淵と瀬
朝喜紅緒
黒蜘蛛の糸
「さ、佐恵……?」
ここは、恋人の住むマンションの一室だ。ワンルームの室内がほの暗いのはカーテンが閉め切られているせいで、空気がほのかに冷気を帯びて感じるのも、うっすらとカーテンの色を映す青みを帯びた壁のせいだろう。
緩く閉じられたカーテンからこぼれる昼の光を背に受け、微笑む恋人。彼女を見、佐藤義隆はおののいた。
恋人である佐恵は、半身を屈め気味に起こして、足を伸ばし、ベッドに座っている。
「義隆……来てくれたの……」
細い声が妙に響く室内に、自分自身が息を呑む音すら大きく聞こえる。
「ねえ、見て。もうこんなに大きくなって……私たちの子よ」
膨らんだ腹を撫でる手つきは優しい。しかし、なだめるようなその仕草が、義隆の背筋を逆撫でする。
子供――子供と言った。彼女は慈しむように、愛おしむように「私たちの子」と言ったのだ。ならばなぜ、その腹はどす黒く染まっている?
どん、と音が聞こえた。佐恵が撫でた彼女の腹が、破れるのではないかと思うほどに跳ね上がった。
「あら……元気ね」
彼女が声を上げて笑い始める。その目はどす黒く膨らんだ腹を凝視し、その手は跳ねる腹を押さえつけて力を込め、震えている。
義隆は後ずさりをした。ソファーにぶつかってよろけ、テーブルに肘をぶつけて顔を歪め――それでも視線を佐恵から外さず、ドアに向かって後退する。
「どこにいくの? 義隆」
その声は、引き金だった。義隆はか細く振るえた悲鳴を上げ、今度こそ佐恵から顔を背け、一目散に駆けだした。逃げ出す彼の袖を引っ張るように、小さな声が名前を呼んだ。
*
霊力豊穣な土地、日本。数多の精霊、神々が住まうこの土地は、長らくその豊穣な霊力によって「強運」をはじめとする様々な加護を受けてきた。
しかし、現代の日本において、人の魂は不安に揺れ、それが影響を及ぼし霊力という土壌自体が乱されて久しい。乱れた土壌は不安や悪意といった思念の餌となり、人の魂、精霊、妖怪を穢し狂わせ、「穢奴(えど)」と呼ばれる化け物へと変えるに至った。そのために日本は、世界でもまれにみる、霊障の国となってしまったのである。
「遅いな……穢奴祓い士はまだ来ないのか」
玄関を左右にうろうろしながら苛立った声を上げる父親の顔を見、年老いてもなお四角く厳い顔立ちの彼を熊のようだと感じながら、義隆は腕時計を見やった。時刻はあと数分で午後一時となる。父親の言った「穢奴祓い士」がやってくる予定の時刻は一時だが、それまでに来ることが出来るだろうか、と義隆は心の中でため息をつく。
佐藤家は代々続く、この町の有力者だ。山を開発して作られたこの町の最も高い位置に居を構え、町並みを見下ろして暮らしている。ゆえに、最寄りの駅や大きな車道からここへたどり着くまでにあるのは、上り階段と上り坂ばかりである。平坦な道を期待して来る人間は、この上り階段と上り坂のタッグにへとへとにやられ、大抵遅刻をする。
その来客の遅刻に慣れているはずの父が苛立っている理由は唯一つ、相手が穢奴祓い士だからだ。
穢奴祓い士とは、穢奴を清め、祓う事を生業にしている人々の呼称で、今や最も需要のある職業のひとつになっている。
義隆としては――まさかお世話になろうとは、と言いたいところであるが。
ぼんやりと見やった右側、居間があった場所は壁が倒壊しており、ブルーシートに覆われている。
不意に、玄関の呼び鈴が鳴った。義隆が顔を上げるのとほぼ同じくして、父親は玄関の引き戸に手をかける。乱暴に開け放たれた戸がぴしゃりと悲鳴を上げ、父親の背中越しに外の景色が飛び込んできた。
庭を挟んだ外側にある壁と生け垣、木製の門扉、その更に外に二人の人物が立っているのが見える。
門扉の外にいたのは、一組の男女――青年と、少女だった。
青年はフロントタックのシャツとサスペンダー付きのスラックスの上に、色鮮やかな振り袖を羽織り、右手には刀を持っている。口元こそ優しく微笑んでいるが、その目の際には赤いアイラインが隈取のように引かれていて、かなり奇抜な外見である。
その横に立つのは、袴にブーツを合わせた服装が目を引く少女だ。肩の上まで伸びた艶やかな黒髪をリボン付きの赤いカチューシャで留めている。はっきりとした黒目がちな瞳と、美しい顔立ちには思わず息を呑んだ。
義隆の父親も、同じような感想を二人に抱いたらしい。凄い剣幕で引き戸を開けたと思えば、それきりぴくりとも動かない。
「佐藤さんのお宅はこちらでよろしいですか?」
口を開いたのは、青年の方だった。柔らかいが艶のある声で、一瞬どきりと心臓が跳ねる。
「あ、ああ、そうだ」
なぜか動揺した様子で返事をした父親に、義隆は吹き出しそうになるのをこらえた。青年は特に気にした様子もなく「よかった」と笑みを深くする。
「本日お邪魔するとお約束していました穢奴祓い士です」
父親は、今度は困惑した表情を見せる。そして、それを誤魔化すかのように咳払いをし、ゆっくりと口を開いた。
「私どもは、腕利きの穢奴祓い士を派遣していただけると聞いていたのだがね」
義隆が「あ」と言ったときにはもう遅かった。父親お得意の高圧的な皮肉は、彼の口を突いて出ていた。
「腕利き、ねえ」
少女の口から呆れたような言葉が漏れる。それは、落ち着いた調子の澄んだ声だった。だからこそ余計に、だったのかもしれない。その声音に、侮蔑の色がはっきりと表れていたのは。
「もしも私たちの背格好がお気に召さないのならば、前金はお返ししますから他の穢奴祓い士を探してくださるかしら」
眉一つ動かさぬまま、言葉だけは辛辣に彼女は言い放つ。
「こちらは舛花家と言えば日本有数の穢奴祓いの名門だと聞いたから依頼したんだぞ! それをこんなひよっこを寄こしておいて何を言う!」
父親の怒号が響き渡り、通行人がこちらを振り向くのが見えた。義隆は他人事と言わんばかりにため息をつく。
「有数、かどうかは知りませんが……舛花の名をあてにしてのご依頼なのでしたら、舛花の名を信用していただかないことにはどうにもなりません」
青年は困惑気味に曖昧な笑みを浮かべた。
「こちらとしても舛花が派遣できる最高の穢奴祓い士をお連れしていますので」
青年の目が、ちらりと少女を見やる。少女は憮然として一度ため息をつくと、淡く色づく唇を開いた。
「自己紹介が遅れました。……私は名を舛花天と申します。舛花家が次期主として、穢奴を清浄せしめるために参りました」
言い聞かせるようなゆったりとした口調に、父親はもちろん、義隆も口をぽかんと開いて硬直した。
「舛花の武の頂点は舛花の主。ですが年老いた当主よりも次期主である私の方がより適任として派遣されました」
さあどうする、と彼女は結論を迫っている。口の端をにっこりと上げて、父と義隆の両方を見据えている。
忌々しげに咳払いをした父親を見て、義隆はただ苦笑した。
「ご納得いただけたのであれば、早速現場へ急ぎましょう。ご案内いただけますか?」
青年がまた口を開くのに、父親は義隆の背を乱暴に押して外へ追いやった。
「もとはお前が撒いた種だ、お前がご案内しなさい!」
開けたときにもまして激しい音を立て、閉められる引き戸。どこか気まずい感がして、義隆は曖昧な苦笑をまた浮かべる。
「場所は、近くの公園なんです。ご案内します」
門扉の外に出てそう言うと、青年は先ほどよりもやや人なつっこい微笑みを浮かべて「はい」と相づちを打った。
「義隆さん、大変そうですね。佐藤さんはかなり厳しいお父上のようで」
苦笑しつつ、青年は呟く。
「なんで名前……」
「依頼主のご家族ですから、知ってますよ」
今度はにこりと屈託のない笑みが浮かんだ。
「そういえば君の名前はなんて言うの」
笑顔に釣られて、つい言葉が馴れ馴れしくなってしまった。この青年が、今年二十八になる義隆よりも、ずっと年下に見えるせいもあるだろう。すぐに人を見くびる悪い癖は、しっかりと受け継いでしまったと小さくため息をつく。
「俺は舛花頼です」
それでも青年は嫌な顔一つせずに答えた。漢字は、と聞くと「頼りになる、の頼」と今度は少し悪戯な笑みが返ってくる。
「本当はね」
急に崩れた言葉遣いに、義隆はどきりと肩を跳ね上げた。
「堅苦しいの嫌いなんです、俺もねーちゃんも。だから、貴方も言葉遣いとか気にしないで下さい」
おかしそうに笑う頼。その隣を歩く天を「ねーちゃん」と呟きつつ見やったが、彼女はこちらに一瞥くれさえしない。この、なんのてらいもなく少女と形容できる容姿を持つ天が、姉。まじまじと二人を見比べると、確かに顔立ちも似ている。奇抜な見た目のせいで、頼の本来の容姿は近づいてよく見ないとわからなかった。
「どの家にも護符があるね。これは?」
辺りを見渡しながら頼が問うた。左右に広がる民家の戸には、全て護符が貼り付けられているのが見える。
「父が配り歩いたものだよ。……佐恵は俺を追ってきたわけだからね、他の家に危害を加えないように守るのは、家のメンツを守るためにも大事なことだったらしい」
佐恵の部屋で彼女の腹に異常が現れているのを見た翌日、すぐに彼女は義隆を追って家にやってきた。そのときに一暴れしていった名残があのブルーシートである。慌てて買ってきた簡易護符は彼女を家の敷地内から追い出しはしたが、退治できるような代物ではなかったため、依頼した穢奴祓い士が到着するまでに被害が拡大してはいけないと護符だけ緊急に取り寄せ、近所に配り歩いた運びである。
うつむいた義隆に、さほど興味はなさそうに頼は相づちを打った。その目は、目前に迫った公園を捉えている。
「なるほど、今回の標的は“佐恵さん”か」
ぽつりと呟かれたその名前に――心臓が突き破られる錯覚を見た。
「彼女が佐恵さん?」
天が初めて、義隆の顔を見る。汗がどっと吹き出して、目眩がする。
公園の入り口からでも遊具越しに見える巨体。黒地に赤のまだら模様の蜘蛛、真っ赤な目はぬらぬらと光って、その頭の上に小さく見えるのは女の上半身だ。青白い半身を揺り動かして振り向いた彼女。その唇が、くっきりと笑みをかたどる。
「義隆……やっとでてきたのね……待っている間に、お家を造り終わってしまったわ」
公園中に張り巡らされている白い糸は彼女が引いて回ったものだ。その中心で佐恵は体をくねらせ、蜘蛛の足が地団駄を踏んだ。地面が揺らぎ、土埃が逆巻く。
「知り合い以上、みたいだけど」
頼と天は迷いもなく公園へ入っていく。天は武器を取り出す様子はないが、頼は片手に持った刀を鞘から静かに抜いた。反りのないまっすぐな刃は、直刀だ。
「むごいものを見ることになるよ」
その声はやはり迷い無く、淀みない。
「なあにあなた、穢奴祓い士?」
眉をひそめて流れた佐恵の目線が、頼の右手の刀を捉えた。威嚇か、彼女の足が一本、どす、と音を立てて地面を叩く。
「ええ。今からあなたを祓います」
頼の目だけが、鋭く佐恵を射抜いた。一瞬ひるんだ風を見せたものの、佐恵も負けじとにらみ返す。
「そんな刀一本……」
言いさした佐恵が言葉を詰まらせた。義隆の目には、ただ頼が歩いたようにしか映らなかったが――しかし、訝しんだ彼が眉間に皺を寄せたときにはもう、頼の刀が佐恵の足を一本、なぎ払っていた。佐恵の喉から溢れた悲鳴が、空を震わせる。流れる雲さえ震わせて――いや、震えているのは、小刻みに動いているのは、義隆の方だ――
頼はまるで動じた様子を見せず、未だ天は一歩も動かない。義隆の目では追い切れない速さで動いた直刀がもう一本、黒蜘蛛の足を切り落とした。前足二本を失った巨体は、己を支えきれずに前方に傾き、沈む。痛みと怒りに戦慄く佐恵の口からは怒号が響き渡り、残った脚が激しく地面を踏みならした。
佐恵が顔を歪め、無数の蜘蛛の目がぎょろりと周囲を見渡したかと思うと、彼女は蜘蛛の頭を支えに下腹部を少しばかり持ち上げ、その腹側から白い糸が噴射された。
「わ、うわあっ」
四方八方に伸びた糸を見、義隆は情けない悲鳴を上げて逃げだそうとするが、脚がもつれてその場に倒れ込んだ。蜘蛛の糸は容赦なくその手を義隆に伸ばす。が、あと少し、というところで、向かう手は阻まれた。
ばちん、と音を立てて蜘蛛の糸にぶつけられたそれは、勢いを失うことなく糸の軌道を変えて地面に突き刺さる。義隆の目前で白い糸を絡め取っていったのは、鉄の苦無だった。地面に深々と苦無が突き立てられた瞬間、蜘蛛の糸はぼっと音を立てて塵になる。ふと天を見やると、着物の袂が風もないのに揺れていた。この苦無を投げたのは、おそらく彼女だ。
視線を頼に戻すと、相変わらず目で追うことも出来ない速度で直刀は鮮やかに翻り、蜘蛛の糸を断っていく。しかしそれにしびれを切らした様子の佐恵がまた下腹部を持ち上げた瞬間、天が動いた。
「未熟よ、よーちゃん」
どこか甘い声音で、彼女は頼に呼びかける。
「だって、仕方ないでしょ!」
義隆には何が未熟なのかはわからない。ただ、噴射された糸のほぼ全てを頼の直刀が切り払ったことだけは見て取れた。
天は頼に返事をすることなく、軽やかな足取りで地面を蹴る。そうして静かに助走をつけたかと思うと、頼の肩へと飛び、彼を踏み台にして更に高く跳躍した。いつの間にかその手に苦無を掴んでいる、と思えば、視界の端で蜘蛛の目玉が全て爆ぜ割れ、佐恵の絶叫がその喉から爆ぜた。
踏み台にされて体勢を崩した頼に蜘蛛の脚が二本襲いかかったが、頼は苦もなく一本を切り落とし、もう一本は手に持った鞘で受け止めた。蜘蛛の巨体が体重を乗せて打ち下ろした一撃を、鞘と頼の左腕は難なく受け止める。
「ごめんね、これ、鉄ごしらえなんだ」
微笑んだ頼の左手が角度を変える。先を滑らせ宙に躍った蜘蛛の脚を、頼は逆手に持った鞘で打った。打たれた脚は硬い音を立ててひしゃげ、佐恵の悲鳴がまた掠れて空へ伸びる。
それはたった数分の出来事。しかし、佐恵はもう、息も絶え絶えといった様子だった。
静かに歩み寄る頼。彼の右手が音もなく動いた――らしい。義隆の目には、翻った振り袖の袂が映るのみだった。視界の上方を黒い影が横切り、義隆は顔を上げる。青空を回転しながら飛び、弧を描いているのは、佐恵の頭だった。義隆はそれを呆然と見やることしか出来ず、その頭が灰と散ったとき、初めてつぶれた悲鳴が漏れた。
体が、勝手に動く。地面にぐったりと寝そべる蜘蛛の巨体に、のろのろと近づいていく。
「佐恵……」
声をかけたそのとき、蜘蛛の体もまた、灰と散った。
義隆の体がくずおれ、地面に膝をついた。酷い衝撃に頭がぐらぐらと揺れたが、義隆の目は蜘蛛がいた場所を捉え、離さなかった。
「僕が……間違っていたのか? 僕が君を受け入れていれば、こんな事にはならなかったのか?」
問いかけても、返事があろうはずもない。
「家を、家族を捨てて、君を選べば正しかったのか?」
涙が頬を伝い、義隆は地に手をついて嗚咽をかみ殺す。しかし、どれほど歯を食いしばってみても、悔恨は口の端から溢れ、漏れ出て止まない。
しばらくの後、背後で金属のかち合う音が小さく聞こえた。義隆は体を起こして振り返る。刀を鞘に収めた頼が、踵を返したところだった。
「あ、待ってくれ、家に」
慌てて涙を拭き、立ち上がる。しかし、天は振り向きもせず公園から町の下へ続く下り階段に向かい、頼はこちらに向き直って首を横に振った。
「このまま帰ります。依頼を果たしたことは、あなたが見ていますから」
佐恵を殺す前と何ら変わらない笑顔に、ぞっと背筋を冷たいものが走り抜ける。
「それと……義隆さん」
呼びかけられて、返事をすることは出来なかった。代わりに、義隆の肩がびくりと大きく跳ねる。
「多分ね、あなたは何も間違ってなんかないよ」
「え」
義隆は目を見開いた。
「あなたでは駄目だった。ただ、それだけの話だ」
悪気がある風でもなくそう言い放ち、頼は再び踵を返す。待ちくたびれた様子の天が「よーちゃん」と苛立たしげに声を上げた。
「わかってるよ、ねーちゃん」
慌てた様子で小走りに階段へ向かう頼。彼は階段の前につくと、当然と言わんばかりの自然さで天に向かって手をさしのべた。二人は、目を見張る義隆のことなど、もうここにいることすら忘れていた。天は満足げに眼を細めて笑み、頼の手を取る。
二人は手を取り合って階段を下りていく。そして――その後ろ姿は、見えなくなった。
*
佐恵は、きれいな女だった。
知り合ったのは大学に通っていた頃で、入学してすぐに入ったサークルの新歓飲み会の場で初めて話をした。
茶色に染めてはいたが痛んだ様子のない髪や、ネイルは塗らずに磨かれた爪に好感を持った。美しい、や可愛い、といった言葉よりも、清潔という言葉の似合う女だった。たとえばそれは、つやが出るまでモップをかけた床のようであり、整然と並べられた白い食器のようでもある。――今思えば、初めてあったときから、およそ人に抱くものとはほど遠い感想を抱き続けていたようだが、それでも義隆にとって、その感情は愛だった。
彼女との関係に変化が訪れた機会は二度。一度目は義隆が付き合おう、と言ったときで、二度目は義隆が別れよう、と言ったときだった。
学生の頃に付き合い始め、卒業してからも惰性で関係は続いた。義隆には一生を添い遂げるつもりなど無かったが、佐恵にはそのつもりがあったらしい。そんな様子を微塵も見せなかったからこそ、別れを拒まれた時には心底驚いた。
佐藤の家は長男である義隆に厳しい。取り立てて肩書きを持たない平凡な家柄に生まれた佐恵を嫁にとることを許すとはとうてい思えず、義隆は一方的に関係を絶って彼女の前から姿を消した。
佐恵が穢奴と化し、祓われてしまった後も、義隆はずっと彼女のことを考えている。過去にさかのぼって記憶を辿っては、どこかに転換点が無いかどうかを探ろうとしていた。閉め切った和室の中に布団を敷き、じっとそこに横たわって。
縁側から、障子を通してほのかに部屋を満たしていた光もいつの間にか消え、外に見えるものはただ月明かりばかりである。時間を忘れた部屋の中で、義隆はふと、穢奴祓い士の姉弟を思い出した。
階段の前で手を繋ぐ二人。世界には他に誰もいないかのように、まっすぐに交わされた視線。しかし、脳裏に浮かんだ情景の中で、弟の頼はこちらを振り向き呟く。
「あなたでは駄目だった。ただ、それだけの話だ」
ああそうか、と義隆は胸中で肯く。自分では駄目だったのだ。現実を目の前に、家族の掲げたルールを目の前にした時、家を捨て、名を捨て、理性を灰にして彼女の手を取れる人間でなければ佐恵を幸せになど出来なかった。
しかし、二人はそれに気づかないまま、どうかすれば二人で幸せになれるような甘い夢を信じ続けていた。
あの姉弟のように、疎んじられても、気味悪がられても、互いを選んで生きる覚悟が義隆にはなかった。それを出来る人間ではなかった。ただ、それだけのことだったのだ。
そう思った瞬間、義隆の頬を一筋、ぬるく涙が伝った。
ただ、それだけのこと。言葉にするのはあっけない。しかしそれでも、義隆には、心の全てを捧げるような事だった。
淵と瀬 朝喜紅緒 @asakibenio
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