から約三百メートルほどの所にある。

 ニ十階建ての高層マンションなのが、親が金持ちかつ彼自身もかなり稼いでいるのが容易に想像できる。

 そこの十二階に彼は住んでいる。

 その煙突の様なマンションの屋上部分が見えて来た時だった。

「また……」

 と小さいが澄んでいる声が聞こえた。

 昌教は何だ、と辺りを見渡すと、一人の女性が昌教が歩いてきた方へと歩いていた。

 何かを握りしめているのか、両腕の前腕部分が見えない。

 女性の容姿は後ろ姿だけで顔は分からないが、ふわふわのパーマがかった黒髪の小柄な女性だった。

 頭が昌教の目元ほどの位置にある。

 ローブみたいな黒いロングワンピースなのが、ゴシック風の雰囲気を纏っている。

(彼女は……)

 昌教はその女性に暫く目を奪われるが、通り過ぎてからふと我に返って、慌てて小走りで隼人のマンションへ向かって行った。


 五分後、昌教は隼人のマンションのエントランスへ着いた。

 スマホは相変わらず反応が来ない。

「何があったんだろう。もし、「サプライズだぜ」とかだったら、弱点の左目とこめかみの間をグーパンチしてやる」

 と僅かに目を吊り上げる。

 エレベーターで十二階まで上がって、右側の廊下を歩くと、真っすぐの廊下に右側に部屋が十部屋ほど並んでいる。因みに左は窓。

 そこのエレベーター側から見て三番目が隼人の部屋だ。

 昌教は少し身なりを整えて、インターフォンを二度押す。

 だが、分厚い扉の奥からは物音一つしない。

「……?」

 昌教はもう一度インターフォンを二度押した。

 それでも奥の方は、うんともすんとも言わない。

 流石に不審に思った昌教は、以前隼人から貰った合鍵で中に入る事にした。

 この合鍵は万が一、風邪をひいたとか忘れ物をした時とかに入れるように、と本人が渡してくれた物だ。

 昌教が恐る恐るドアを開けて中へ入ってみる。ひとまず異臭はしない。昌教は軽く安堵しつつも、

「……妙だな。静かすぎる。でも、人の気配はある……」

 と少し引きつった目と声で言う。

 入り口から見て左側にドアが二つあり、ドア側が隼人の部屋になっている。

「隼人、いるのか? 入るぞ」

 とゴンゴンとドアをノックして入った。

「隼人。――!?」

 昌教は入った途端、目を蜜柑のようにひんむいて驚いた。

 そこには自身のベッドの上で――これは何と言ったらいいだろうか。

 第一印象から言えば、等身大の食玩か人形か……。兎に角、手足の関節部分が操り人形のようなつなぎ目が浮かび上がっている。

 隼人の顔はまさに人形そのものになっている。

「こ、これは……」

 昌教は少しフリーズしかけている頭で何とか考えて、隼人の脈や心臓を確かめていく。

「……脈もあるし、まだ温かい。少なくとも死んではいないな」

 と妙に落ち着いて言った。

 昌教は自己肯定はやや低いが、とても冷静沈着なのだ。慌てた姿を殆ど知らないと両親や同僚談。

「……駄目だ。ここで考えても埒が明かない」

 とひとまず部屋を出て、マンションのエントランスに行く事にした。

(……隼人。何であんな……。あ!)

 昌教の脳裏に浮かんだのは、最近頻発しているあの事件だった。

 それは、今の隼人のような人形化事件だ。

 事件は一か月前。最初に人形化事件が起こったのは、隣県のとある病院からだった。

 その時は薬とか医療ミスとかこの地方を騒がせていたが、民家、会社など立て続けに発生し、全国で話題になっている。

「出身地も勤め先もバラバラで、今のところ全くと言っていい程繋がりが無い、とニュースでやっていたな」

 少しずつ青みが色濃くなっている空とは対照的に、昌教の頭はぐるぐると積乱雲が渦巻いて来ている。

 昌教がふと顔を上げると、ここへ向かう途中にすれ違ったあの女性が、今度は左に向かって歩いていった。

 とても深刻そうな表情で隼人のマンションを見ながら、雲のようにふわふわとした足取りで。

 女性を見た昌教は、何か知っているかを察し、

「あの、すみません」

 と女性を呼び止める。

「――はい」

 軽く驚きながらも、すぐに表情を戻す。

「さっきすれ違った時なんですが、「また……」と言っていたのが気になったもので」

 となるべく穏やかに話す。

 こういうところが昌教の良い所の一つでもある。どんな相手にも、いかなる状況でも冷静に対応する。

 だから、あまり人から警戒心を抱かれないのだ。

「……」

 女性は大分躊躇ってはいたものの、暫くしたら、

「今、人々が人形化している事件が多発しているのは、ご存知ですね?」

「ええ」

「それには――『黄泉の世界』の扉が関係しているのです」

「え?」

 いきなり聞き慣れない言葉が出て来て、軽く驚く昌教。

 女性は続ける。

「人形化した人たちは皆仮死状態となって、その世界を彷徨う身となっています。なので、今はまだ亡くなっている訳ではありません」

「――」

 にわかには信じがたい話にはなっているが、昌教は隼人の事もあり、彼女の話を半信半疑のように頷く。

「その……『黄泉の国』の入り口は何処に?」

 あくまで穏やかに女性に問う。

「……こちらに」

 と力なく右腕で示して、ふわふわと歩いていく。

 昌教も少し後ろでついていくことにした。

 少し不思議な組み合わせに思えるだろう。周りから見れば。だが、これまた不思議と人と鉢合わせる事もない。

「ところで、あなたの名前は?」

月島、瑠奈つきしま、るなです」

「瑠奈さん。失礼ですが、お年は?」

「……二十二です」

「二十二? 私より五つも下か」

 年齢が分かると少しくだけた言い方になる。でも、瑠奈は表情を変えない。

 隼人のマンションから十分ほど歩くと、瑠奈が歩みを止めた。

「この中にあります」

「ここって……あの」

 瑠奈が指したそこは、十年前に廃墟になった図書館だった。

 二階建ての横に広く造られている。今昌教が勤めている所と大きさは同じくらいだ。但し、壁の漆喰は大分剥げていて、至る所がボロボロだ。

 廃墟になった理由は経営不振という至極単純なものだった。

 今でも放置されているのは、管理者が「十五年経って買い取り手が付かなかったら取り壊してほしい」と頼んだから。

 だが、十年経った今でも買い取り手はまだつかない。それどころか廃墟をいいことに探索に来る若者が後を絶たない。だからそろそろ取り壊した方が、と懸念する声も上がっている。

 その若者たちの対策の為に、普段は鍵が掛かっている。だから、本来は開くはずが無いのだが、瑠奈は大分銀色の塗装の剥げた取っ手を手に取って、

「どうぞ」

 とまるで自分の家のように昌教を迎える。

 扉は、ギィィと錆びた音を奏でながら外開きに開いた。

 どうやら管理人から借りたのだろう、と昌教は思いながら、何も言わず、素直に入って行く。

 建物の中はやはり予想通り大分荒れており、棚は一部は倒れていて、机も椅子もぐちゃぐちゃになっている。

 やはり前述の通り、肝試し目的なのだろう。でも、幸いなことに本は全く残されていなかった。

 それは昌教の心を少しだけホッとさせた。

 心無い者に本まで荒らされてしまうのは、昌教も心が痛む。自身も図書館勤めだから尚更なのだ。

 中の広さは、勤め先とさほど変わらない。広さだけは、だ。

 清潔さは流石に雲泥の差だが。

 瑠奈はまるで我が家のように二階へと上がって行く。

 昌教も慣れた様に下を眺めながら上がって行く。その表情は少し曇っていた。

 実はと言うと、昌教はまだここが図書館だった時に時々利用していたからだ。

 割と近くにあったので、通いやすくて、それで気に入っていて利用していた。だから潰れた時は結構ショックだったのだ。

 瑠奈は更に歩いて、ある所で立ち止まった。

「ここです」

 瑠奈が指したそこは、本来ならばトイレだった所だ。

 だが、今は鈍い光を放つ巨大な黄金の扉がそびえていた。

 模様もかなり細かく彫られており、それが威圧感と重厚感を紙一重にさせている。

「これが……その入口か」

 昌教はその扉の威圧感に生唾を飲み込む。

「……急かもしれませんが――参りますか?」

 瑠奈が親のように訊く。

 昌教は深く息を吸って、

「……うん」

 と答えた。

「分かりました」

 と瑠奈が白い手で右側の取っ手を掴み、ギギギギ、と重い音を立てながらゆっくりと引いていく。

 昌教は意を決して扉の先に飛び込んでいった。

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