第81話 妹襲来再び

「えっと……美幸さん、だっけ? 姫様の事、知ってるの?」


 雪奈が驚いたように訊ねる。

 その横で白雪は、どっと冷や汗が背中に湧き出しているような感覚になった。


 美幸が白雪のことを知る可能性は、本来はない。

 だが、去年の二月、白雪は美幸と顔を合わせている。

 マンションのエレベーターの中で、だ。


 そして、覚えてないと思っていたが、彼女は白雪のことを覚えていた。

 今年の元旦、和樹と別れてホームに向かうところで彼女とすれ違ったのは、白雪も気付いていたのだ。

 というか、向こうが驚いた顔をしたので嫌でも気付かされた。

 その時に、覚えていたのかと驚きつつも、あと数分和樹と別れるのが遅かったら遭遇してたわけで、胸をなでおろしたものである。


 だが、今回。

 ここにいる人たちの中で、和樹を除いて唯一、美幸だけが二人が同じマンションであることを知っている。

 そしてそれを知られたのは、完全に白雪の過失だ。


 和樹の妹を直接見てみたいと思って、エレベーターにわざと同乗するようにしたのである。それがなければ、白雪が和樹と同じマンションに住んでいることを美幸が知ることはあり得ないし、東京駅ですれ違った時も、そこまでは注目されはしなかっただろう。


 とにかく何か言わなければと思うが、何を言えばいいか分からない。

 縋るように和樹の方を見たが、和樹もどうすべきか決めかねてるようで――。


「みゆ……」

「この子、兄さんと同じマンションに住んでる子でしょ?」


 和樹が何か言う前に、美幸が決定的な、そして誤解しようのない発言をしてしまっていた。


 全員の視線が、一気に二人に注がれる。


「姫様。今の話ってどういうこと?」

「あ、いえ……その……。あ、そうです。以前美幸さんが和樹さんの家に来る時に、ちょうど私とすれ違いまして」

「え? でも確か、四階に家がある感じだった……よね?」


 記憶違いを期待してみたが、ダメっぽい。

 どうしたらいいか分からず、白雪はもう一度和樹の方を見たが、その和樹もすでに打つ手なしなのか、大きくため息をついていた。


「可能性はあるとは思ってたが、そう言う事だったのか、和樹」


 誠の言葉に、和樹は「まあな」だけ返していた。

 隠し通せないと諦めたのだろう。


「姫様?」

「……はい、そうです。同じマンションに住んでます」

「やっぱりかー。その可能性はあると思ってはいたんだよね」

「そう……なんですか?」


 雪奈がやけにあっさりとしていたので、白雪は思わず訊き返してしまう。


「うん。偶然知り合ったにしてもさ、そんな高い頻度で会ってるって、マンション違うと大変だと思って。でも同じマンションならそこまでじゃないだろうなって」

「まあそれに、同じマンションというなら、和樹の家に最後まで玖条さんが残ってるのも納得だ。すぐに帰れるんだから、片付けまでそりゃあやっていくわな」


 雪奈の言葉に続けての誠の言葉で、白雪も和樹も、そこまで気にしなくてもよかったのかもしれないと思い始めた。

 が。


「ほえー。じゃあ兄さん、この……えっと、玖条さん?のおうちの方と知り合いなの?」

「姫様一人暮らしだよね」

「え!? まって、あの四階に一人暮らし!?」


 これには美幸以外の六人は何がそんなにおかしいのだろうという表情になる。


「美幸」


 さすがに和樹が立ち上がると、美幸の手を取った。

 そして何事かを話している。

 そのまましばらく兄妹の話し合いが行われていたようだが――。


「わかった、じゃあ、それでいいよ」


 何かの合意が行われたのだろう。

 美幸は納得したらしく、和樹も安堵していた。


(そ、そこまで気にしなくてもよかったんでしょうか……ね)


 もっといろいろ言われるかと思ったが、そういう事態にはならずに済んだらしい。

 そしてそのまま、美幸も花見に参加することになった。


 というか、どちらかというと花見の席の主役が美幸になっている。

 誠や朱里からしても、今で会うことがなかった和樹の妹は、とても気になる存在だったらしい。


 雪奈や佳織まで、美幸――年齢的には二学年上だから話しやすいのだろう――となにやら楽しく話している。

 ただ、白雪はちょっと入っていくのが怖いので、なんとなく呆けていたら、和樹が近くに来た。


「なんか……バレちゃいましたね」

「そうだな。まあ、考えてみたらなんだが、美幸はともかく、誠たちはあのマンションの上層が特殊なものだって知らないからな。せいぜい俺の部屋と同じくらいだと思っているんだろう」

「あ、なるほど……」


 近くに住んでいるというのは最初から話していたので、その『近く』が実は『同じマンション』だっただけだ。

 しかもお隣さんというわけではなく、フロアも違う。

 ご近所という言い方に間違いはない。


「あの……でも美幸さんは……」

「ああ、うん。なので今日、終わってから美幸には説明する必要がある。ただ、美幸には、あのマンションに関する情報は口止めしておいた」


 それが先ほどの話し合いだったらしい。


「わかりました」


 とりあえず安堵するが、それでもいつまでも隠してはおけないだろう。

 それに、隠しておく意味自体はあまりない。

 あまりに特殊な環境であるとはいえ、別に後ろめたいことがあるわけではないのだ。むしろ、去年の和樹の言葉ではないが、今年の花火大会はこのメンバーみんなを呼んでもいいだろう。

 和樹と二人きりの思い出もたくさん欲しいが、このメンバーでの思い出もたくさんほしいのだ。


「ところで姫様」


 いつの間にか雪奈が近くに来ていた。


「同じマンションってことは、前に誤魔化された月下さんと会ってる頻度、どのくらいなの?」

「え」

「やろうと思えば、毎日会うことだって可能だよね?」

「そ、それはそうですが、和樹さんだって仕事がありますから」

「あ、そうか……」


 助かった。

 和樹は基本的に家にいるが、それは仕事のためだ。

 普通は、仕事中にお邪魔することはしない。

 実際にはしているが。


 実のところ、最近ではほぼ毎日一緒に居る。

 今は学校が休みというのもあって、朝ご飯以外は夜帰るまでほとんど和樹の家にいることが多い。

 最近は買い物してきた食材は、自分の家にすら寄らずに、先に和樹の家の冷蔵庫に入れてしまっているほどだ。自分の分は朝食分だけあればいい。

 いちいちインターホンを鳴らして鍵を開けてもらうのも悪いので、大晦日に初めて使われたあの鍵は、今ではもう毎日の様に使っている。

 ともすれば、自分の家の様な感覚だ。


 もちろん、常に同じ部屋にいるわけではなく、むしろ話していないことの方がはるかに多い――というか仕事中は絶対に邪魔にならないようにしている――が、それでも、少しでも和樹のそばにいるだけで、白雪にとっては幸せに思えるのだ。


「でもさ、なんか姫様、少し変わった?」

「え? そうですか?」

「うん、どこがどう、とか具体的には言えないんだけど。振り返ってみたら、年明けた頃からかなぁ」


 どきりとした。

 表情に出ない様にするのに、全神経を集中させなければと思う程だ。

 確かにそのタイミングで、少なくとも白雪の中で変わったことはある。

 ある意味、覚悟を決めたということではあるが。


「なんだろ。すごく……前向きに見えるのに、なんか無理しているっていうか。いや、別にいつもじゃないよ。ただ、なんか……うん、やけっぱち、じゃないけどそれに近い感じが……時々。ごめん、なんかひどいこと言ってるね、私」


 改めて、雪奈の勘の良さ、あるいはその洞察力には恐れ入る。

 それは――おそらく正解だ。

 残る高校生活で、可能な限り思い出を残す。そのために、常に前向きにあって、楽しい思い出を、と思う一方で――その人たちとの繋がりが絶たれるのに、なんでそんな無駄なことを、と思う自分が、どこかにいる。

 それを無理にねじ伏せて、白雪は今を楽しく過ごそうと思っているが、それはある意味では自暴自棄やけっぱちになってるのに近いのかもしれない。


「いえ。大丈夫です。私を心配してくれてのことでしょう? 大丈夫です、雪奈さん。私は、大丈夫ですから」

「姫様……?」

「それより……お弁当どうでした?」


 強引に話題を転換する。

 それが無理があるのは分かっていたが、雪奈もこの話題をこれ以上続けたくはないと思っていたのか、先ほどの、少し深刻そうな顔を崩して、苦笑いになる。


「あー、それは……これ見れば明らかでは」


 雪奈が示した先には、完全に空になった弁当箱が転がっていた。


「全部なくなってる……」


 実のところ、材料的には十人分以上あったはずなのだが、見事にない。


「お姉ちゃんが無茶苦茶食べてたから。あと、美幸さんが凄かった」


 言われてから視線をずらすと、妊婦――とまでいかないが、膨らんだように見えるお腹をさすって横になっている小さな女性が一人。

 はた目にはご飯を食べ過ぎた子供以外の何者でもない。

 その横に同じように倒れているのが、美幸だった。

 なぜか二人はやり切った顔をしている気がする。


「そういえば姫様はあまり美幸さんと話してないけど、いいの? 月下さんの話とか聞きたいんじゃ?」

「あ……はい。あとでまた、と言われてまして」

「あ、なるほど。頑張ってね、姫様」


 何をだろう、と思わず疑問符が通り過ぎていく。

 その間に雪奈は輪の中に戻っていった。

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