第2話 手当て
「お前……不気味なんだよ」
ああ、この夢か。
すぐに夢だとわかるくらいには、何度も見てしまっている夢。
今話しかけているのが誰であるかは、もう思い出せない。
「ごめんなさい」
彼の背後では、ストレッチャーで運ばれて、人が車に乗せられている。
近くで赤い回転灯が明滅しているから、事故現場なのだろう。
ただ、実際にその事故を見たわけではないこともわかっている。
だからこれは、夢だとわかる。
ただ、それでも和樹は謝罪をしていた。
自分が起こした事故ではない。それはわかっていても、責任を感じざるを得ない。
それは、彼が――。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「しっかりしてください!! お願い、気付いて!!」
気を失っていたのはどのくらいか。少女の声で、和樹は現実に戻ってきた。
覚醒した意識と共に戻った視界には、女の子の顔が大写しになっている。
夜なのでわかりにくいが、それでも鮮やかな長い黒髪が、街灯の光の中でもはっきりと見て取れた。
やや大きめに思える瞳は、焦げ茶色の、どこにでもある日本人のそれだが、長い睫毛とすっと通った鼻梁、細い顎と暗がりでもわかる桜色の唇が、これでもか、というほどに完璧に配置されている。
美しい、とこの状況ですら思えるほどに、整った顔立ちだった。
しかし、そんな間の抜けた認識をした直後、体のあちこちからの抗議にも似た痛みに、思わず呻きそうになるのを何とか堪える。
「ありが……とう。何とか、大丈夫だと、思う」
とりあえず返事をしたので、少女は少し落ち着いたようだ。
とはいえあまり説得力のない強がりだと体中が抗議していた。
体の節々からの抗議をとりあえず押さえつけて、何とか上体を起こす。
あらためて少女を見ると、和樹が体を起こしたのに安堵した様子が見て取れた。
心配ない、というように、体を動かそうとして……その痛みに顔をしかめてしまう。
それをみて、少女の方が心配そうな顔になる。
「あの、救急車を……」
「ああ、いや、大丈夫。俺の家、そのマンションだから。出血もなさそうだし、頭も打っていない。まあどっか痛めたかもだけど、湿布でも貼っておけば大丈夫だから」
パーカーを羽織っていたのが幸いした。
そういって何とか立ち上がろうとして……ふらついた。
特に右足の痛みがひどい。商売道具といってもいい腕じゃないだけマシだが、どうやら相当に痛めたらしい。
「あの、肩を貸させてください」
和樹の了承よりも前に、少女は和樹を腕をとって体を支えてくれる。
「私の家もそこなんです。えっと、何階ですか?」
一瞬言うのをためらったが、立ち上がろうとしても足の痛みで立てない以上、ここで彼女の申し出を断る理由は、和樹にもなかった。
「……三階、三〇一だ」
「わかりました」
和樹が住むマンションは、セキュリティレベルの高い低層マンションで、外部からは専用のカードか登録されたスマホか、または住人に開けてもらわなければ入れない。
二十四時間常駐の警備員はいないが、遠隔で常時監視されており、異常があればすぐに警備員が駆け付けるようになっている。
ただ、さすがにマンションの前の事故になりかけた、という場面では駆けつけてくれないらしい。
入口で警備員を呼ぶこともできるが、大事にされる方が面倒だ。
幸いスマホは壊れておらず、エントランスを抜けてエレベーターに乗ると、目的の三階の数字を入れる。
エレベーター上昇時の一瞬荷重がかかる感触に、和樹はわずかに顔をしかめる。重心が一瞬、痛めた右足にかかってしまったのだ。
「あの、骨が折れたりヒビが入っていたりとかしていたら、やはり……」
「うん、まあそうなっていたらヤバイけど、多分違うと思うから……」
そういっている間に三階にたどり着く。
幸い、エレベーターから部屋までの距離は一番近い場所だ。
とはいえ、足の痛みはもはや歩くのが難しいほどで、肩を貸してくれる存在は本当にありがたかった。
つい先ほど出てきたばかりの扉にスマホを取り出しかざすと、カチャ、という音がして、解錠されたことを知らせる。
痛みで上手く扉を開けられない和樹に代わって、少女が扉を開いた。
開いた扉に反応して、自動的に照明が灯る。
「部屋の構造、違うんですね……」
少女の言葉に、少なくとも彼女が同じマンションでも違うフロアであることが分かった。
このマンションは一階と二階がファミリー向けで、三階が単身者や夫婦などに向けた小さめの部屋、さらに四階および五階がファミリーを含めた、いわゆる高所得者層向けになっている複合の低層マンションだ。
和樹の部屋は三階。おそらく家族で住んでいるのであろう少女の部屋とは、当然構造が異なるだろう。
「ありがとう、ここまででいいよ。あとは何とかなるから」
深夜に女子高生を部屋に入れるなど、下手するとこれだけで通報案件である。
いくら同じマンションの住人とはいえ、避けられるリスクは避けるべきだし、第一誰かが来ることを想定していない。
「家の中で這いずって行かれても困ります。寝室までは運ばせてください」
言葉尻は丁寧だが、有無を言わせない強い口調だった。これは抵抗しても無駄だろうと、右側の手前の扉を示す。
「そこ、寝室だから、そこまでで」
少女は頷くと、靴を脱いで廊下に踏み出す。その際、器用に和樹の靴も脱がせてくれた。靴が外れる際のわずかな衝撃でも、痛みに顔が歪む。
心配そうに見てくる少女に、「大丈夫だから」とだけ言うと、何とか家に入り込んだ。
寝室は六畳の洋間だ。窓は二面。共有廊下に面する北側と、角部屋特権の東側。当然どちらも今は暗い。
なんとか寝台に腰を下ろすと、ようやく人心地ついた気がした。
「ありがとう、……ええと、ごめん、名乗っていなかったね。俺は月下和樹だ」
とりあえず、足首を確認すると、見事に腫れ上がっていた。ただ、痛みの感じからして、骨を損傷したということはないと思う。
わずかに動かすだけでも痛いが、この痛みは骨ではない。
「とりあえず患部を冷やして、それから湿布を貼って……ありますか?」
「ああ、一応救急箱くらいの用意はあるから、大丈夫」
言ってから、どうやって取りに行こうと思ったが、まあ少女が帰ってから何とか這って行けばいい。
左足もわずかに痛むから、片足でいく、というのは無理そうだが。
「どこにあるのでしょう?」
「え」
「その足では家の中もまともに歩けないと思います。私を庇って怪我をされたのですから、せめてそれくらいはさせてください。……あ。すみません。私も名乗っていなかったですね」
そういうと、少女は寝台に座った和樹に対して、姿勢を正して正対する。
「私は
白雪というのはちょっと珍しい名前だな、というのが最初の印象だった。
四階ということは、いわゆる富裕者向けのフロアだ。予想は出来たが、いわゆるお嬢様ということだろう。
白雪と名乗った少女を失礼にならない程度に見れば、所作や佇まいなどからも、その育ちの良さが見て取れる。
それだけに、責任感も強いのだろう。おそらく、今帰そうとしてもテコでも動かない気がする。
「……分かった。ダイニングのところにカウンター的なボードが張り出しているんだけど、その下に入れてあるはずだ」
少女――白雪は「わかりました」とだけいうと、部屋を出ていく。
ガタゴト、という音が聞こえるのが不思議な感じだった。
通常、この部屋には自分以外誰もいないので、自分がいる場所以外で音が響くことは、基本的にない。
いたら泥棒ということになるが、このマンションのセキュリティでそれはないだろう。
振動などにも配慮した
ややあって、白雪が戻ってきた。
「すみません、冷蔵庫を開けて、氷を拝借しました」
即席の氷嚢を作ってきたらしい。覆われているタオルは見覚えがないので、白雪が持っていたものだろうか。
それを腫れ上がった患部に当てると、ひんやりとした感覚が拡がっていく。
「どうですか?」
じくじくと熱を持っていた部分が、急速に冷やされていくのがわかる。
「少し、楽になったと思う。ありがとう、玖条さん」
名前のインパクトがあったので、危うく白雪、と呼びそうになったが、今日初めて出会った女性にそれは失礼だろう。
実際少しだけ腫れが引いた気がする。
痛みが引いて、冷たいという感覚が強くなってきたと思ったら、白雪が素早く湿布を貼り、テーピングをしてくれた。
「……慣れているんだな」
女子高生に似つかわしくない手際だったので、思わず言葉にしていた。
「まあ、一応」
何か濁すような言葉だったが、和樹は追求せず、とりあえずパーカーを脱ぐ。
予想はしていたが、パーカーは盛大に生地が痛んでいて、おそらくもう使い物にならないだろう。
まあ、いつ買ったのかも覚えてないくらい着古したものなので、寿命だったと諦めることにした。
そして、下のスラックスも脱ごうとしたところで――まだ白雪が部屋にいることに気付く。
「いや、もう大丈夫だから、君も家に帰りなさい。もう二十三時近い。ご両親も心配するだろう」
というより、下手すると今頃警察に連絡してる可能性すらある。
いくら何でも、この時間は高校生が家にいない時間ではない。
「あ、いえ。そちらは大丈夫です。でも、月下さんが歩けないのでは、この後どうされるのかと……」
律儀な子だ、と改めて感心する。
見た目、おそらく高校の、それも一年生か二年生。
何回か見たことがある制服なので、おそらくこの近辺の学校なのだろう。
「大丈夫。多分骨にまではダメージはないから、君が手当てしてくれたし、明日には歩くくらいは何とかなると思う。今日はもう寝るから、君も帰りなさい」
本当は食事に行くところだったのでお腹もすいているのだが、さすがに今から食事に行くわけにもいかないし、デリバリーなどを頼むのも無理だ。
このマンションはセキュリティ上、デリバリーはそれを受け取る専用口が各フロアあって、そこまでは歩いていかなければならないのだ。今の状態ではそれは厳しいし、かといって彼女に頼るわけにもいかない。
「……わかりました」
とりあえず納得したのか、白雪はやや申し訳なさそうにしつつも、部屋を辞す。
このマンションの鍵はオートロックなので、玄関まで送る必要がないのが助かった。
「では、失礼します。お大事になさってください」
部屋をでる最後の、白雪の言葉が妙に耳に残ったが、和樹はじくじくと痛む足と、ひんやりとした湿布の感触を感じつつ、眠りに落ちていた。
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