第2話

「喜んでだって?」

 レオンの顔が険しくなった。


 今はまさにゲームのクライマックスシーン。パーティーに列席していた貴族たちは、王子と聖女、そして婚約者の私が話をしている姿に気づき、好奇の目でこちらを見ている。


 私は右手に扇子を持ち、彼にだけ見えるようにそっと回した。扇子言葉の意味は『私は別の猫(ひと)を愛しています』だ。

 

 扇子を使った仕草の意味を知っているレオンの眉間には縦皺ができた。美形が凄むと迫力がある。怯みそうになったが、顔に出ないように努めた。


「偉大なる未来の王、レオン殿下のご決断ですもの。婚約白紙、謹んでお受け致します」


 本来のゲームシナリオでは、悪役令嬢は王子に近づく聖女を、あの手この手でいじめて邪魔をする。その罪がこの断罪イベントで明るみになり、一家は爵位を剥奪。没落し、片田舎で質素な生活を送ることになって歯噛みをするが、今日まで私は聖女と接触しないように回避し続けてきた。ユリアとは今が初対面だ。


 そもそも私は、聖女を妬むほど王子を愛していない。興味がないのだ。ユリアをいじめる理由がない。


「聖女さま。国を救ったあと、王妃教育をしっかり受けられて、立派な王妃になってくださいませ」 


 私は右手の薬指に嵌めている婚約指輪を外すと、彼女の手を掴み、手のひらに乗せた。

「サイズは直してもらってね」

 笑顔を添えて、もう一度カーテシーをするとドレスの裾を翻し、二人に背を向けた。


「ごきげんよう」

 邪魔者は去ります。これでもう、私は自由!


 聖女が王妃となり、国に繁栄をもたらしてくれる。お役御免の私は、平和になったこの国で旅をしまくれる。なんて最高に幸せなの。ああ、大変。わくわくが止まらなくて笑いが込み上げてくる!


「待て。ジュリア」

 一刻も早く立ち去りたかったけれど、相手は王子。無視はよくない。しかたなくレオンに向き直る。


「まだ何か?」

 レオンの碧い瞳は猫を思わせる。内側から光り輝くようで美しい。その瞳が憂いを帯びていた。彼が口を開き、まさに声を発しようとしたときだった。


「虫だ! 外から一匹、蝗虫バッタが入ってきた!」


 男性のあわてる声と貴婦人の叫び声、ガラスのような物が割れる音がほぼ同時に聞こえた。護衛兵が駆けつける足音で会場内は一気に緊張感が増した。レオンも騒ぎの方へ意識が逸れる。


 私はその隙に、ドレスの裾を掴んで持ち上げると駆け出した。



 賑わうパーティー会場のホールとは違い、回廊は静まり返っていた。

 等間隔に飾られているのは、ピンクや白のガーベラだ。オレンジ色の花に触れ、そっと匂いを嗅ぐ。


 さっき、聖女から甘い花の香りがした。ガーベラとは違う、独特の香り。久しぶりに嗅いだ匂いだったけれど、何の花だったかしら……。

 

 ばたんと激しい音をたて、会場のドアが開け広げられた。


「たかが蝗虫一匹にみんな大げさ! 見てよ、葡萄酒が零れてドレスが汚れたわ」


 派手に着飾った女性が髪を振り乱しながら出てきた。壁に立つ護衛兵に怒鳴りつけてこちらへ向かってくる。


 我がウーエルス国は農地が大半を占めるけれど、王都に田畑を荒らす虫が現れたことは、これまでに一度もなかった。城に入ってきたのは今夜が初めてだ。


 蝗虫って、光に引き寄せられる習性があったかしら? あまりにもお城が明るいから呼び寄せてしまったのかも。


 会場に現れたのが一匹だけで良かったと安心していると、レオンまで会場の外に出てきた。目が合った瞬間、私は彼に背を向けた。呼び止められる前に逃げ切ろうと、足を速める。


「あら、殿下。急いでどちらへ?」

「お久しぶりです、モーガン侯爵夫人。今日は私のためにお越し頂き誠にありがとうございます。夫人はいつ見ても見目麗しいですね」


 モーガン夫人、いいタイミングの登場ですわ。そのままレオンさまを引き留めていて! 


 夫人が足止めをしてくれている間に、さらに距離を稼ぐ。


 レオンは幼いころから愛想がよかった。老若男女関係なく人が寄ってくる。けれど、婚約者の私にだけはいつも冷たく、無愛想だった。


 ある日、城内で猫と遊んでいると、「毛が飛ぶ」と言って追い払ってしまった。猫との触れあいが王妃教育を受ける私の唯一の癒しだったから、悲しかった。


 レオンは毎年私の誕生日にオレンジ色のガーベラを贈ってくれた。婚約者の義務を果たすためだろう。


 ガーベラの花言葉の意味なんて、レオンは知らないのでしょうね。


「ジュリア。話は終わっていない」

 レオンはモーガン夫人をあっさり振り切ったようだ。私の腕を掴んで引き留めた。

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