第二部 序章 新しい生活

第128話 入学式の朝

 入学式の朝、白雪はいつもよりも多少早く起きてしまった。

 なお、風邪は昨日にはすっかり回復している。

 ちなみに普通、大学の入学式は四月の一日や二日に行われるのが一般的で、央京大学も例年であればそういう日程だった。

 ただ、今年は学内で工事を行っていたため、一週間ずれ込んでいるのである。


 式の開始は十一時。

 ただ、大学に行くのはもっと早くてもいいらしく、むしろギリギリに行くと交通機関が混むだろうという判断から、白雪は九時前には行く予定だ。

 大学内を歩くだけで十分時間を潰せるだろうというのが一つ。

 もう一つは、和樹が大学に用事があって九時には行く必要があるらしい。

 和樹には白雪は遅く来てもいいと思うがと言われたが、折角一緒に行くチャンスを逃す理由は、全くない。


「まだ五時半……さすがに早すぎますね」


 窓の外はまだ暗い。

 もぞもぞと布団から抜け出すと、まだ少しだけ寒さは感じるが、もう春なのだと思わせる程度の、むしろ身が引き締まる様な心地よさすら感じる寒さだと思えた。


 音を立てないように部屋の扉を開けて廊下に出ると、リビングへと向かう。

 カーテンの隙間から見える空は、わずかに白んでいた。もうすぐ明るくなり始めるのだろう。

 東側の窓を見ると、山の稜線が見えるが、その下部分ははっきりと明るい。


「眼が冴えてしまいましたね」


 もう一度寝ようかと思ったが、完全に目が覚めてしまった。

 せっかくだから朝ごはんの準備を始めることにする。

 和樹も今日は、六時過ぎには起きるつもりだと言っていたから、準備はもう始めてもいいだろう。


「そういえば。和樹さんって、大学に何の用事でしょうか」


 入学式に来てくれる――というわけではないはずだ。

 大学の入学式にまでくる親は、小学校や中学よりはふつう少ないというのは、白雪だって知っている。

 まして、和樹は実際には白雪の親ではない以上、少なくとも入学式に参加するわけではないと思う。


 考えても分かるはずはないので、とりあえず準備を始めることにした。

 ごはんは、すでに電気炊飯器で炊飯が動き出している。六時頃には炊けるだろう。

 今日の朝ごはんは鮭の塩焼き、納豆、卵焼き、小松菜のお浸し、豆腐とわかめの味噌汁という伝統的日本食である。

 パジャマの上に直接エプロンを着けてから、大きめの鍋に湯を沸かし始めたところで、和樹が起きてきた。

 時刻を見ると、六時五分前。少し早く起きて来たらしい。


 和樹は目覚ましはセットするのだが、大抵その目覚ましが鳴るよりも先に起きるらしく、今日は白雪が先に起きていたが、大抵は和樹の方が先に起きていることが多い。

 悔しいので目覚ましを早くセットしたこともあるが、結局眠くて昼寝してしまうことになるので、今は普通にしている。

 今日は特別に早く目が覚めてしまっただけだ。


「おはよう、白雪。早いな」

「目が覚めてしまいまして。ご飯準備してますから、ゆっくりしていてください」


 一緒に暮らし始めて三週間以上。

 現状、食事の準備はほとんど白雪が担当している。

 白雪は居候の身なので、少しでも家の手伝いをしたいというのがあるのだ。ただ、和樹も全部やらせるわけには、ということで、片付けは良く手伝ってくれる。

 正直に言えば、三年生の夏休みに、ほぼ毎日お邪魔していた時に近い状態だ。

 違いといえば、朝から夜まで一緒というだけだろう。


 考え事をしながらも、手は的確に動いていて、十五分ほどで、食卓にはいかにも日本の朝食、というものが並んでいた。

 ちなみに焼き鮭はフライパンで焼いた。

 本当はグリルを使う方がよりきれいに焼けるのだろうが、後始末が大変だし、その割にそう違いがないのだ。


「相変わらず美味しそうだな……ありがとう、白雪」

「どういたしまして。それでは、食べましょう」


 テレビからは朝のニュースが流れている中、二人で手を合わせて食事を始めた。


「そういえば……今日、一緒に大学に行くのですよね、和樹さん」

「うん? ああ、そうだな。色々打ち合わせることがあってな」


 そこで白雪は首を傾げた。

 確かに、和樹は事実上白雪の保護者だが、法的にはただの同居人だ。

 住民票は一応移しているとはいえ、それ以上の関係ではない。

 なので、白雪が大学に行くのとは無関係のはずだ。


「何の用事なのでしょう?」

「ああ、六月から環境整えるのに、教授との打ち合わせが必要でな。発注とかのタイミングを考えると今月上旬にはまとめる必要があって……ん?」


 白雪は思いっきり顔に疑問符を貼りつけていた。

 何のことかさっぱりわからない。


「……あれ? もしかして……話していないか」

「なにを……でしょう?」

「そういえば話した記憶が……ないな。すまん、話すのを忘れていた。六月から、俺も央京大に行くことになるんだ」

「はい!?」


 食事中だというのに、思いっきり素っ頓狂な声を出してしまった。

 だが本当に、文字通り青天の霹靂だ。


「ど、どういうことです……?」

「すまん。説明本当に忘れてた。白雪が大学受かったらタイミング見て話そうと思ってたんだが、なんか色々悩んでいるみたいだったから、話す機会を逸して、その後アレだったからすっかり忘れてた……」


 なおも首を傾げる白雪に、和樹は少しだけすまなそうに、説明を開始する。

 そして説明が終わった時には、唖然とした白雪がそこにいた。


 和樹が言うには、六月以降、基本的に央京大学の臨時職員として産学官共同プロジェクトのメンバーとして働くようになること。

 そのため、リモートワークもあるが、少なくとも週の半分ほどは大学に行く必要があること。

 そしてその職場は、白雪が所属した情報学部であることである。


「じゃあ、最近出張とかが多くなっていたのは……」

「今の仕事の引継ぎとかそういうのでどうしても、な。もう大体目途はたってるが」


 なるほど、と納得した。

 思い返せば、出張が増えたのは去年の秋頃から。

 その頃に、プロジェクトへの参加を決めたのだろう。


「……えっと……いえ、べ、別に私にいちいち話す必要は、その、ないかもですが」

「いや、これは俺が悪い。一緒に住んでいる以上、ちゃんと話してなかったのはどう考えても俺の落ち度だ」

「だ、大丈夫です。ちょっと……いえ、かなり驚いたのは事実ですが。じゃあ、六月以降は、一緒に学校行くことも……?」

「そうだな。普通の会社とは違うから、始業という概念はないが、だいたい一限が始まる頃には行ってるのが基本だ。なので、白雪が一限がある日は、一緒に行く方がいいだろうな」


 わけもなく――でもないが、白雪はとても嬉しいと自分が思ってるのを自覚した。

 まさか、一緒に登校できる日が――立場はまるで違うが――来るとは思ってもいなかった。


「まあ逆に、夏休みとかも自由になるわけじゃないから、白雪の都合と合いにくくなることもあるかも知れないがな。前はそのあたりは自由だったが」


 フリーエンジニアではなくなるので、そのあたりは自由度が減るのだろう。

 ただ、和樹曰く、基本的には大学のスケジュールには左右される――リーダーである教授がそのスケジュールで動くから――ので、普通の会社員などよりは融通が利く可能性はあるらしい。


 ただ、そんなことより一緒にいられる時間がもっとあるかも知れないという事の方が、白雪には嬉しく思え――ふと、唐突に思い出した。


「あの、じゃあ文化祭でお会いした方々も、一緒に?」

「そうだな。大藤教授の研究室の人間は、何人か参加が確定してるらしい。俺も詳しいメンバーはまだ聞いていないが」


 白雪は、入学手続きの際に会った倉持奈津美のことを思い出していた。

 あの時は心が沈んでいて、あまり気にする余裕もなかったが、彼女は確か和樹のことを諦めないと言っていたように思う。

 そして『チャンスが来るから』とも。

 それは、こういう事だったのだろう。


(私だって、負けません)


 あの時、大人気ないと言われつつ、事実上の宣戦布告を受けた。

 もっともあの時は、和樹と一緒にいられる未来はあり得ないと思ったから、和樹を幸せにしてくれるかもしれない人が他にもいるのだとしか思わなかったが――。


 白雪は両の手で、パン、と自分の頬を叩いた。


「し、白雪、どうした?」

「何でもありません。ちょっと気合を入れないと、と思っただけです」


 多分あの人は、同じ職場になったらきっと積極的にくるに違いない。

 そして、白雪と違い、年齢も和樹と近い。

 だがもちろん、白雪に譲るつもりは全くない。


 ただ――。


(そういえば、和樹さんってなんで女性とお付き合いしたこと、ないんでしょうね……)


 もっと言えば、友人の数も少ないという気はする。

 彼の性格だと、もっとたくさんの友人がいても不思議はない。

 もっともそれは、誠や友哉についても同じだ。

 あの三人プラス朱里は、本当に仲がいいと思えるが、それでもお互い以外の友人の話はほとんど聞いたことがない。


 自分のことを棚に上げるが、警戒心が強いタイプなのだろうとは思う。

 それだけに、よく自分をここまで受け入れてくれたのだとは思うが。


「白雪?」

「あ、いえ。ちょっと考え事してました。あまりゆっくりしていても仕方ないですし、早く食べましょう、和樹さん」

「ああ。まあ、ゆっくり味わいたいのも本音だが。今日の活力の源だからな」

「そう言っていただけるのは、とても嬉しいです」


 白雪が思わず笑うと、つられて和樹も笑う。

 心地よい朝の食事の時間が、穏やかに過ぎて行った。

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