第33話 一人の家
「いか……ないで……お父、さん……」
その言葉を最後に、白雪は眠ってしまった。
後には途方に暮れた和樹だけが残されている。
「……どうしろと」
買い物から帰ってきて、白雪に会ったのは偶然だ。
しかしどう見ても相当に体調が悪そうで、実際危うく倒れそうになっていた。
おそらく、学校を出る時には体調は悪かったのだろう。
彼女の通う学校からここまでは、歩いて三十分近くかかる。
今日は陽射しもかなりあるので、あるいは暑かった可能性もあるだろう。
それでやむなく彼女を家まで運び――寝室まで運んでベッドで寝かせたのはいいが、この先どうしたものか、悩むことになった。
彼女の最後の言葉通りなら、ここにいてあげるのが正解なのかもしれないが、起きるまでこのままだと、白雪がどういう反応になるのか、さすがに不安になる。
それに制服のまま寝入ってるわけで、しわになってしまうことを懸念するなら、脱がせるべきだろう。
だが、いつぞやの正月のコートですらできなかったのに、制服を脱がせるなどできるはずもない。
額に手を当てると、かなり熱く、呼吸も少し苦しそうだ。
この広い家でどこに何があるのか分からないが、少なくとも冷やした方がいいのだけは確かだろう。
できれば自分の家に戻るべきなのだが、一度外に出てしまうと、オートロックで閉じられてしまい、もう一度入ることができないので、その選択肢はない。
家主であれば指紋認証でも入れるのだが。
白雪に鍵を借りれば別だが、マンションのキーのコピーには認証が必要だ。彼女のスマホを直接持ちだすのは、さすがにはばかられる。
部屋を見回したが、さすがに救急箱などは見当たらない。
というより、ベッドと勉強用と思われる机、その隣にローチェストが一つしかない。服などはおそらくウォークインクローゼットに全部あるのだろう。
机の上にはさすがに色々置いてあるし、ローチェストの上も本を置くのに使っているようだが、それ以外に余計なものがほとんどない部屋だ。
ベッド自体もダブルサイズで非常に大きいが、それでも部屋からすると小さく見えるほどに、部屋が広い。
非常に殺風景に見える部屋だが、そのベッドの上に大きなウサギと猫のぬいぐるみが一緒に鎮座してるので、そこだけ雰囲気が違って見えた。
誕生日に和樹が贈ったぬいぐるみだ。
「大事にしてくれてるんだな」
少しだけそれに和んだが、とりあえず部屋を出て、キッチンか手洗いを探す。
さすがにすぐ手洗いが見つかった。
その脇に、丁寧にたたまれたタオルが収納されていたので、一枚拝借すると水を含ませてから絞る。
「しかし、洗面台一つとっても、全く違うな」
同じマンションとは思えないほどに設備が違う。
そもそも洗面台が二つ並んでいて、壁一面が鏡。デパートやスーパーなどのトイレならともかく、一般家庭でこんなものがあるとは思わなかった。
寝室に戻ると、白雪が寝苦しそうにしていた。
とりあえずタオルを額に乗せると気持ちがいいのか、少しだけ表情が穏やかになる。
「さてどうしたものか……」
「……あれ。和樹……さん?」
額が冷えたからか、気付いたらしい。
「えっと……あれ。私……?」
「体調崩してるようだが、大丈夫か。とりあえずタオルを濡らしておいただけだが。薬箱の場所も分からなくてな」
これだけ広いとどこに何があるのか、さっぱりである。
「す、すみません。ご迷惑をおかけして」
「いや、それは構わないっていうか、一番最初の時の俺の方がはるかに迷惑かけたからな。大丈夫か?」
「……あまり。ちょっとまだ……頭がぼうっとします」
「とりあえず制服は着替えた方がいいと思うが……」
「あ、はい、そうですね……」
もぞもぞと起きだすと、いきなり脱ぎだそうとした。
「まてまて! 俺が出て行ってからにしてくれ」
「……あ、すみません……そう、です、ね……」
一体白雪の中で自分はどういう扱いになってるのか。
父親だと思われているのはいいが、年頃の娘らしい羞恥心くらいはないのかと、不安になる。
「あの、できれば……着替えた後、一緒にいて、欲しいです」
「いや、それは……」
「一人はいや、なので……」
その気持ちは分からなくはない。
和樹も一人暮らしは長いし、体調を崩したことも数回ある。
そして、一人暮らしで体調を崩した時ほど、孤独を感じることはない。
まして、これだけ広い家に一人だけだと、普段からその孤独感を感じている可能性が高い。そして、高校生である白雪にとってのそれは、和樹のそれよりもずっと強いだろう。
「……わかった。あとで来る。ついでに、何か食べられそうなものも持ってくるよ」
「お腹はすいて、ないです……」
「こういう時は無理にでも食べた方がいい。食べやすいものを持ってくるから」
とりあえず納得してくれたようで、いったん和樹は部屋を出ると自分の家に戻った。
昨日炊いたごはんが余っていたので、それで手早く卵雑炊を作る。
「考えてみれば、こうやって持ってきてくれてたわけか」
半年と少し前、白雪が手当てをしてくれて、食事の面倒をみてくれた時のことを思い出す。
確かに、これから移動して持っていく手間を考えれば、その家で作った方が楽という白雪の意見は、もっともだった。
とはいえ、勝手の分からない白雪の家のキッチンを使うわけにはいかないが。
とりあえず蓋つきの器に入れて、トレイに載せた。
一食分くらいなら持っていくのは問題はない。
ストックしてあったスポーツドリンク、それに水筒に麦茶を入れる。そして、薬箱から風邪薬等を取り出してジャケットのポケットに入れた。
水分補給も必要だろうし、薬はあるとは思うが、探す手間を考えたらこの方が早い。
白雪の家の呼び鈴を鳴らすと、ほどなく返事があって鍵が解除された。
眠ってしまっている可能性も考えたが、そういうことはなかったらしい。
家に入ると、寝室の扉をノックする。
ややあって、「大丈夫です」と聞こえたので扉を開けた。
白雪はちゃんと着替えたようで、今は厚手のワンピースのような寝間着――ネグリジェを着ていた。
「とりあえず雑炊を作ってきたが、食べられるか?」
「はい。着替えてたら、お腹すいてきました」
時間は昼を少し回ったくらいなので、ちょうどお昼時だ。
サイドボードの上に、雑炊の乗ったトレイを置く。
白雪はそれを呆然とした様子で見ていた。
「食べさせようか?」
「……はい。じゃあ、お願いします」
「いや、冗談だったんだが……」
「ダメ、ですか?」
蕩けたような緩んだ表情が、どうしようもなく愛らしく思えた。
多分これが、本来の彼女なのかもしれない。
一緒にいる時はいつも楽しそうにしつつも、それでもやはりどこか遠慮があったように思えていたが、今は違う。
信頼している人にだけ見せる、無防備な顔。
その信頼に基づく要求を拒否する選択肢は、和樹にはなかった。
「……わかったよ」
諦めてさじで掬うと、軽く冷まして白雪の口元に運ぶ。
白雪は少し顔を前に出すと、それを口に含んでゆっくりと咀嚼した。
「美味しい……」
「普段の白雪の料理とは比べるべくもないけどな」
「そんなこと、ないです。とても温かくて、美味しいです」
白雪はそのまま全部食べ切った。
少しだけ顔色は良くなったように思えるが、額に手を当てるとまだ熱がある。
「とにかく休め。ああ、あとこれ、家から持ってきたやつだが、飲んでおくか?」
持ってきた風邪薬見せる。一般的なものだから、問題はないと思う。
それに冷感シートを渡す。
「はい。私も普段はそれなので、大丈夫です」
麦茶を注いだコップを渡すと、白雪は薬を飲みこんだ。
そのまま横になる。
「あとは寝ておけ。こういう時は寝るに限る。のどが乾いたら、これを飲んでおけ」
持ってきたスポーツドリンクをベッドの脇に置く。
「ありがとうございます。でも……ここに、いてください」
「……わかった」
和樹は諦めて床に座る。
それを見て白雪は安心したように微笑むと――目を閉じた。
ほどなく眠りに落ちたのか、規則正しい寝息が聞こえてくる。
「この家に、一人、か……」
家を全部回ったわけではないが、知ってた通り、桁違いに広い家だ。
おそらく和樹の家の五倍以上ある。和樹の家でも、三人家族はもちろん、四人家族でも少し手狭ではあるが、住めなくない程度の広さなのだが。
だが、彼女はこの家に一人で住んでいる。
この寝室にしたところで、ここだけで和樹の家のリビングほどの広さがあるのだ。
さっき覗いた洗面台があるエリアですら、和樹の寝室の半分以上。
そんな広い場所に一人でずっといれば、孤独感の方が強くなるのは、容易に想像ができる。
白雪が和樹の家に来たがる理由も、なんとなくわかる。
この家に一人でいる寂しさを、少しでも紛らわせたいというのもあるのだろう。
彼女の事情は分からない。
ただ、時々何かを諦めているかのように見えることがある。
高校生らしからぬ、というべきか。
まだ、過去より、未来に多く希望を見出せるはずの高校生だ。
まして、彼女ほど優秀であれば、将来どのような未来図を考えても、それを実現できるだけの能力もある。
なのに、彼女の語る希望は、いつも過去にその光景を求めているように思える。
自分に失った『父親』の姿を重ねているのは、その最たるものだろう。
何か、彼女の未来を閉ざすものがあるのではと思えてくる。
「『父親』としては……手助けできればいいのだろうがな」
一般的な同年代の男性よりは経済的には恵まれているが、どう考えても白雪はそれを上回る。
あとは、『父親』として精神的に支えることくらいしかできないが――彼女の事情をすべて聞くのは、躊躇われた。
彼女自身が言うのを、待つべきだとは思う。
もう一度白雪を見ると、だいぶ楽になってきているのか、かなり安らかな寝顔になっていた。
とりあえず今日の仕事は明日に回すことにして、和樹はしばらく、白雪の寝顔を見続けていた。
夕方過ぎ。
ようやく起きた白雪は、ほぼ回復していたはずなのに、羞恥で再び顔を真っ赤にしてしまうことになる。
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