第6話 懐かしい言葉
家に戻った白雪は、とりあえず持って帰ったタッパーを洗い桶に沈めると、冷蔵庫を確認した。
材料はまだ十分にあるから、手早く献立を考える。
夜の分はまたあとで考えて、足りないものがあれば買いに行けばいいので、とりあえず昼だけ献立を考え始めて――ふぅ、とため息めいた吐息が出た。
『美味しいごはんは活力の源だから』
幼い頃、何度も聞いた言葉。
自分が料理をする、そして美味しく作ろうとする原点でもあるそれを、全くの他人から聞くとは思わなかった。
「お父さん……」
リビングの片隅にあるフォトフレームを視界に収める。
そこには、若い男女と、その間に挟まれる幼い女の子が映っている。
(あの人とお父さんは違う、けど……)
交通事故から抱きかかえるように守ってくれた和樹。
その彼の言葉から、もっとも慕う人が想起され、さらに八年前の記憶と結びつく。
天地がひっくり返ったような衝撃と、温かい腕。
そして続く衝撃。
ぶる、と体が震えた。
記憶が、今でも体を
ただ、あの時も今も守ってくれた。
違うのは、守ってくれた人のそのあと。
「生きていてくれて……良かった……」
涙が零れる。
忘れたくても忘れられない。
冷たくなっていくその体を、全身で感じた絶望。
幸せの記憶の、最後の一ページ。
「……さて、準備しないと、ですね」
ぶんぶん、と頭を振る。
少なくとも和樹は生きているし、命の心配はないはずだ。
心配といえばむしろあの足でまともに歩けないことと、食事の心配。
食事以外はさすがに手助けできないが、食事なら手伝える。
冷蔵庫にまともに食料がなかったし、キッチンの状況から、昨夜も食べてなかった可能性があるとすると、あれでは足りなかったのでは、と思う。
大柄とは言わないが、平均的な男性より上背はあったし、肩を貸したときの感じから、見た目よりがっしりしているようにも思え――少しだけ羞恥にもにた感情を自覚した。
考えてみれば、男性の体にあれだけ接触したのは、おそらく父親以来。
当然、思春期以降では初めてだ。
(なんか頼りがい、ありましたね――)
それが、かつての父と同じ言葉を言ったからなのか、それ以外の理由からなのかは、白雪にはわからなかった。
「さて、とりあえずお昼の準備しましょう」
水に沈めたタッパーは後で洗うことにして、冷蔵庫を開けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
十二時半きっかりに、白雪は和樹の部屋を訪れた。
来るのがわかっていたからか、和樹はすぐ扉を開け、白雪を迎える。
まだ右足を動かす際に痛そうに顔を歪めるので、まだかなり痛むのだろう。
ただ、先ほどとは服が変わっていた。
見ると、こざっぱりしている気がするで、おそらく風呂に入るかシャワーを浴びたか。
足が痛かっただろうに、大変だったのでは、と思ってしまう。
「お邪魔します、月下さん」
「ホントに来るとは……まあ今更か。いらっしゃい、玖条さん」
半ばあきらめたような雰囲気もあるが、拒否はされなかったので迷わず入る。
足を引きずるように歩く和樹に続いて、今朝もお邪魔したリビングに着くと、そのままキッチンに入った。
朝に置いた皿はもうほとんど乾いていたので、キッチンペーパーでまだ残っていた湿り気を取ると、お昼に使うお皿はそのままにして、残りは食器棚にしまう。
(今朝も思いましたが、一人暮らしにしては食器の数が多いですね)
昨日から今日にかけての言動から、ほぼ確実に和樹は一人暮らしだ。
そして少なくとも、すぐに来てくれるような距離にこういう時助けてくれるような人――家族や恋人や友人――もいないようだ。
ただ、その割にはお皿は四枚のセットのものが多い。
食器をあまり洗わないで済ませる人という可能性もあるが、見た感じどれもきれいにして並んでいるので、そこまでずぼらではないと思う。
自分の家も食器は無駄に多いが、自分の今の家が一般的ではないことはわかっているので、参考にはならないだろう。
ただ、それを言うと男性の一人暮らしがどういうものかなど、白雪が知るはずはないので、こういうものと思うしかない。
作ってきた食事は軽くタッパーに詰めて持ってきたが、ほぼ出来立てでありまだ温かい。
適当な皿を見繕ってそれぞれによそう。
持ってきたのはカルボナーラパスタにサラダ。それにポタージュスープだ。
カルボナーラを深皿によそうと、仕上げの半熟卵を割り、黒胡椒をかける。
ほんの五分ほどで準備は終わり、和樹の待つダイニングテーブルの上に並べた。
「なんか本当にすまないな……いや、この場合はありがとう、か。助かるよ、玖条さん」
「いえ。私の方こそ、助けていただいたお礼ですから。さあ、冷めないうちに召し上がってください」
和樹はうなずくと、手を合わせて「いただきます」と言ってからまずスープから食べ始めた。
食べている間は終始無言――ではなく、時々感嘆するような言葉が漏れる。
その食べている様は白雪にはとても嬉しく思えた。
誰かのために食事を作るなど、両親がいなくなってからは初めてだ。
『美味しいよ、白雪。こりゃ、将来はいいお嫁さんになるな』
最後に作った時の父の言葉が思い出された。
あの翌日――それが最後の幸せの記憶。
「ありがとう。本当に美味しかった」
その言葉に顔を上げると、きれいに空になった皿の前で、和樹が「ごちそうさまでした」と再び手を合わせている。
「はい、お粗末様でした」
白雪は食器をキッチンに運ぶと、軽く流して洗い始めた。
このマンションは食洗器もあるが、さすがにこの数は手で洗った方が早い。
洗い終えてから、改めてキッチンを見渡す。
自分の家と比べると当然小規模だが、設備そのものはほぼ同じ。
むしろコンパクトにまとまってるので、使い勝手はこちらの方がよさそうとすら思える。
(これなら、ここで作った方が楽ですよね……)
家で作って持ってきていたが、いちいちできたのをタッパーに詰めて持ってくるのは面倒だった。
だから、お昼ご飯に関しては移しやすいものにしたが、考えてみれば材料だけ持ってきてここで作る方がいい。
いっそ一緒に食べてしまえば、わざわざ自分だけ家で食べる必要がない。
「あの……夕食なのですが、ここを使わせてもらってもいいですか?」
「へ?」
和樹が、呆気にとられたと表現するしかない顔になっていた。
なぜかそれがおかしくて、思わず笑いそうになる。
「いえ、ですから。少なくとも今日の夕食まではお世話させていただきますが、うちから作って持ってくるという手間をかけるよりここで、と思いまして。もちろん、後片付けまできっちりしますから」
「いやいやいや。そこまでしなくても。それに夕食も、と言ってくれるのはありがたいけど、自分でも料理くらいはできるし、もう十分だよ。足がこれでもそのくらい」
「でも、冷蔵庫に食材ほとんどありませんよ?」
和樹が言葉に詰まる。
実際、白雪でもあの中身ではまともな料理を作るのは難しいというレベルで、何もない。
出来て玉ねぎのソテーくらいか。
そもそもお米すらないのだ。
「あー、うん。じゃあ、その、買い物だけお願いできれば。そうすれば、後は自分でやるから、もう恩返しとしては十分なので……」
そう来たか、と思ったが、白雪はすでに反論を準備していた。
「お米もないのに、ですか? というか、お米とか根本的に足りてないものを買うほうが、私には大変なんですけど」
再び和樹が言葉に詰まる。
一番小さい米でも二キログラムはある。
それに加えて食材を女子高生に買ってこいというのが、どれだけ負担かなど、考えるまでもないだろう。
「ですので、私の家から食材を持ってきて、ここで作らせてください。そうすれば私も出来上がってから持ってくる手間はないですし、恩返しもできて一石二鳥です」
「そうはいっても、君のご両親がなんていうか」
「そっちは問題ありません。というか絶対に何も言ってきませんから」
言うはずがない。そもそもいないのだから。
和樹はその白雪の断言に驚いたようになりつつ、なおも反論できないか考えているようだったが――しばらくすると「わかったよ」と折れた。
実のところ、とりあえずカップ麺でも買ってきてくれれば、という問答までは考えていたが、その出番はなかったらしい。それすら全くなかったので、普段あまり食べないのかもしれない。
「では、夕方過ぎにお邪魔します。そういえば、今のところ大丈夫なようですが、アレルギーとか食べられないもの、あるいは嫌いなものとかはありますか?」
「いや、アレルギーは特にないよ。食べ物で嫌いなものも特にない。強いて言えばゲテモノ系は好まないとは思う、というくらいだ」
さすがにゲテモノ系は自分も遠慮したい。
となると嫌いなものはないという事でいいだろう。
「よかったです。あと、今何があるか、あらためて確認させていただいてもいいでしょうか?」
「好きにしていいよ」
見られて困るものもないし、と言われて、白雪はキッチンに戻る。
設備は問題なし。
鍋やフライパンは結構揃っている。
調味料も基本はあるがいくつか足りないものもある。
とりあえず家に今ある食材を思い浮かべて――メニューを考えてみる。
(うちにあるもので……ちょっと足りないですね。買ってきた方が早いでしょうか)
野菜類は十分あるが、肉が足りない。
魚は基本新鮮さを優先するため、使う直前に買うのを基本としているので、ストックしてあるものはもうない。今朝使った切り身が最後だ。
(となると、買いに行くとすれば、メニューの自由度は上がりますが――滅多に人に食べてもらえることなんてないんだし――)
学校でお弁当のおかずをシェアするようなことはごく稀にあるが、作り立てを食べてもらうなどというのは、家庭科の調理実習くらいしかない。それとてメニューの自由度はあまりない。
つまり、こういう機会は意外にない。
それならば、と頭に浮かんだメニューにすることを、白雪は決めた。
「それでは、いったん失礼いたします。洗い棚にあるタッパーは、後でまとめて引き取りますので、そのままにしておいてください」
「わかった。あ、そうだ、ちょっと待って」
和樹はそういうと、足を引きずりつつリビングの片隅にあるパソコン――の横にあるカバンから財布を取り出した。
「さすがにこれくらいはさせてくれ」
そういうと、財布から一万円札を取り出して渡してくる。
「そんな、受け取れません。そういうつもりでは」
「そういうのじゃないよ。材料費だ。君の家から持ち出すにせよ、これから買うにせよ、全部君に出してもらうわけにもいかない。余ったら返してくれればいい」
「でも」
「料理してもらうことへの対価というつもりはない。それは君の厚意を否定することになるし、そこはありがたく受け取るとしても、俺も一応社会人なわけで、学生にそこまでしてもらっては立つ瀬がない。だから、材料費だけでもね」
「……わかりました。余ったらお返しします」
しぶしぶではあるが受け取ると、和樹も安心したらしい。
「ああ、あとそれから……玖条さんのスマホ、あるかな」
「え? これですが……」
取り出したスマホを見て、和樹は自分のスマホを操作する。
「はい、このコード読み込んで」
和樹は自分のスマホに表示された二次元コードを白雪に示す。意味が分からず、とはいえ害意があるとは思えなかったので素直に従うと――マンション管理用アプリが起動した。
続けて『三〇一号室の二十四時間限定キーを受信しました。有効化しますか?』というメッセージが表示される。
「え?」
「正直なところを言うと、鍵を開けるための移動も難しくてね。君が何かするとは思えないし、入ってきてくれていいよ」
「不用心とは言いませんが……そこまで信用いただけるのはちょっと驚きです」
「疑う理由の方がなさすぎるからね。君が善意でやってくれてるのはわかるし」
「わかりました。確かに、その足で玄関まで来ていただく方が大変ですしね」
白雪はタッパーを入れていたバッグだけを持って玄関に行こうとして振り返る。
「お見送りは大丈夫です。早く足が治るように、無理しないでくださいね」
白雪はそれだけ言うと、玄関を抜け――自分の部屋に戻るべくエレベーターに歩いて行った。
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