第105話 家族としての距離感

 その日、和樹は最寄り駅に着いて、プラットホームに降りたところで、大きく伸びをした。


「さすがに……疲れたな」


 実に四日ぶりの馴染んだ空気だ。


 和樹は、来年から始まる、大藤教授から話のあったプロジェクトへの参加を、正式に受諾した。

 教授はとても喜んでくれたが、問題は和樹が今やっている仕事だ。

 プロジェクトの参画は、和樹が一時的に大学の臨時職員扱いになり、そこから給料が支払われる。

 その額は今色々な仕事をしてもらっている金額と遜色ない。

 ただ、拘束時間は当然長くなる。

 というより、他の仕事を請け負うことは基本的にできなくなる。


 そのため、今仕掛かり中の仕事は全て片付ける必要があるし、場合によっては引継ぎをしなければならなくなっているのだ。

 最近そのために、地方への出張が増えているのである。

 今回は、その中でも特に大きなシステムの引継ぎを行うための出張だった。

 無論和樹一人で開発したものではないのだが、一番詳しいのが和樹で、共同開発した会社にそのノウハウを全て引き継ぐ必要があったのである。

 さすがにそれはオンラインではどうしても時間がかかるのだ。


 駅に着いたのは十七時半。

 この季節だと、さすがにそろそろ暗くなってきている。

 通常であれば、もうこの時間だと食事をしてから家に帰りたいところだが――和樹は特に買い物もせずに、まっすぐ家に向かった。

 昼過ぎに、白雪からメッセージが来ていたためである。


『夕方ごろとのことでしたが、駅に着く時間が分かったら連絡下さい。夕食をご準備してますから。要らないなら早めに連絡いただけると助かります。』


 こんなメッセージをもらったら、食事をして帰る理由は全くない。

 新幹線に乗った時点でだいたいの帰る時間は読めるので、それで連絡をすると、すぐに『了解』という意の絵文字スタンプが返ってきたのが三時間前。

 ほぼ予定通りに最寄り駅に着いた和樹は、まっすぐ家路に就く。


(もっとも、女子高生が待ってるという状況に疑問を持たなくなってるのが異様なのは……今更ではあるが)


 そもそも受験生がそんなことをしていていいのかとは思うが、白雪にとってはいい気分転換になるからというから、和樹も諦めて受け入れている。

 実際とても楽しそうにしているし、普段はちゃんと勉強しているのは分かってる。

 それに父親代わりとはいえ、実際には違うわけで、とやかく言う資格はない。

 餌付けされてるのかもしれないという思いはあるが。


 駅からマンションまでは十分もかからない。

 坂道がきついだけだ。

 マンションに着いて、エントランスを抜ける。

 ちょうどエレベーターが一階にいたので、そのまま乗るとすぐ三階に着いた。


 そこまで来て、考えてみたら家に帰った時に彼女がいる状況は、おそらく初めてであることに気が付いた。

 無論、買い物などにちょっと出て帰ってくる、ということはあった。

 だが、そういうのではなく、出張等で長時間家を開けた場合で、誰かが家にいるというのは、間違いなく初めてだ。


(まあ、家族だからな、うん)


 何に言い訳しているのか自分でもわからないが、とにかくインターホンを鳴らす。

 ややあってインターホンから「はい」と声がしたので、「自分で開けるよ」と言ってから、スマホで開錠し扉を開く。

 直後。


「お帰りなさいませ、旦那様」


 和樹はたっぷり五秒ほど凍り付いた。


「は?」


 扉の向こう側にいたのは、きれいにお辞儀をした白雪だ。

 ただ、その恰好が予想外だった。着物姿である。


「白雪、その恰好は……?」

「あ、これですか。文化祭の衣装です。私たちのクラス、和装喫茶だったので、それで。和樹さんにお見せできなかったから、この機会に、と思いまして」

「……で、さっきのは……」

「お店のご挨拶です。とてもウケがよかったらしいですよ」

「らしいってことは、白雪はやってない……のか?」


 すると白雪が、しまった、という感じに口を押えた。


「すみません、そうです。私は料理担当だったので……でもやってみたかったから、これを機会に、と思いまして」


 色々ツッコミを入れたいところはあるが、ともあれ玄関口にいつまでも突っ立ってるわけにもいかない。

 和樹は家に入ると、改めて白雪の着物を見た。


 いつぞや着ていた浴衣とはまた違う。

 おそらく『小紋』と呼ばれる普段着として使われる着物だろう。

 以前着物関係のウェブサイトの仕事をしたときに勉強したので、基本的なところは分かるが、さすがに細かいところは覚えていない。


「自分で着付けたのか?」

「はい。パーティなどでは和装で出ることを求められることもよくあったので。どうでしょうか?」


 そういって、白雪が少し手を広げてまわって見せる。

 白地に、淡い紅葉の模様が入っている。

 帯は濃い赤色で、カエデの赤色を思わせた。

 髪はきれいに結い上げられていて、かんざしで留めてある。

 驚くほど完璧な和装美人だと思えた。


「うん、なんだ。すごく似合ってるよ」

「ありがとうございます。先にお風呂にされますか? いれてありますが」


 少し考えるが、長距離を移動してきてそれなりに汗もかいているので、できれば入りたい。

 ただ、白雪が家にいる状況で入るというのは――少なからず抵抗があるが、風呂に入らないよりはまだマシだと思うことにした。


「じゃあ、先に風呂に入るよ」

「それでは、お荷物お預かりします。あ、さすがにお着換えだけは出していないので、申し訳ないですがご自分でご用意ください」


 クローゼットやチェストを開けてはいなかったらしい。

 さすがに下着などを準備されていては、いくら何でもこちらも気恥ずかしすぎる。


 言われるままに荷物を白雪に渡すと、寝室に行って着替えを取ってきた。

 そのまま洗い場に行くと、念のため鍵をかけてから風呂に入る。洗面台があるから、事故がないとも限らない。

 髪と体を洗ってから湯船に浸かると、さすがに疲れていたのだろう。

 思わずゆったりとしたくなってしまう。


(つか、どういう状況だ、これ……)


 よく考えてみれば、夕食を準備しているという白雪の話から、こうなるのは当たり前だったのだが、なぜかそのまま受け入れてしまった。

 数時間前の自分をどやしつけたくなる。

 それでも、あの白雪の出迎え方は不意打ちが過ぎた。


 考えてみれば、女子高生と毎日過ごすのが当たり前になってる時点で、自分の感覚がだいぶおかしくなってるのかもしれない。

 下手をしなくても、通報案件になりかねないが――ならずに済んでいるのは同じマンションだからだろう。

 それに、一度も強制したことはないはずだ。


 思い返せば、最初は一週間に一回だけ、それも夕方に家庭教師をやって、夕食を一緒に食べるだけだった。

 どこで変わったのかといえば――多分、増えたのはの白雪が和樹を父と思っていると告白した時からだろう。

 あの後、距離が近付たのは確かだ。

 そして生徒会で忙しくなって一度家庭教師を中断したあと、再び会うようになってからは、じわじわと頻度が増えていた。

 気付けば、ほぼ毎日だ。


 和樹自身、それが日常になってきていたのだが、改めて考えると、ものすごくゆっくりと、会う頻度が上がっていたのだと気付かされる。

 今では文字通りの意味で、家族のような距離感だろう。世間一般の恋人より、下手をすると近い。

 本当は家族でも、もちろん恋人でもない、赤の他人のはずなのだが。


「といっても……今それを言うのは良くないだろうしな……」


 家族との縁が薄い白雪が、自分との時間で家族との安らぎを得ていることは、もう分かっている。

 受験を控えたこの時期に、白雪を動揺させるようなことは、和樹にはできない。


 高校生であるという制約を無視して、かつ家族だという枠組みも外すなら、白雪が素晴らしい女性だというのは、他ならぬ和樹自身がよくわかっている。

 他人が見たら、間違いを起こすと思われても仕方ない状況だ。

 だがそれは、白雪の信頼を裏切る形になる。


 ここまで気安い関係にある前提は『家族』という信頼感のはずだ。

 若干の好意があるとは思われても、その一線を越える気は、和樹にはない。

 白雪は最近、その距離感がおかしくなってる気もするが、それは受験生ゆえの不安などもあるだろうと思う。

 それに、本当の意味での『家族の距離』に踏み込ませることは――。それは、和樹が絶対にしたくないことだ。


 そこまで考えて、和樹は大きく息を吐いた。


「結局俺は――から全く立ち直れてないんだろうな」


 無意識に人と距離を取ろうとするが付いていることを、改めて自覚する。

 おそらく白雪は、誠たちよりもさらに和樹の内側に踏み込んでいるだろう。

 だがそれでも、和樹にとっては最後の一線は――やはり越えることはできない。その内側にいるのは、現状本当の家族だけだ。


 もう一度大きく息を吐いた和樹は、風呂を上がると手早く着替える。


「あ、出たんですね。ご飯、すぐ食べますか?」

「ああ、そうするよ」


 すると白雪が手早く最後の仕上げを始めた。

 ほんの五分ほどで、テーブルの上には、ごはん、味噌汁、わかめとしらすの和え物、肉じゃが、鮭の塩焼きと和風の食事が並んでいた。


「相変わらず手際がいいな、本当に」

「ありがとうございます、和樹さん」

「ああ。それじゃあ――」


 二人でテーブルに着くと、手を合わせる。

 いただきます、という声が唱和した。

 とりあえず自分の葛藤は封じ込めることにして、和樹はいつも通りに美味しい白雪の料理を堪能することにした。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「それではおやすみなさい、和樹さん」

「ああ……ってそのまま帰る……のは問題はないか」


 着物姿のままの白雪だが、考えてみればエレベーターに乗って一つ上に移動するだけだ。何の問題もないだろう。


「はい。こういう時ホントに便利ですね」

「そういえば、推薦試験はそろそろなんだっけか?」

「あ、はい。そうですね。もう願書は出してますので、あとは十二月……四日の月曜日に試験です。午前中が小論文、午後が面接ですね。ちなみに小論文は、パソコンが与えられてそれで文書ファイルを作成するそうです」

「いかにも情報学部らしいな。あと半月か。勉強はどうだ?」

「推薦は小論文対策だけですので……テーマ次第ですが、今のところは大丈夫かなぁ、とは」

「そうか。頑張れよ」

「はい、ありがとうございます」


 そういうと白雪はもう一度丁寧に一礼してから、エレベーターに消えた。

 和樹はそのエレベーターが上に上がるのを見届けてから、扉を閉じる。


「白雪も、もうすぐ卒業か……」


 出会った時の白雪はまだ一年生だった。

 定期的に会うようになったのは、二年前のちょうどこの時期。

 それから二年。

 気付けば、誠たちよりも近しい存在になっている事実に驚くと同時に、これほどの付き合いになるとは全く思ってなかったということを、改めて思い出す。


 白雪の高校卒業によって、どう環境が変わるのかは、現時点ではわからない。

 大学に行くことは、彼女の実力ならまず問題はないとは思うが。


 この『家族』という枠組みでの付き合いがいつまで続くのか。

 かつては漠然とそのうち終わるだろうと思っていたこの関係が、今となっては和樹にとっても生活の一部になっている。

 しかし、白雪の高校卒業時の変化は、和樹では予想できないほど大きいと感じていた。

 おそらく、今の状態が継続できないくらいに。

 そしてこの『勘』は、和樹は恐ろしいほどに当たるのだ。


「何がどうなるかは分からないが……」


 せめて、白雪が望まない形にならないことだけを。

 それが仮初であろうと『家族』の幸せを願う、和樹の偽らざる気持ちだった。

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